わが愛するハインライン 矢野徹

 ……といっても、ぼくはべつにかれが作中で説いていることを常に拍手で迎えているわけではない。作品が好きだというだけであり、翻訳者としてのばくには、かれを最も感情移入しやすい作家と考えられるからだ。
 一九七〇年九月初旬、日本で初めて開かれた世界SFシンポジウムに、ハインラインは出席してくれる予定だった。それが夫人からの手紙で、手術のため来日できなくなったと知ったぼくは、まったくがっかりした。
 ここ三十年ほどのあいだに現われた世界のSF作家中、文句なく最高の人気をとりつづけており、四つのヒューゴー賞を得たハインラインについて語られたことは多い。かれとその作品についての詳しい解説も、この巻に入れられるとすれば、いまさら語ることはない。だからこれまでぼくの訳書のあと書きに紹介きせてもらった文句その他の中から、いくつかをひろいあげてみることにしよう。
 昭和三十二年十二月、米軍高級将校たちの招待で日本各地をまわったハインラインを帝国ホテルのロビーでつかまえたときのかれの言葉。同席したのは江戸川乱歩氏、毎日新聞の浜田琉司氏、それにぼくの三人。
「SFを読む人がみな科学をよく知っているSFマニアとは限らない。娯楽のために書きます。一杯のビールを飲む金を節約して、私の小説を買ってくださるのだから、喜んてもらえるだけの内容にしなくてはいけないと思う」
「未来を画くためには、なによりも現代に生きている意義を大切に考えること」
「SFとは予測(スペキュレーション)の文学だ。この宇宙で、将来こういうことが可能であり、おこるのではなかろうかということを、単なる幻想としてでなく書くことだ」
「SFがときに逃避文学といわれたのは、ファンタジイと混同されるからだ。SFとファンタジイは、カール・マルクスグルーチョ・マルクスぐらい違う。ファンタジイは、現実の世界をある程度否定して、嘘の要素を認めている。だが、SFはその内容がいかに幻想的であっても、現実の世界についての人類全般の知識を、小説的なスペキュレーンョンの骨組みとしている」
「科学の発展にたいして人類がいかに対処するか、それが肝心なことで、SFを書くときにも、それを心に留めておくことが大切ですね」
「人類はこの二千年のあいだSFを書いてきたから、これからの二千年間も書きつづけるでしょう」
『宇宙の戦士』の中の言葉。
「子供を知識に導くことはできるが、考えさせることはできない」
「暴力は、歴史上、ほかの何にもまして、より多くの事件を解決している。その反対的意見は希望的観測にすぎぬ。この事実を忘れた種族は、その人命と自由という高価な代償を払わされてきた」
「街を年少者の愚連隊がのさぱり歩いているのは、より大きな疾病が存在する徴候だ」
『動乱二一〇〇』あとがきの言葉。
「第二の概念、つまり、われわれが宗教的ヒステリーの波にさらわれて自由を失うかもしれぬというアイデアは、残念ながら可能性のあることだと思う。そんな実現性はあってほしくない。しかし、この国の文化には、潜在的な、底深い宗教的狂信の伝統がある。それはこの国の歴史に根ざしており、過去にもたびたび表に現われてきた。そして、いまも存在する。この国では近年とみに、戦闘的な福音伝道教団が急激な台頭を見せているが、そのあるものは、反知性、反科学、反自由の色彩の濃い、極端な宗教政治的教義を奉じているのだ−−浅倉久志訳」
月は無慈悲な夜の女王』の訳者あとがき。
「この作品を訳しながらわたしは、現代の日本が持っている多くの問題を考えた。かれもまたアメリカの怒れる若者たちを、スチューデント・パワーを意識して書いたに違いない……その点は読者のみなさんもいろいろと考えられるだろうと思う。だがひとつ、どうもハインラインは、克己主義とでもいうものを大切にしているらしいと思われる。思想や主義の如何を問わず、苦難と試練を経てきたものは信用しよう。だが、口先だけでお上品なことを言っているものは信用できないといった考えが、かれ自身の中にあるのではないかと推察される……その意味からは、かれは開拓者精神をそのまま持ち続けているわけだ。作家には、それがなければだめだ。かれが次々と問題作を書き続けていく原因はそのへんにあるだろう。かれを右翼の石頭野郎ときめつけていた者は、この作品に現われた柔軟な考えにとまどい、これまた右翼思想の裏返しにすぎぬというだろう。だが、ここに書いてあるものは、革命教科書といっていいものなのだ」
 荒巻義雄氏”術の小説論−−私のハインライン論”の中から、
「こうした人間像に共感しうる内的体験がなければ、ハインラインの作品を理解しえないことも確かなのだ。また、見逃されやすいハインラインの自由の理念にも出会うことはできない。これこそハインラインの創作原点なのだ……アパッチ族を前にして、”お前は同胞だ”といった牧師の頭の皮が剥がれ、銃をとった者が生きのこったアメリカ西部開拓時代の精神が、ハインラインの底流に生きている。ハインラインにしてみれば、この狂暴なクモ族を前にして、戦うことこそが、彼の倫理的な決断であったのだ」

ハインライン・コレクション 伊藤典夫

 アメリカ合衆国カリフォルニア州。その州第二の都市サンフランシスコから、海岸線に沿って州道一号線を南へ百キロほど下ると、人口三万足らずの観光地サンタ・クルーズがある。『夏への扉』の作者ロバート・A・ハインラインに会いたいなら、この町へ行けばいい。6000 Bonny Doon Road, Santa Cruz, Californla 95060−−これが、彼の住所だ。もっとも聞くところによると、かなり気むずかしいおじいさんだそうで、ちゃんとした筋からの紹介がないかぎり、そう簡単には会ってくれないだろうが。(一九六八年、あちらのファンに招かれて渡米した柴野拓美氏は、「ミスターSF」フォリー・アッカーマンを通じて会見の約束までとりつけなから、フォリーが約束の時間をまちがえたためにツムジを曲げられ、とうとう会うことかできなかった)
 その町にあるカリフォルニア大学サンタ・クルーズ分校図書館に、ハインラインが、原稿やメモを含む自分の著作の大半を寄贈したというニュースを読んだのは、三年ほど前のことだ。それ以上くわしいことはそのときわからなかったのだけれど、アメリカのファンジン<SFレビュー>の七〇年二月号に、同図書館を訪れたあるファンのレポートが掲載され、ハインライン・コレクションの概要が明らかになった。
 図書館におさめられているのは、ハインラインの全著作一五六篇のうちの九五篇。内容は、”処女作″「生命線」までさかのぼる小説、エッセイ、映画脚本の生原稿と、海外版を含めた単行本のすべて、およびそれらに関係する書類、書簡、批評の切りぬき、創作メモ、等々。そして年二回ずつ、新しい資料がこれに加えられ、やがては現在コレクションから抜けている原稿も、未公開の書簡や創作メモなどとともに、同図書館に寄贈される予定だという。
 ふつう大学図書館に、外来者ははいれないものだが、ここでは誰もが自由に閲覧できる。ただし文献の破損や盗用を防ぐ意味から、原稿の複写や、鉛筆以外の筆記用具の持ちこみは厳禁されている。
 作品には、それぞれ作者自身による″作品番号″と注釈がついていて、整理カードを見れば、それがいつごろ書かれ、いつ発表されたか、ひと目でわかる仕組みになっている。意外なのは、未発表作品や、秘密のペンネームで書かれた作品が四〇篇ほどあることだ。これらは今のところコレクションにおさめられていず、整理カードにも”作品番号″以外なにも書かれていない。
 たとえば、短篇「地球の緑の丘」は、整理カードによると、″作品四八″だが、ぽくらが知るかぎり、それは「生命線」から数えて三一番目に発表されている。そして処女作だとばかり思われていた「生命線」が、なんと”作品二”! どうやらその荊に、未発表の習作が一つあるらしい。興味ぶかい事実は、ほかにもいろいろある。『太陽系帝国の危機』(1956)が”作品一二二”であるのに、一九六一年に発表された大作『異星の客』は”作品一二一”。ハインラインの注釈によると、理由はこうだ。
 彼が『異星の客』のアイデアを最初に思いついたのは一九四八年で、ストーリイの骨格は、そのころ創作ノートのなかでいちおう完成を見ていた。だが、商品価値があるかどうかの点で疑問があり、執筆は見送られた。そして一九五五年、じっさいに書きはじめ、発端の部分、タイプ用紙で一五二ページまで進んだが、そこでふたたび投げだされた−−だから”作品一二一”となる。『異星の客』がとうとう完成したのは六〇年。八〇二ページの大作だったが、出版にあたって六ー二ページに縮めた。これが、今日ぼくらの目にふれる『異星の客』だ。
 論議をかもしたセックス・シーンは、原稿のほうではもっと露骨だそうだか、それでも現在の標準からすると、大したことはないらしい。
 またコレクションのなかには、二つ奇妙な短篇がまじっている。“Poor Daddy"(作品五九)と“Cliff and the
Calories”(作品八二)で、シニア・ブロムというティーン雑誌に発表された少女小説だ。ハインラインの注釈によると、この種の作品はほかにも数篇あるらしく、そのうち女性のペンネームで一冊にまとめる考えもあるという。
 ハインラインは、SFの分野でも、「地球の脅威」や長篇 "Podkayne of Mars" などの少女小説を書いている。これで味をしめていたぼくは、ベンネームで書かれた彼の少女小説を発見してやろうと、セヴンティーン誌の傑作集などをしばらく読んでみたが、もちろん皆目わからなかった。
 コレクションのなかで、『人形つかい』に関係する書類は、いっさい見ることができない。理由はハインラインの注釈から想像するしかないのだけれど、それもはなはだ曖昧だ。作品の映画化にさいして、シナリオ作家がストーリイにひどい改ザンを加えたらしく、一時は訴訟問題にまで発展したが、けっきょく示談でおりあいがついた。書類は、特別の許可がないかぎり、ハインラインとその家族、およぴ事件の関係者すべてが生きているあいだは、一般に公開されない。作者にとっても、思いだしたくないできごとなのだろう。レポートが書かれた時点で、いちばん新しいのは”作品一五六”、<未来歴史>シリーズを一冊にまとめた "The Past Through Tommorow" だ。ニ一篇が収録されているが、この決定版では、「光あれ」「大宇宙」「良識」が抜け、新たに「地球の脅威」と "Searchlight" が加えられている。
 これ以後、短篇小説やエッセイが発表された形跡はないので、五年ぶりの新作長篇 "I Will Fear NO Evil" が、”作品一五七”ということになりそうだ。
 テーマは脳移植。『自由未来』の主人公ファーナムを思わせる金持ちの老人が、自分の秘書であった美女に脳移植されてよみがえり、しだいに女として目ざめていく過程をえがいている。ハードカバーで七〇〇ページもあり、おそろしくワイセツで、しかも「聖ハインラインのご説教」が長すぎるので、不見転で雑誌掲載権を買い取ったギャラクシー誌編集部がオタオタしているという噂だったが、じっさいに届いた本は四〇〇ページあまり、『異星の客』と同じくらいだった。削除されたのだろうか?
 これもきっと、「きわめて通俗的で、権力志向的な独善のクサミが強すぎる」(石川喬司)、読みだしたらやめられない傑作だろうと、ぽくは期待している。

翻訳者紹介

福島正実(ふくしま・まさみ)
昭和四年樺太に生まれる。
明治大学仏文科卒
SF作家、評論家。
主訳書
 ローレンス・サンダース「盗聴」(早川書房刊)
 アイザック・アシモフ鋼鉄都市」(早川書房刊)
 アーサー・C・クラーク「未来のプロフィル」(早川書房刊)