SF私言 中島河太郎

 リバイバルブームの先蹤の一つになった「少年倶楽部」は、しきりにもてはやされて、当時の雑誌まで古本界で高値を呼んでいる。私もその熟心な読者の一人だったが、それに飽きたらなくなった頃、むさぽり読んだのが「中学生」であった。
 研究社の発行で、星で有名な野尻抱影らが編集していたが、奇譚や海外の探偵冒険物の紹介に力を注いでいた。月へ人間を載せた砲弾を打ちあげる話に興奮したのも、本誌のお蔭だった。
 これは大正から昭和にかけての雑誌だったと思うが、単行本のSFに接したのは、改造社の「世界大衆文学全集」所収の「宇宙戦争」と、「海底旅行」がはじめてだった。
 古い雑誌を調ぺていると、ときどきおもしろいことに気付く。「女性」の昭和三年二月号に、「科学小説」という肩書の作品があるから、ここらあたりが創作科学小脱のはじめかと期待した。『人造絹糸』と題して、作者は春田能為とあるから、甲賀三郎の本名である。
 三月号には「セルロイド」、四月号には「空中窒素」、五月号には「化粧石鹸」が載っているが、いずれも正真正銘の科学現象を扱って作品化したもので、工科出身の甲賀らしい試みであった。たしかに科学小説という肩書に間違いはなかった。
 ヴェルヌ、ウエルズ、ドイルらで培われたはずのSFへの嗜好が、そのまますくすく伸びていけば、いまごろはSF愛好者のもっとも古参になったはずだか、かれらに続いてSFへの興味を持続させるほどの作家が紹介されなかったため、推理小説へ深入りしてしまったのである。
 その頃国産のSFといえば、海野十三がほとんど一手で、供給していた。その先駆者として、小酒井不木城昌幸稲垣足穂地味井平造らか思い出される。不木の「恋愛曲線」や「人工心臓」など、医学と直結させようとした試みだが、ストーリーの起伏に乏しかった。昌幸や平造は幻想的だが、そういう傾向は江戸川乱歩水谷準渡辺温ら、当時の探偵文壇には大なり小なり見られたところである。
 大正末期に突如出現した探偵小説という新分野に、従来の文壇小説に飽きたらないアマチュア作家たちが関心を寄せて集ったのだ。佐藤春夫のいう猟奇耽異の文学は、初期の探偵小説の包括性をうまくいい当てたもので、欧米流のオーソドックスな探偵小説の理念を理解している作家に乏しかったのである。
 いわば「探偵小説」の拡大解釈だったから、謎解き小説に怪奇小説幻想小説が同居していても、だれも奇異の念を抱くものはなかった。せいぜい「変格探偵小説」という珍妙な名称を、生み出したくらいのものであった。
 日本人の情緒性に流れる性格が、幻想小説は生んだけれども、それ以上の強力な展開を示すに全らず、空想科学小説の領域では工学士佐野昌一の海野が、孤軍奮闘することになる。海野は「新青年」に探偵作家として紹介される以前に、「科学画報」や「無線と実験」誌上で、SFの試作を発表しているのだか、やはり試作の域を出ていないようである。
 「赤外線男」「蝿男」「俘囚」「十八時の音楽浴」などの系統と、純探偵小説とがあるか、発想を昇華するほどの描写力が伴なわなかった。自然稚気が目立って、強力な新文学の建設者になるほどの力量をあいにく欠いていた。
 星新一の出現を歓んだのは、その奇妙な味と掌篇との組み合わせである。ショート・ショートの形式は、戦前の小品・コントにたどれるのだから、別に異とするまでもなかった。その素材の処理に従来の微温的態度を一擲して、沈潜した戦慄の鉱脈を掘りあてた点に、新鮮な驚きを覚えたのである。
 その後のSFの隆盛は、ようやく栄ゆる時に遇ったという感じであった。戦前からの長いSFの系譜の上に築かれたものではなく、欧米の潮流から直接投影したために、年配の読者は戸惑いし、喰わず嫌いを生じた気味がある。
 欧米のSFがその展開の跡をたどれるよう、その時々に応じて紹介され、日本のSF創作の流れが中断されず、細細とでも続いているのであったら、こんな断層を感じさせなかったのであろう。なにしろ宇宙科学の初歩も弁えないような古い世代の読者には、まず用語の難関を突破しなければならないし、独りよがりの文明批評をきかされるのも面倒である。
 斬新さが身上であったはずのSFも、ステロタイプ化しマンネリズムとなり、溌剌さを失う危険性がそろそろ見えはじめた。それにしてもここ数年の異常な発展ぶりは、近年の壮観であった。長年の間、探偵小説の陰にあったSFの萌芽が、こんなに一時に生長を遂げようとは、だれも予想できなかったろう。
 発展が急激であれぱあるほど、どこかに背伸びのための無理が生じてくる。それがもう一層の拡がりを妨げているように思えてならないが、果たしてどうだろうか。

SFとのおつき合い 峯岸久

 ミステリーの翻訳をやっているうちに、なんとなくSFの作品にも触れるようになり、いつの間にかSFの翻訳ばかり手がけるようになった。
 なんとなくといったが、きっかけはわかっているので、一つはジョン・ウインダムの『トリフィドの日』にぶつかったためであり、もう一つはSFマガジン初代編集長の福島正実氏と年来の友人だったためである。
 友人といっても、福島編集長は、私のような怠け者の翻訳者のお尻をたたくすべは見事に心得ていて、おかげでこの怠け者が幾つか翻訳を出す羽目になったのだが、その意味では彼が編集者の仕事を離れて作家として独立したのは、私としてはちょっぴり残念な気もするのである。
 ところで『トリフィド』との出会いは、SFも知らなければウインダムも知らぬ時の、全くの偶然だったので、それだけにその魅力に純粋に引き込まれた。おかげでその作品を次々に手がけることになったが、先年その彼も歿して、新しい作品にはもう触れられなくなってしまった。これもはなはだ残念なことである。
 ウインダムのおかげで、SFの面白さを知ったので、そのあとも努めてSFの作品に触れるようにしたが、彼がイギリス人だったせいか、ジョン・クリストファーやジョン・バラードなど、イギリスの作家ばかり追いかけることになった。この三人、いずれもファースト・ネームがジョンなので、三人のジョンさんとつき合ったという気がしているが、真中のクリストファーさんは縁がなくて、まだ翻訳していない。私に限らず、まだその作品は翻訳されていないと思うが、彼の『草の死』(The Death of Grass)や『冬の世界』(The World in Winter。『長い冬』という書名もある)は大変いいもので、早く紹介されるといいと思う。
 バラードは『沈んだ世界』、『結晶世界』と二つだけおつき合いしたが、ウインダムなどの平明な文体と違って、大変凝ったもののいい方をするので、日本語にするには骨である。”新しい波”などと称される最近の短編の中には、大変すばらしいものもあるが、とてもおつき合いしかねるといったものもあるようだ。
 イギリスついでにブライアン・オールディスの作品を二つぱかり読まされて、好きなほうを翻訳しないかと薦められたが、怠け癖がだんだんひどくなって、よほど面白がらないと引き受けなくなったので、ご辞退した。ただしそのうちの『宇宙船』(The Starship)というのは、なかなかよかったと思う。いずれこれも紹介されることだろう。
 アメリカの作家ではシェクリイ、ブラウン、シマックなどという人の中・短編におつき合いした。シマックさんなどはわりに気が合うほうらしく、幾つか手がけた。ごく一般的にいって、アメリカの作家は、イギリスのそれに比べると、いずれも才気にあふれている感じである(時には才気に走りすぎたりするが……)。お国がらか、それともサービス精神か。最近大評判のマイクル・クライトン(『アンドロメダ病原体』)にさえ、それがうかがわれる。ただし最近接したロジャー・ゼラズニイという人の″才気″には感心した。それが粋なところにまで昇華して、まことにサッソウとしている。『伝道の書に捧げるバラ』(A Rose for Ecclesiastes)という中編がとりわけよかった。これも早く紹介されるといいものの一つである。
 こうして見ると、私とSFとのつき合いもそう大して深いものではない。古今東西にわたって作品を広く読んでいるわけでもなく、またSFでなければ夜も日も明けぬというほど熟を上げているわけでもない。むろん”研究”などといえるほどの打ち込み方もしていない。ただごく平凡に好きなだけだ。
 しかし、ごく平凡に好きな読者がふえるほうが、SFを本当にこの国に根づかせることになるのではないかという気がする。またそうした読者を広く獲得してゆくだけの魅力を、SFは十分備えているように思う。怠け者の私などが、編集者にお尻をたたかれながら、こりもせず翻訳を続けているのも、そうした魅力を一人でも多くの人に伝えたいと思うからにすぎない。
 SFのどこがいいのか、一口にいってみろといわれても、ちょっと困る。論議の好きな方には、イギリスの小説家キングズリー・エイミスという人の『地獄の新地図』(New Maps of Hell)というSF諭が、まことに格好な手がかりを与えてくれるはずである。この翻訳はだいぷ前に着手されているはずだが、いまだに現われてこないのは残念である(怠け者は私だけに限らぬようで安心した)。ただ、論議だけでは面白さは伝えられまい。面白さを伝えるには、いい作品が出てくるのが一番である。
 その意味で、このごろ傑出した作家があまり出なくなったような気がするのは、少しさびしい。怠け者をふるい立たせるような作家がいない。しかし、何といっても文芸作品である。一人の天才が現われれば、たちまち理屈を越えて、万人を引きずり込んでしまうに違いない。ぞのつもりで、気長におつき合いしてゆこうと思っている。

わがロスト・ワールド 石上三登志

*少年冒険小説<恐竜の足音>を読み、興奮感激する。後にこれがドイルの<ロスト・ワールド>の翻案であった事を知る。作者は高垣眸だったと思う。
手塚治虫の科学漫画<前世紀星>にて、恐竜漫画にはじめて出会う。
南洋一郎の冒険小説<緑の無人島>、表紙の恐竜につられて購入。コモド島のトカゲの類であるのに失望する。
山川惣治絵物語<少年王者>を読む。湖より出現したブロントサウルスと、怪人アメンホテップとの対決に狂喜する。
松下井知夫の科学漫画<新バグダッドの盗賊>に、ブロントサウルス型ロボット出現。この漫画で、SF好きが決定的となる。
福島鉄冶絵物語<コンドル魔島>及び続篇<コングの猛襲>(逆かもしれない)で、恐竜大安売りを楽しむ。
手塚治虫の<ジャングル大帝>、大団円近くに恐竜発見。
さらに<化石人類>他で手塚産恐竜にとりつかれる。
*わが家の古本の中から<のらくろ>を発見。山と間違えて恐竜の背中に登るくだりのみ記憶する。
山川惣治の<少年ケニヤ>、ティラノサウルスの活躍にニコニコする。
*ワイズミュラー主演<ターザン砂漠へ行く>を見る。実物トカゲの拡大合成なるも、動く恐竜に大感激する。
*前世紀映画<紀元前百万年>を気る。映画の恐竜に失望を感じはじめる。
*戦後再上映された<キング・コング>を見る。ス力ル・アイランドに出没する、愛すべき恐竜達に熱狂、熟を出す。
翌日再び見る。腹をくだす。翌々日ポスターをかっぱらう。
恐竜アニメーター、ウィリス・オブライエンの名を知る。
*小山書店より世界大衆小説全集の第一巻として、待望<失われた世界>全訳か出版される。大仏次郎訳である。一気に読了、発熱する。
*映画<失われた世界>封切られる。解熱剤ポケットにかけつけるも、恐竜シーンのすぺてが<紀元前百万年>のそれであるのに愕然、発熱する。ドイルとはまったく関係ない三流映画であった。
*映画<踊る大紐育>を見る。ジーン・ケリイやシナトラよりも、博物館シーンの恐竜の骨に見とれる。
*映画<ゴジラ>を見、大いに怒る。
*映画<原子怪獣現わる>を見る。後に原作がブラッドベリの<霧笛>であることを知る。当時のメモには、バラドバリイとかいてあった。恐竜アニメーター、レイ・ハリイハウゼンを知る。
*ディズニイの長篇アニメ<ファンタジア>を見る。<春の祭無>の恐竜大バレードに感激する。
ウィリス・オブライエンレイ・ハリイハウゼン共演の<動物の世界>を見る。
ジュール・ヴェルヌ地底旅行>を読む。
ブラッドベリの<霧笛>、<雷のような音>を読む。バンタム版だったと思う。
*シネマスコーブ版<失わわた世界>公開。その実物トカゲ拡大に激怒する。
シネマスコープ版<地底探検>公開。再びトカゲで激怒する。20世紀FOXのSF映画を信用しないことにきめる。
*テレビの<鉄腕アトム>放送開始。<タイム・マシンの巻>で動く手塚恐竜に会う。
*テレビで、戦前公開の<コングの復讐>を見る。オブライエン恐竜に再感激する。
*テレビの<森繁のハリウッド劇場>で、オブライエンのアニメートした<ロスト・ワールド>の断片を見る。しばし狂う。
フレドリック・ブラウンの<晟後の恐竜>を読む。
*<キング・コング>劇場最後の公開を見る。渋谷東映地下なり。
*フランスの映画雑誌<ミディ・ミニュイ・ファンタスティク>のオプライエン特集号を入手。一週間ほどヒステリックになる。
*ハリイハウゼンの<恐竜百万年>を見る。<紀元前百万年>の再映画化である。
*ハリイハウゼンの<恐竜グアンジ>を見る。故オブライエンのアイデアと聞き、涙する。
*新訳<ロスト・ワールド>を読了。これが、何よりもまず、秀れた”小説”であることを痛感する。
 チャレンジャー教授に、探偵小説でいえば、ディクスン・カーメルヴィル卿、レックス・スタウトネロ・ウルフの原型を見る。すなわち、キャラクターのオリジナリティであり、厚みである。そんなキャラクターが、SF界に何人いるのだろ。ネモ艦長、ダニエル・ブーン・デイヴィスと護民官ピート、チャーリイ・ゴードンとアルジャーノン、ライスリング、イライジャ・ベイリー、グリフィン、ガリハー・ホイル……
 メイプル・ホワイト・ランドに、様々な虚構世界の典型を見る。バルスーム、ペルシダー、ディック風インナー・スペース、ベスター風超感覚世界、ヴェルヌ風海底、光瀬風未来……
 そして、次々に展開するプロットの妙に、イギリス・ロマンの伝統を見る。H・R・ハガード、ジョン・バッカン、イアン・フレミングアリステア・マクリーンディック・フランシス……
 僕はSF好きだが、マニアではない。だから、まずそれが”小説”として面白くなければ、それ以上の評価をしないし、SFとしても認めない。SFにはいい”小説”が少ない。SFであるためでなく、小説であるために、後世に残ってほしい。わが<ロスト・ワールド>は、まさしく”小説”なのである。
 アリゾナ州モニュメント・ヴァレイに行く。この、フォード西部劇の背景が、太古のころ恐竜の本場であったことを知り、うろたえる。イグアノドンの足跡に、ドイルの<失われた世界>の巻類句を思う。


″半ぶんおとなの男のお子か
半ぶん子供の男の衆が
一時なりとも喜びなさりや
へたな趣向も本望でござる″(大仏次郎訳)

翻訳者紹介

加島祥造(かしま・しょうぞう)
大正十二年東京に生まれる。
昭和二十ニ年早稲田大学英文科卒。
英米文学研究家。
主訳書
 ロバート・ゴーヴァー『百ドルの誤解』(早川書房刊)
 エド・マクベイン『カリブの監視』(早川書房刊)
 デイビィッド・イーリイ『観光旅行』(早川書房刊)


永井淳(ながい・じゅん)
昭和十年秋田県に生まれる。
昭和三十二年埼玉大学英文科卒
英米文学翻訳家。
主訳書
 ジョン・トーランド『最後の一〇〇日』(早川書房刊)
 サーバン『角笛の音の響くときI(早川書房刊)
 ゴア・ヴィダール『マイラ』(早川書房刊)


斎藤伯好(さいとう・のりよし)
昭和十年東京に生まれる。
昭和三十一年明治大学政治経済部卒。
英米文学翻訳家。