わたしにとってSFとは何か 中原弓彦 

 1968年12月29日の夜中、わたしはベッドに寝て、アポロ8号着水の中継カラー放送を見ていた。太平洋の夜明けがすばらしく、FEN放送の中継アナのメカニックな声が雑音の中を響いてくる。
「一人目の飛行士が見えてきました。二人目が見えてきました。三人目が見えてきました。……四人目が見えました……」
 三人しか乗っていない宇宙船に四人目がいたら大変である。NHKの通訳氏は「これは冗談です」とつけ加えていた。こんな冗談を、げんしゅくな瞬間にとばすのは、全くアメリカ的で、日本のアナウンサーだったら、まず、くぴはまぬかれまい。かりにジョークが許されたにせよ、NHKの今福祝氏が、例の”まことに遺憾な顔”で「四人目があらわれました」と告げたら、なにやら背節が寒くなるのではあるまいか。
 着水まえに「メリー・ポピンズ」のテーマを流していたのも、ゆかいで、その心は”どっちも空から降りてくる”である。
 こういうことだな、とわたしは思った。もはや、宇宙船が月に着陸しても、おどろくことはない。映画「ニ○○一年宇宙の旅」の映像美をもってしても、この太平洋の朝やけの感動には及ばない。ある種のSFは、もう、現実にのりこえられてしまった。こういう時代に、われわれを驚かすものがあるとすれば、それは、われわれのコモン・センスをひっくりかえすもの−−つまり、あちらのアナ氏かつまらなそうに言った「四人目の飛行士」の存在なのだ……。
 ここに至って、フレドリック・ブラウンの存在がわたしには大きなものに思えてくるのである。
 昭和三十三年の二月、ハヤカワ・ボケット・ファンタジイ(という名だった)の第一弾として、「火星人ゴー・ホーム」がわたしの前にあらわれた時の新鮮な衝撃をわたしは忘れることかてきない。もし、あなたがこの小説をまだ読んでいないとしたら、あなたは、なんと、しあわせな人だろう! しかも、今回はすでに名訳のほまれ高い故森郁夫訳を稲葉明雄が改訳するのである。これは、まるで、高倉健が敵のやくざに斬られたとごろに鶴田浩二があらわれる東映映画の一場面みたいなものだ。
「火星人ゴー・ホーム」そのものについては、解説にいろいろ書かれるのだろうから、わたしはこれがブラウンの最高傑作であることだけを言っておこう。こんな破天荒な侵略者たちは空前絶後であり、この作品にくらべると、ほかのどのSFも、どうも色あせて見える。とにかく、西部小説作家のタイプライターにまたがって「ハイヨー、シルヴァー!」などと叫ぶ火星人を誰が想像し得たか。これは、むしろ、シュールリアリズムの世界であり、「ふしぎの国のアリス」の現代版ではないか。
 この小説は、構成的に見ても、破格というほかない。起、承があって、事件が並列的にあり、ふいに、風船がしぼむように終ってしまうのである。これにくらべれぱ、「発狂した宇宙」の方が、はるかに古典的構成がある。しかも、「ゴー・ホーム」は、みごと成功しているのが、しゃくなのである。
 早川のSFシリーズは、これをトップに出したことで、点をかせいだ。それほど、この作品の印象は圧倒的だった。そのブラウンが、この全集で合席の扱いを受けているのは不遇である。ブラウンは一人一巻でなければならない!
 とにかく、その日いらい、わたしにとって、ブラウンの名は、こうもり傘をもった神父でも、大口のコメディアンでもなく、「火星人ゴー・ホーム」の作者になったのである。これにくらべれば、彼のショート・ショートなど、なにほどのこともない。ショ―ト・ショートなんてものを世にひろめた馬鹿に呪いあれ!
 ブラウンが1949年に「発狂した宇宙」で、月へのロケット実験を1954、5年と想定したのは、いささか早すぎたが、アーサー・クラークなどとちがって、そんなことは問題にならないのが彼の世界である。現実などは歯牙にもかけず、ただただ、ナンセンスな世界をくりひろげ、活字のギャグを案出してゆくことによって、われわれの意識を裏がえしてしまうのが、彼の方法だからである。
 そういう作家が日本にも欲しい、などとは言うまい。中継放送のアナ氏の態度がちがうように、これは風土の問題なのである。キングズリイ・エイミスはハードポイルド小説を「カリフォルニアという異国の地に育つ植物でしかなかった」と正しく規定しているが、そうした”風土”を無視して、ことを行っても仕方あるまい。NHKの解説者は、「飛行上たちも疲れていることでありましょう」とつけ加えていた。これまた、もっともしごくなオコトバでかえす言葉もないのだが、要するに、これが日本である。
 −−と、ここまで書いて、都筑道夫さんから電話をいただいた。マルクス兄弟の資料が洋書屋に入ったことをわざわざ教えて下さったのだが、「火星人ゴー・ホーム」」(旧版)に「ブラウン問答」というあとがきを書いて、この作家と作品の魅力を、一介の読者だったわたしに示してくれたのも、都筑さんなのであった。
「火星人ゴー・ホーム」のような作品こそ、SFがSFたるゆえんてはないかというわたしの問いに、都筑さんは、アメリカではすでにこの系列か正系になっている、ただし、ブラウンよりさらにひねったものだけど、とつけ加えられた。わたしは、キャプテン・フューチャーのようなパロディや、ハリイ・ハリスンのナンセンスなSFを、ナンセンス映画を好むように好むが、いまやマルクス兄弟の株が世界的に上っているように、ブラウンも、新しい読者によって再発見されるにちがいないと、ひそかに考えている。
                                              (69・1・15)

SFとの出会い 福島正実

 寝ても覚めてもSF漬けでこの十年あまりを生きてきたぽくにとっては、「SFと私」などと殊更らしく構えるのが、どうしようもなく空々しく、無意味に思えて当り前だろうが、にもかかわらすこの問は、しぱしばぼくの内奥の声となり、「お前にとってSFとは何か」と、モノトーンな調子で詰め寄ってくる。人によって反応のしかたはそれぞれちがうだろうが、そんなときぼくの場合は、どうしても少年時代への記憶へと遡る。
 ぼくの年配のSFアディクトたちは、ほぼ例外なく少年時代に、海野十三山中峯太郎の洗礼を受けていて、談たまたまそこに及べば、われながら呆れ返るほど、その当時読み耽った少年小説を、デテールまで憶えていることに気づき、苦笑いするのが常なのだか、それと同時にぽくの場合は、当時かならずしも数多くなかった天文学や考古学など、自然科学の少年むき解説書の類いを、数多く読み散らしたのを思いだす。そして、どちらかといえば、より強い衝撃を受けたのは、小説類であるよりは、そうした解説書のほうだった。「天の河」として親しんできた銀河が、実は巨大な恒星を千億個も集めた星の大集団を−−われわれもその微少な一部として属している銀河系宇宙を、横からながめた姿であることをはじめて知ったときの、一種の広所恐怖症的なショックさえともなった驚きは、どんな波乱万丈の宇宙小説を読んだときのそれよりも強列だったし、見渡す限りの夜空を埋める星々が、それぞれ一個の世界であり得、われわれと同じ生物進化の歴史を持ち得、想像を絶する多種多様な文明を持ち得るのだと知ったときの、激しい感動は、どんなファンタスティックな空想小説を読んだとぎのそれよりも生々しく、力強かった。そしてやがて、そうした世界のたたずまいは、自然もっと哲学的な、根本的な疑問をみちぴきだし、少年はいつか、宇宙に涯があるのかないのか、涯があればその先は何なのか、涯がなければなぜないのかといった、いたちごっこの問いに追いまくられるようになる。相対性原理も量子諭も、直接視覚型の答えを与えてはくれないから、何の役にもたちようがなく、たちまち思考容量がいっぱいになって、子供心にただ空しく、果敢なく、深刻になり、はじめて世界全体を、宇宙そっくりを疑うという哲学的体験も持った。
 そうして考えてみると、ぼくのSF開眼は、子供にのべたらありがちな、ただのポンチ絵的空想癖ではなく、現実の奥、現象の内部にあってこっちを黙って見つめている何者かへの関心だったということができるようで、それをしもなお幼稚なロマンチシズムというならば、ぼくのロマンチシズムは、最初から科学的思考と結びついてでなければ育たなかったことになる。ぼくの少年時代のロマンチシズムは、ごく単純な科学的事実の一つのなかにも、精妙な自然のメカニズムが働いており、それがなまなかな人間のドラマ以上にドラマチックであることを知った時に生まれたもののようである。(だからぽくは、この頃よくいわれる、「近頃の子供は科学的事実を与えられたがために夢がなくなった」という類いの意見の、白痴的物知らずに、いつも腹を立てないわけにはいかないのだ)そして、そうしたSFとの出会いをしたぽくにとっては、SFはたんに珍奇な空想物語ではなく、一つの知識−−現実や経験を克えた彼方にあるものに近づくための認識であり、そのためSFあるいは科学は、子供ながらのエリート意識の中核的な存在となったように思われる。宇宙について、科学について<何も知らない>友人たちを見るにつけ、そうした連中に多少の知識をひけらかすにつけ、ぼくの「他人とは違うのだ」というエリート意識はいっそう昂ぶり、ついには、常識とされるすべての現実についで、一応じぶんなりの考えを持たないことには身動きがとれず、そのため何かあるごとに、一応「ちがう」といってみなければおさまらない狷介な性格が育まれてきたようだ。
 そしてこれは、どうやら、二十歳を過ぎてのちSFに再会したとき、たちまちSFの魔力に巻きこまれた原因の一つになっているようである。つまりぽくは、ロマンチストであったからでも、やたら空想癖かあったからでも、科学そのものが好きだったからでもなく−−いや、かりに多少はそうであったとしても、それらをひっくるめた全部よりもはるかに大きい分量、他人とは何かちがったもの、常識ではけっして判断できないもの、しかも、それがより真実に近いもの−−そうした何かを求める気持から、SFに没入していったのではないかと思っているのだ。
 そしてぼくは、今、それを間違いであったとは思わないし、その事実に気がついたことを、幸運だったと思っている。なぜなら、ここまで踏み込んでしまったSFから、ぽくはもう死ぬまで脱げ出られないであろうし、死への道づれとするのならぱ、SFとの仲を、より個人的に、より内面的にする必要があると、思いはじめているからである。

キャビアの味 伊藤典夫

 SFの厖大な凡作の山のなかから、久しぶりに気にいったのが見つかり、訳すことにきめる。はじめたばかりは鼻歌きげんだが、そのうちどうしようもない泥沼にはまりこみ、おそろしく悲壮な気持でむりやり訳しおえ、締切りはすぎているのでしかたなく編集部へ持っていって、あとはただそれののる雑誌が店頭から消える日を待ち望む。あとで単行本に再録されるのなら手を入れられるが、その見込みのないときは、そんなものを訳したことをただひたすら忘れたい。
 訳者としての恥をさらすようなものだか、ぼくをそんな目にあわせた作家が、今までに三人いる。ジェイムズ・プリッシュJ・G・バラード、そしてもう一人が、この本に収められているシオドア・スタージョンだ。前の二者は読んでるときからして、だいたいわからない。でもやたらにおもしろいので、日本語にしてみたくなり、悪戦苦闘して訳しおえたとき、「ああ、そうだったのか!」と思いあたったりする。スタージョンの場合は、ちょっと違う。内容もむつかしくないし、体質的に合っているのだろう、スムーズに読めるのだが、いざ訳す段になって事情か変る。−−こちらの言語感覚に挑戦してくるのだ。
 文章に凝るといってしまっては、味もそっけもない。
「英語と情事にふけっている」という評が、このときこそ意味を持つ。書かれている英語を、そっくり日本語に置きかえたら、救いようのない読みづらい翻訳になることはわかりきっている。何行も続く長い文章は、最近の日本語にはほとんどないし、英語の長い構文は、日本語には無縁のものだ。ところがスタージョンを訳しはじめると、そういった常識にさからいたい気持が、むらむらと湧きあがってくる。この文章をこんなところで切ったら、作者の意図している全体の流れが途切れてしまうのではなかろうか。この曲折した文章は、そのままではとても日本語にはならないが、かりにいちばん近いかたちで訳せるとしたら、どんなふうになるだろう。といった問題が、数珠つなぎになって現われ、泥沼に踏みこむことになる。
 ほかの作家ではそれほどでもないが(なかにはシェクリイみたいに、まったく抵抗なく訳せる作家もいる)、彼の場合は、原文に忠実に訳さなけれぱいられないような気がしてくるのだ。
 スタージョンが、アメリカ本国ではハインラインアシモフなど巨匠と同列に並べられながら、わか国で意外と訳されない理由は、一つにはそんなところにあるのかもしれない。日本人にとっては読みづらい作家であり、訳しづらい作家なのだ。大きなことをいっているぼくにしても、この『夢見る宝石』 The Dreaming Jewels は最初の長篇でもあり、大衆性を意識して書かれているので、それほど困難もなく読みはしたが、近作『ヴィーナス・プラス・X』 Venus Plus X などはいまだに手が出ない。
 ここでもう一つ、スタージョンの一筋縄ではいかない特異性が問題になってくる。それは、アシモフやクラークで代表され、一般にそういうものだと信じられているSFとは、まったく趣きを異にする彼の幻想の世界だ。ブラッドベリと共通点を見出すこともできるが、ブラッドベリには少年的感性とヒューマニズムという、誰にでもとっつきやすい売りものがあった。スタージョンでは、それが、アメリカのSF作家にはめすらしいデカダンスと、「愛」になる。「愛」だけなら、文章がいくら訳しづらくても、もうすこしわが国の読者の需要はあっただろう。だが、そのデカダンスと「愛」の離れがたい渾融が、すなわちスタージョンなのだ。翻訳されている彼の作品のなかで、代表作といわれるものを考えてごらんになるといい。『一角獣・多角獣』 E Pluribus Unicorn のなかの「ビアンカの手」Bianca's Hands 「孤独の円盤」 A Saucer of Loneliness 「めぐりあい」 It Was't Syzygy またハヤカワ・ミステリ・マガジンにしばらく前に掲載された「輝く断片」 Bright Segment' そして『人間以上』 More Than Human もまた例外ではない。そのアブノーマルなところが、読者に違和感を与えるのだろう。
 だが、ていねいにお読みになれば、彼が「愛」の普遍的なかたちをさまざまなシチュエーションのなかで模索していることがわかるはずだ。(便宜上、「愛」と一言でかたづけてしまったか、作品によっては、それが「憎悪」のこともあるし、「好奇心」のこともある。「彼は人間を追求しているのだ」これはグロフ・コンクリンの言葉だけれども、「SF作家は人間をあまり描こうとしない」などと、SFをおまり読まない連中が常日頃いうので、内部のものがこんなふうに仰々しく騒ぎたてると、かえって陳腐で、わざとらしく聞える)
 ただ、スタージョンがあまりにも「人間」にかかずらいすぎるので、物語のなかの科学的な要素と人間的な要素が、しっくり噛みあっていない作品があることも事実だ。というより、全体を見わたすと、本格的SFをめざした作品より、そんな範疇にはいらない、掴みどころのないファンタジイやその周辺の作品に、目を見はるような傑作が多い。
スタージョンの小説は、宇宙船が出てくるともう駄目だ」こういったのは、ぼくの友人でスタージョン気違い(といってもいいだらう)のT君だが、本当にそんな気がする。彼がスタージョンの最高作だとすすめている長篇『きみの血を』 Some of Your Blood もSFからはおおよそかけはなれた、地に足のついた怪奇ファンタジイだ。
 こう考えると、日本人的な感覚かもしれないが、スタージョンの作品を「キャビアの味」と評した言葉も適切に思えてくる。とろけるような舌ざわりと、噛みしめたときのしょっぱいような、苦いような味、そしてあの生臭さ。嫌いだというなら手の施しようはないが、好きな人間にはこたえられない、それがキャビアの味であり、スタージョンの魅力なのじゃないか。

翻訳者紹介

永井淳(ながい・じゅん)
昭和十年秋田県に生まれる。
昭和三十ニ年埼玉大学英文科卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 ジョン・トーランド『最後の一〇〇日』(早川書房刊)
 コナン・ドイル『ロスト・ワールド』(角川文庫)
 サーバン『角笛の音の響くとき』(早川書房刊)


稲葉明雄(いなば・あきお)
昭和六年大阪に生まれる。
早稲田大学仏文科卒。
英米文学翻訳家。
主訳書
 ジョン・パカン『ザ・スパイ』(角川文庫)
 レイモンド・チャンドラー『チャンドラー傑作集I、Ⅱ、Ⅲ』(創元推理文庫
 フレドリック・ブラウン『発狂した宇宙』(早川書房刊)