新しい人工生態系 小原秀雄

 人生の岐路ということばがある。近頃の状態を見ていると、現代は人類にとって次の段階の発達と繁栄への進化の途を辿るか、滅亡への歩みをいっそう抜きさしならぬ方向へ踏み進めるかの「人生の岐路」に立っていそうな気がしてならない。
 いうまでもなく生物は全て進化し、人類も例外なく進化する。進化の結果生まれたものであり、これからも進化するものである。生物進化の法則性は、生物学者にとってなお未知の部分が多い。具体的な種の進化は、人間の歴史に似て諸条件が複雑に絡みあって出現するもののようである。
 人類の進化には、社会環境を含む全環境が明らかに影響があるだろうことは、誰もが考えることであろう。もし変異が自然淘汰されることで進化の方向がきまるとするならば、淘汰する条件が大きな問題なのである。ところで我々人類は、利口になった? ために本能的な力などを失っている。だから知能で判断して、対処してゆかねばならない。もちろんふつうこれは本能によるより優れている結果を生む。情報をいっそう豊かにとりこみ、その中から選択をしてゆくのであるから。
 ところが、情報を選択する方針に、生物としてのヒトにとって進化の上で良し悪しかの判断は少くとも今まではほとんど考慮されていなかった。選択していく途は、人間にとって物質的に豊かになるための、全ての行為を向上と考える途であった。しかしこの判断は、もっと迷ってよいはずであった。筆者が拙著「二十一世紀の人類」でそれに基く進化に疑義を出したのは、今から一〇年近くも前になる。その頃から比べるとジャーナリズムの論調はかなり今は変わって、物質生産一本槍に対してはそれによる弊害の例もかなり提出されてきた。今のうちになんとかし生物としてのヒトにも健康的な人工生態系、即ち自然と調和のとれた環境にしないと、「人生の岐路」を誤まりかねない。自然保護が必要なのである。人工生態系で野山を作り出すのには莫大な金がかかるし、うまく行くかどうか不安が多い。くり返していうが、生物界の変化は現在の生物学の単なるつみ重ねではまだコントロールしきれない。生物界の長い歴史的変化、即ち進化ともなれぽなおのことである。
 ところで進化といえば、我々が他と比較して大小を決めるように、宇宙生物の発見は人類を含めて、生物進化の法則性の研究に、大きなエポックを画するだろう。そして一方では足もとにおけるアフリカの国立公園の存在が重要である。進化の法則性に筆者が思いを寄せるとき、考えるのは一見逆なこの二つの方向であり、それは世紀の実験でもあると思う。今宇宙生物物探究については別の機会にして、アフリカについて語ろう。
 作者がアフリカの国立公園で思い浮べたのは、いわゆる日本でいう開発とはちがう人工生態系形式の可能性である。広大な地域に大都会が国立公園を含みつつ作られてもよいし、どちらにしても野生動物を「自然のまま」にコントロールしつつ開発がされる。その全てが新しい人工生態系であるが、それができると思われたからである。
 現在東アフリカでは、野生動物の棲息地をそのまま国立公園として、入場料や観光収入を重要視している一方いわゆる開発がされている。国立公園はまだ少ないし、計画は筆者の理想とは遠い。都会の周辺は畑か牧場で、野生動物に代ってウシが大量にいる状態である。牛飼いの利益代表が国会で、牧草地確保の要求が増大しそうである。だがなんといってもまだ広い。日本のようになってしまっていないので、新しい人工生態系実現の可能性が残る。その点で世紀の実験場でもあるのだ。
 ここでは自然の新しい在り方が問われているのと同時に、その中で大型哺乳動物を生かしてゆくことで、はじめて人間が観察しながら変化が調ぺられるのである。人間が進化するすじ道がわかるためには、哺乳動物の進化について実験観察が試みられるのが望ましいのである。ここに及んで、人間の未来に対して動物保護が重要なことがわかろう。二つの意味で重要である。一つは精妙なバランスの自然の重要な構成部分として、自然保護のために残されねぱならないこと。そしてもう一つは、人間の進化を探る実験対象動物として。医学上の実験動物のコントロール同様に、アフリ力の野生動物も、あるいは野生でいつづけるようにコントロールされねばならない。ことのついでではあるが、こうして接触しているうちに動物についてわかるようになり、それが人間について知ることの一面をも形成し人間の精神衛生にプラスする。また大型の哺乳動物の絶滅するような環境は、人間にとって良いわけはないのでもある。
 この環境にウシが入りこんだのに象旅されるが、野生動物を含む自然保護上のこれからの問題は、むしろ新しい猛獣野イヌと野ネコである。いわゆる野良イヌ野良ネコの野生化したもので、やがては人間をも襲うこともあり得よう。日本では現にシカが野イヌにやられ、オーストラリアでは野ネコに有袋類が次々と捕食されてしまうように、将来は野生動物の世界に大きな波乱が及びそうである。これは、間接的に人間への害でもある。日本中で今や野イヌが一〇〇万以上いるというのだから、その個体数増加力は驚くほどである。イヌは知能が高い。ネコも一般にそういえる。残飯を食う生活から、様々な人工生態糸の利用のしかたを身につけ、さらに先祖時代の野生生活の可能性も持つ両刀使いの適応力のあるこれらの新猛獣は増殖力は十二分にあるのだ。イヌネコだけでない。ペット動物の逃亡者は、このままでは今に世界中にいろいろな動物の世界を作り出してしまうかもしれない。動物愛護のゆがんだありかたは、このように動物保護を阻害し、野生動物を「人間好み」の型に作った人工動物で置き変えてしまうおそれがあり、それが起りつつある。そしてそれらの動物はこのまま放置しておけば人間のすむところ到るところに繁栄するのであろう。新たな家畜野生勤物の出現でもある。今我々は様々な点で岐路にある。

SF応用学 浅倉久志

 スクリーン・プロセスという映画の撮影方法がある。セットの後へ特殊スクリーンを立てて、その裏側から背景のフィルムを映写し、セットで行なわれる俳優の演技といっしょに撮影する−−ロケなしで安直にすませるにはもってこいだし、SF映画の撮影でもおなじみの方法だ。ところが、いままで裏から映されていたこのフィルムをスクリーンの前面から映写する画期的な新方式が誕生し、映画やテレビでさかんに使われ初めている。前面映写ユニットと呼ばれるこの装置のまたの名は、ラインスター・プロジェクター−−といえぱもうおわかりだろう。SF界の最長老マレイ・ラインスターがその発明者なのだ。アナログ誌の六七年十一月号に、『SF応用学』と題して、ラインスター自身がこの発明の裏話を書いているので、それを要約して紹介しよう−−
 そもそもの始まりは、あるテレビ局のSFシリーズで、私の『最初の接触』という短篇(本全集第32巻に収録)がとりあげられ、そのリハーサルに招かれたときだった。高さ五メートルもありそうなセットの天井が気になっていた私は、プロデューサーに感想を問われて、窮屈であるべきはずの宇宙船内の実感がこれでは出ないように思うが、と答えた。フロデューサーは、大道具の運搬や照明上の都合など、やむをえない理由をこと細かに説明してくれた。そして私は、機械的制約が芸術作品の価値を奪うことを悲しみつつ、彼と別れたのである。
 帰宅した私は、SF作家としてこの出来事を考えてみた。もし、未来のテレビ映画製作を、小説に書くとしたら? そこでは、この問題がもっとうまく解決されているはずだ。おそらく、大道具をあちこちへ運搬するような手間はかけるまい。スクリーンプロセスにしても、いまの方法にはたくさんの欠点がある。まず、必要な明るさを持った映像を手に入れるためには、ステージを暗くした上に、よけいな光がスクリーンに迷いこんで映像を薄れさせないよう、照明に気を便わねばならない。もっと致命的な欠点は、俳優がセットの奥へ退場できないことだ。もし、スクリーンに作られたドアから俳優がむこうへ出ていったとしたまえ、その姿が影絵になっでスクリーンに映ってしまうだろう。それを防ぐためには、いまのようにスクリーンの裏からでなく、表からフィルムを映写するしかない。だが、それは不可能だ。なぜなら、そのスクリーンの前に俳優がいるのたから、彼らはワイシャツの胸に背景のこまぎれが投影されて動きまわることになる。
 原理としては、俳優のワイシャツには映らないような映像を映すスクリーン、それを考えればいい。むろん、撮影する以上は、俳優の顔も衣裳も光を反射してくれなければならないが、スクリーンの反射をそれと別個のにすれぱ、事は解決する。
 反射には三種類ある。鏡面のような整反射、白い紙のような乱反射、絵具のような選択反則−−そこまできて、私はもう一つの反射が存在することを思い出した。かなり以前に、私は道路標識−−車のヘッドライトが当るとぎらぎら光るやつ−−に興味があったことがある。あの標識板は、光がどんな方向からあたっても、その方向へ光を反射する性質を持っている。実際には、へッドライトの光束が反射のさいにいくらか散乱されて、それが運転者の目に入るわけだが、これは標識板が光学的に完全でないからだ。
 むかし買ったその塗料を私はひっぱり出して、それを居間の壁に塗り、スライド映写機の光を投射してみた。だが、反射されてくる光が直径六インチほどの円に集中してしまうので、よほど映写機の横に目を近づけないとなにも見えない。そこで、映写機の首を九十度前に回転させて、なにも塗らない隣りの壁に向け、レンズの前に板ガラスを四十五度の角度で立ててみた。映写機から出た光の一部はガラスを素通りし、一部は反射されて、塗料を塗った壁へあたるわけだ。私はガラスごしにぞの壁をのぞいてみた。こんどは成功だった。映写機のレンズをじかにのぞきこんだほどの眩しさなのだ。映写機を出た光は、しだいに広がり、そして当然弱まりながらスクリーンに達し、こんどはしだいに縮まり、そして当然強まりなから、ガラスにもどってくる。その延長線上にカメラを置いて撮影すればいいのだ。なお好都合なことに、ほかの光線からのよけいな光線がスクリーンに当っても、それは光線の方向へ反ねかえされて、カメラには入らない。
 残る問題は、映写機から出た光が俳優に映るかどうかということだ。私はスクリーンの前に白い紙を置き、映写機以外の光をぜんぶ消した。こんども大成功。スクリーンからもどってくる光は眩しいほどなのに、白い紙で散乱された映像は、ほとんど見えないほど薄いではないか。うまいことに、白い紙の落す影も見えない。それはローソクの炎をのぞきこんで、その光の作る影が見えないのとおなじ理屈なのだ。こいつはひょっとしたらものになるぞ、と私は思った……
 このあと、ラインスターが特許弁理士でもあるSF作家シオドア・L・トーマスの協力を得て、特許権を手に入れるまでのいきさつも面白いのだが、すでに紙数がつきたようだ。とにかく、みすみす通信衛星の特許をとり逃したクラークと対照的に、ラインスターのほうはこの特許権フェアチャイルド社に譲って、ちゃっかり一儲けしたことだけをお伝えしておこう。

次元テーマ私考 福島正実

 七、八年まえ、SFマガジンを始めてまだあまりたたない頃に、どんなテーマのSFが好きか、という読者アンケートをやったことがある。
 宇宙テーマ、タイムトラベル、未来小説などのなかで、次元テーマSFが非常に高い得票率をしめし、たしか順位は三位だった。それで、日本のSF読者が、次元テーマSFを、非常に好んでいることがわかったのだが、それを取材に来たある新聞の記者が、SFは科学的なフィクションのはずなのに、なぜこんな、ファンタジイとしか思えないようなものが面白がられるのか、やはり目本のSFファンが幼なくて、まだ怪奇小説幻想小説読者と未分の状態にあるのかと聞かれたことなど、思いだす。
 もらろん、今では、こんな−−いわぱプリミチブな質問は、かなり減った。SFを、科学的な物語だとしか考えないような習慣が、なくなったせいである。
 しかし、この記者の質問は、初歩的であっただけに、次元ものSFの一面もよく捉えている。
 というのは、SF読者は一般的に次元テーマのSFが好きで、いまアンケートをとってみても、おそらく順位は三位以下には落ちないだろうが、それは決して、いまだに日本のSFファンか幼いためではなく、そこに十分うなずける理由があるからである。
 次元テーマが好かれるのは、まずその現実との親近性にある。この種の小説は、ほとんどといっていいくらい、その小説の書かれる現時点を、小脱の時間として用い、したがって、風俗習慣、地域性なども、すべてその時代の現実のものとなる。たとえばその小説が、一九六九年に書かれれぱ、そこに登場する人物も、事件のパックグラウンドをなす社会も、一九六九年のものが使われる。そこで読者はきわめて容易に、その虚構の世界に入っていくことかできるのだ。
 第二に次元テーマでおこる事件は、社会問題とか政治問題、国際問題のようなスケールの大きなものであるよりも、読者にとって身近な問題、日常の現実につながりのある問題である場合が多い。だから読者は、日常性からの飛躍なしに、安心して虚構の世界に馴染んでいくことができる。
 そして第三には、事件のもつ異常性が、読者の−−というよりは人間一般の、つねに、心ひそかに希求し期待しているものである点だ。人は現実の生活には変化を嫌う性向をもつくせに、深層心理的なレベルで、昨日と今日、今日と明日、いつも同じ、いつも月並みな、いつも変りばえのしない事象のくりかえしであることに飽きている。何か変った、何か異常な、何か足もとをさらわれるような事件が起きないものかと待ち望んでいる。
 そして実は、これが、怪奇小説やファンタジイを好んで読む読者たちの心理にもつながる。その意味では、次元テーマのSFは、それらの怪奇小説やファンタジイと、あるいはミステリとも、おなじ求められかたをしているのだ。
 これは次元テーマのSFにとって、ちっとも迷惑なことではない。非現実と現実とをつなぐ心理的基盤が、すでに読者の側にあることは、小説にとってきわめて有利だ。しかも、それは、昨日や今日のことではなく、おそらくは、人間が文化的な生活をしはじめたごく最初のころから、あった心理傾向なのである。もし人間の脳に、種族的記憶というものがあるとすれば、もっとも強いインパクトを持つ記憶塊として、存在しているはずのものなのである。
 次元テーマSFの好かれかたは、およそこうした一つの共通項を持っているはずだ。ただし、この三つの項だけを満足させる作品でよしとしていたのでは、このテーマは十分に使われているとはいえないだろう。このテーマは、実は、もっとはるかに実り多いもののはずだからである。
 非現実と現実とのつながりを武器にして、つまり、その強い説得力、感情移入をフルに用いて、次元テーマは、現代を材料に、さまざまな思考実験をこころみることができる。普通の−−常識的なルールやオーダーを守っていては決してできない実験的なこころみができるのだ。
 しかもそれは、一般の小説の扱うテーマのほとんどを覆うことができる。事実この世にある愛について、憎しみについて、その他の人間関係について、現実にはあり得ないツイストをあたえ、価値の転換をおこなって、愛そのもの、憎しみそのもの、人間そのものの意味を問うこともできる。
 ぼくが、次元テーマを好んでえらぷ理由もそこにある。
 いま、ここで、何気ない日常の現実のなかで、非現実の何かが起ることによって、日常の牢固たる基盤はあとかたもなく姿を消し、そこに、生々しい問題そのものが、姿をあらわす。その姿を、現実のものと対置することによって実は唯一無二と思われていた現実が、幾様にもかたちを変えて見られることを発見する。そして、その発見は、場合によっては、ぽくの人生で、ぼくがどうしても、いつかは到達しなけれぱならなかったものかもしれないのだ……。
 もちろん、次元テーマは、最初にも書いたように、いわば、もっとも通俗的な興味から、そうした思想性への指向までを、多様に、複合的に含む小説形式である。それだけに、失敗したら目もあてられない通俗小説に堕することも多いし、どうしようもない出来損いになることもある。
 時折り、自ら省みて、ぼくのうしろに、そうした惨状が幾つもつながっているような気がしないこともないのだが……それだけにいっそう、このテーマのもつスリルがこたえられない、ということもあるわけである。

翻訳者紹介

南山宏(みなみま・ひろし)
昭和十一年東京に生まれる。
東京外国語大学独語科卒。
SF研究家・翻訳家。
主訳書
 ロバート・シェクリイ『宇宙市民』(早川書房刊)
 アーサー・C・クラーク『明日にとどく』(早川書房刊)


野田昌宏(のだ・まさひろ)
昭和八年東京に生まれる。
昭和三十四年学習院大学政治経済学部卒。
SF研究家・翻訳家。
主訳書
 エドモンド・ハミルトン『太陽系七つの秘宝』(早川書房刊)
 ジョン・W・キャンベル『暗黒星通過!』(早川書房刊)
 ジャック・ウィリアムスン『宇宙軍団』(早川書房刊)