SFの大衆化 大伴昌司

 SFマガジンが創刊したころ、といえぱ今から十一年も前のことである。近所の本屋の手ちがいで、創刊号がニ冊配達されてしまったことがある。返却できない事情があって、仕方なく一冊を保存用に置いておき、もう一冊を徹底的に読み古してから大森駅近くの古本屋に売りに行くと、五十歳ぐらいの親父さんはけげんな顔をして何度も発行所や表紙のナンバーをたしかめたあげく、10ポぐらいの活字でつけてあったサブタイトルを読んで『空想科学小説誌ネ。ああ、人工衛星の本ダナ』と納得したあげく金十円也の買値をつけられてガックリした経験がある。ちなみに同じ定価のEQMM誌はだまって五十円で買ってくれたものだ。
 また昭和三十八年ごろ、SF作家クラブで見学にいくことになった東海村の原研に申込みの電話をかけると、SFの意味を根掘り、葉掘り質問したあげく『SFとはスリラー・ファンタジイの略称と本人は申しておりますが、もう一度よく調査いたします』と上司に報告している声が筒抜けにきこえてきた。科学者なのにまるでSFなど読んだことがないようなムードだった。
 そのころに比ぺると、この一、二年、SFは急速に一般の人々に普及している。
 ひとつはアポロの月着陸がSFの存在をPRしたことと、さらにGNP世界第二位をきっかけにして未来論や未来物語がSFとからみあって多くのサラリーマンに読まれたためだろう。従来は絶対に当るはずかなかった「猿の惑星」のようなSF映画が、深夜興行で戦後最高の成績をおさめ、たちまちペスト3に入るような超ヒット作品となったことも、SFが大衆に受け入れられるようになったことの証拠といえるかもしれない。
 だが、SFの意味を知った人たちも、いざSFを読む段になるときまって大きな抵抗を感じるらしい。
 『SFは科学的知識がないと意味がわからないのではないか?』とか『怪獣やロボットが出てくる小説を読んでも役に立たない』『タイムマシンがどんな機械かよくわからないからSFを読まない』とか『絵そらごとすぎる』とか、SF読まざるの弁をたずねてみるとだいたい同じような答が返ってくる。
 たしかに(出版社には申訳けないが)活字のビッシリ詰まったSF本をみて読書意欲がちょっぴり失われそうになるのはSFファンとて同じ気持である。
 そこで順序として『ではSFを劇画にしたら、もっと多くの人々が読むことができるのではないか』とか『海外の名作SFの原作を買って、どんどん映画化したほうがいい』『ニ頁に一枚の割でカラーイラストを挿入すれば飯場のおじさんでも読んでくれるだろう』というような名プランが現われる。実際この数年間、いろいろな分野の人から、これに類するアドバイスをひんぱんに頂いている。
 だか、活字は読みにくいから絵にすればよい、という考え方は、まことに安易で危険であるとおもう。「二〇〇一年宇宙の旅」のように神経のきめこまかな映画になればよいが、ろくな金もかけずにご都合主義の脚本と演出で映画化されたSFはイマジネーションの退化をうながすだけの存在にしかならないからだ。映像文化の先端をゆくような劇画の世界も今や乱作、拙速主義の時代に入り、方法論も創作法も生れないまま粗悪な作品が氾濫しているような有様である。
 活字で表現されたイメージを形のある映像に移しかえる作業は、想像以上にむずかしいことなのだ。移しかえる側(劇画家やイラストレーター、映画作家など)の教養や人生経験の大きさ、感覚の豊かさが、SFほど強く要求される文芸はほかにないだろう。へんな科学知識をふりまわしたり、かっこうよさだけを狙った思いつき程度のアイディアをつけ加えたようなSF劇画や映画がウンカのごとく続続と出現する状況を想像すると、まだ現状のほうがマシとおもえてくる。
 たとえばSFを劇画にするとき、どんな手法を使うとプラスになるか、どんな手法を使えばぶち壊しになるか、現代の劇画の技法がSFに描かれているイマジネーションをどこまで有効に表現することができるか、機能的な面からのSF劇画作法といった分析がまったくなされていないということが、さらに不安感を生む原因になる。これは映画やテレビ、一般のイラストでもまったく同じ状況である。
 結局のところ、活字ぎらいにSFを読ませる(またはSFの世界に親しんでもらう)ためには”音”だけに頼ることが最も有利だ、という結論を私は抱きつづけている。音は視覚的なイメージを押し売りすることがない上、万一失敗した場合にも映像よりも簡易に訂正することができる。にもかかわらず、カセットや深夜放送がこれほど盛んになっている現代、いまだにロクなSF放送ドラマが生れないということも、また一つの不思議であろう。

翻訳者紹介

竹田宏(たけだ・ひろし)
昭和十五年東京に生まれる。
昭和四十ニ年早稲田大学仏文科卒。
大正大学講師/大東文化大学講師
主訳書
 ガブリエル・マルセル「演劇の時間」(春秋社刊)
 ガブリエル・マルセル「こわれた世界」(白水社刊)
 ジャン・ラシーヌ「エレニスについて」(早稲田大学出版部刊)


松谷健二(まつたに・けんじ)
昭和三年東京に生まれる。
昭和ニ十八年東北大学文学部卒。
山形大学文学部独文学科教授。
主訳書
 エルンスト・トロースト「砂漠の電撃戦」(早川書房刊)
 ハンス・オットー・マイスナー「アラスカ戦線」(早川書房刊)
 リヒャルト・コッホ「地球地獄」(早川書房刊)