逆ユートピアについての感想 荒正人

 逆ユートピアという理念は、必ずしも簡単には、理解しにくい。ユートピアの反対であるとか、天国にたいする地獄であるとか、いうような表現には余り意味がない。
 私の考えでは、逆ユートピアは、ユートピアそのものから発足しなけれはならぬ。ユートピアの本質的前提として、人間の存在が考えられねばならぬ。ユートビアは、人間のためであって、神や悪魔のために存在するものではない。人間の集団、ないしは、人類のために存在する。わかりきったことではないかと、反論されよう。だが、逆ユートピアを考えるためには、このわかりきった事実が大切である。
 逆ユートピアというと、機械文明の発達の結果、人間の存在が、忘却されたり、無視されたりする場合を考えがちである。それにはそれだけの意味がある、だが、それは、逆ユートビアの一部ではあっても全体ではない。
 逆ユートビアの性格を、理論的に追求すると二つの場合が想定される。
 一つは、人間の存在しない理想社会である。オートメーションが極度に発達すれぱ、人間は不必要になろう。それでも、世界は存続する。自己増殖もする。自己増殖といっても、人間のではなく、社会のである。つまり、理想社会として、進歩と発展を続ける。
 もう少し現実的な話にもどしてみよう。たとえぱ、地球人の人口を極端に少なくしてみた場合を考えてみる。それも、千万や百万ではない。数百人にしてしまう。かれらは極度に発達した科学技術を駆使できる状態におかれている。万能ロボットが一切を処理してくれる。衣食住の心配はなにもいらぬ。慰戯も無限に存在する。マルクスは、未来の高度共産主義社会に関して、人類は能力に応じて働き、必要に従って取る−−という考察を述べた。だが、人類が、何百億、何千億になった場合、この理想は実現に手間取るであろう。なぜ、人口を減らすことを考えないのか。私は、数百人の人口しかいない地球を設定してみた。その場合、人類は、全体として生への意志を必ず失うであろう。生への意志は、人口の増大と関係が深いらしい。これは、逆ユートピアの一種だといえる。−−病床で、そういう小説を書いて、発表したことがあった。当時は、逆ユートピアなどといっても、何の共感もえられぬ時代であったから、何の反応もなかった。それでいいのだと思っている。
 その後、第二の型を思いついた。それは、人間が完全に孤独になり、一人で生活する場会という仮定である。この場合も、科学技術は、極度に発達していなくてはならぬ。第一の型における万能ロボットはむろん何箇でも利用できる。だが、それだけではない。第ニ万能ロボットが出現する。ごのロポットのボタンを押すだけで、グレタ・ガルボのような、マリリン・モンローのような、その他もろもろの美女が出現する。彼女たちと結婚し、家庭を営むこともできる。しかし、一切は、仮象であって、現実ではない。現実ではないが、人間の側では、現実でないということを忘れ去ることができる。お好みならば、『千夜一夜物語』のようなハレムをもつこともできる。それも、夢うつつなどといった曖昧な状態ではない。本気でそう思いこむことができる。−−いや、希望に応じて、ヒトラーにも、スターリンにも、毛沢東にもなれる。かれらがやったのと、おなじことがやれる。それでは面白くない。その倍以上をやらなくてはという欲望を抱く向きには、そのとおりになる。その他、人間のやれるほどのことなら、どんなことでもお好み次第にやれる。しかし、繰り返していえば、これは仮象であって、現実ではない、生命を完了する瞬間に、ああ、一切は夢であったか、と気付くのである。その瞬間に、ユートピアが逆ユートピアに転化するのである。これほど残酷な転化もあるまい。
 私は、ユートピア物語に興味を覚えるが、どれにも必ず逆ユートピアの要素が含まれている。『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」は、その秘密を探った最も良い例だと思う。しかし、科学技術そのものの発達によって、人間の本質を改変してしまえば、ユートピアと逆ユートピアの関係も全く別のものになるかもしれぬ。A・ハックスリーとオーウェルをあわせて読むことで、逆ユートピアの彼方に真実のユートピアを探りあてることができるかもしれぬ。それは、読書の愉しみというものであろう。この種の愉しみは、テレビではえられない。

SFとは何か−−現代作家のエッセーから−−伊藤典夫

 SFの現状、本質、あるいはその一面を端的に表現した文章を、さまざまな評論から以下に抜き書きしてみた。
 誕生以来、長いあいだ日かげの存在に甘んじてきた分野なので、今さらと思えるような擁護論があまりにも多いのには閉口したが、最近ではその傾向もようやくかげをひそめてきたようだ。


「未来に関心を持ち、ふつう定数と見なされているものを変数として扱う意欲を持ち、普通小説が回避することの多い、これらの大きな、普遍的な、スペキュラティヴな疑問と取り組むことに専心する文学の一形式があることを、わたしは感謝している」
         −−キングズリー・エイミス浅倉久志訳)


「科学は、ぼくらの土地に愛情をこめて種子をまくと同時に強奪もした。ぼくらはそうした種子まきと、そうした荒々しい強奪との自然の子なのだ。いまはSFの時代だ。
 ......だからぼくはぼくの時代に惹かれている。ぼくらの生活の中の機械を、内に外に破裂させ、駆り立てている幻想的なメカニックな要素に惹かれている。こうした状況においてSFとは、何十年も吸いこんできたあと、単にそれを吐き出しているというにすざない」
                           −−レイ・ブラッドベリ伊藤典夫訳)


「本来、SFは、人類の重要性や価値に対する真剣な懐疑を、折にふれて感じうる人間のためのものである。この懐疑を満たし、また刺激するためにSFがとる方法は、こう要約できるだろう。”おまえだけが”―ーと(人類を指して)SFは語りかけるーー”浜辺の小石ではないのだ”……思うに、このジャンルの根底の魅力−−半面、非難者にとっては、反撥をそそるもの−−は、ホモ・サピエンスに対する、SFの目新しい、お世辞ぬきの再評価からくるのではないだろうか」
           −−エドマンド・クリスピン浅倉久志訳)


「屡法使いの魔力を悩じていたアラブのストーリーテラーたちにとっては、空飛ぶカーペットは、宇宙ロケットと同じ”可能事”であった。しかし、同じ”可能事”でも、私たちにとっては、空飛ぷカーペットと宇宙ロケットではまったく質が異なる。宇宙ロケットは、私たちが”現代の科学”と呼んでいるものによって保証された可能事なのだ。……宇宙ロケットのような装置を話しの中にわざわざ作者が登場させる理由は、いったいなにか。ある一定の限度まで、現実を離れてみたいからだ。現実をひきのぱし延長させてみたいからだ。現実から完全に切り離されたいためではない。リアリズムの上にたって、リアルなものの中に空想をさしはさむのだ。……SFは、リアリズムによって枠どりされたファンタジーなのだ」
                           −−ミシェル・ビュトール片岡義男訳)


「科学の知識を得るためにSFを読む人間はいない、という説がある。たしかにそのとおり。だが、誤った知識を得るためにそれを読む人間もいないのだ」
                           −−デーモン・ナイト浅倉久志訳)


「SFの歴史には、実のところ二重のパラドックスがあるように思える。それが人気を得たのは、人気を得るにいちばん値しなかった時期であり、軽蔑的な批評をあびるようになったのは、それが卑しむべき存在ではなくなったころからなのだ。……私がこれまで読んできた、SFに関する批評のなかには、役にたつものは何一つなかった。一つにはその大半が半可通の手になるものだったからであり、また一つには、その書き手の多くがSFを毛嫌いする人種であったからだ。自分の嫌いなものについて書くのは、たいへん危険なことである。……たとえSFを読むのが悪徳であるにしても、その悪徳に誘惑される心理を理解できるものでなければ、価値あることは何もいえはしないだろう」
                           −−C・S・リュイス伊藤典夫訳)


「SFの数ある独自性の中でも特に貴重なものの一つは、その読者が、ほかの文学領域にも見られないような、作家との親密な接触をいまだに保ちつづけていることだ。おそらく読者は自覚していないだろうが、ますます分化し、断片化してゆく世界で、この接触がどれだけ作家にとって貴重かは、はかり知れない」
                           −−ブライアン・オールディス浅倉久志訳)

翻訳者紹介

松村達雄(まつむら・たつお)
明治四十四年四月大阪に生まれる。
昭和十三年東京大学英文科卒。
東京大学教授。
主訳書
 ウィリアム・モリスユートピアだより』(岩波文庫
 ソートン・ワイルダー『わが町』(研究社刊}
 エドガー・アラン・ポー『ポー傑作集』(河出書房刊)


新庄哲夫(しんじょう・てつお)
大正十年サン・フランシスコに生まれる。
昭和十八年青山学院英文科卒。
英米文学研究家。
主訳書
 ハーマン・ウォークケイン号の叛乱』(光文社刊)
 E・S・ガードナー『最後の法廷』(早川書房刊)
 ルドビッグ・ケネデイ『処刑された被害者』(新潮社刊)