外見の問題 星新一

 初対面の人に私はよく「意外ですなあ、もっと小柄でやせた人と想像していました」と言われる。短い作品を多く書いていることから、そう思われているのだろう。現物は大柄で、中年ぶとりになりかけ、顔つきは子供っぽく、声は低音でと、作品のイメージにあわなくて申し沢ないことだが、こればかりはどうしようもない。この外見にあうよう作風を変えようかとも思うのだが、読者はうんざりするにちがいない。
 むかしの作家は、なぜああも作品にびったりの外見をしているのだろう。ポーにしろ芥川にしろ、さもありなんという顔つきだ。ふしぎでならぬが、そのほうが普通で私が例外なのかもしれない。
 その点、小松左京は外見と作風との一致において、私よりめぐまれているといえそうである。雄大なる構想の作品を、エネルギッシュに仕上げる。彼にはじめて会う読者も、なるほど、作風にふさわしい人だなと、すなおに承知するはずだ。しかし、ふとっていて大柄な人は、それなりにまた損もしているようである。豪放磊落、つまり小事にこだわらない性格という既成概念の物差しで、早のみこみされやすい。
 小松左京のきめこまかな神経の網目が、もっと指摘されてもいいのではなかろうかと思える。彼の短編「くだんのはは」は、まさしくその産物である。精緻な銅版画の如く、むだのない入念な描写をつみ重ね、不安と恐怖の波動を強め、読者に共鳴現象をおこさせる。これを英訳して外国に紹介したら、読んだ人は「この作者はアッシャー家の主人のような繊細な人だろう」と想像することだろう。
 彼のユーモアを中心とした作品も、細部に至るまで笑いの構成に配慮がなされていて、それが独自の世界を展開する要素となっている。いわゆる一般のユーモア小説と、彼のとを読みくらぺてみると、小松作品がいかに高密度で、手がこんでいるかを再認識させられるのである。
 凝り性の現役作家というと、都筑道夫が代表であり、事実それはその通りである。それに関して面白い話が……と語りたいところだが、これは都筑用の月報ではなし。小松用のである。凝り性の点で、小松も都筑に劣らないのではないかと思われるのだ。彼はつねに卓上電子計算機をそばにおき、作品中の数字はそれによって正確を期している。
 うむ、SF作家はそうあるべきかなと反省し、私も手動式の計算機を買ったが、税金の申告計算に使ったきりで、あとは押入れにしまいこんでしまった。あるいは将来、それを引っばり出し、小説のなかにある数値を登場させることがあるかもしれたいが、そんな時に私は、とくいになってその正確さを強調するにちがいない。
 しかるに、小松作品ではさりげなく文中で、その数字が使われているのである。目立たぬ箇所に気がくばられている一例である。そして、その努力を読者にさとられぬよう、抑制している。なぜ抑制しているのかといえば、全体の構成とのバランスを考えているからである。
 そういった点は、小松ファンにとってはわかりきったことかもしれない。また彼と話した人は、デリケートな心と頭脳の働きを感じたはずである。それをなぜ、ここで私がとりあげたかというと「SF界のブルドーザー」との彼の異名が定着しかけており、その補足的解説が必要と思えてきたからだ。
 建設用機器メー力ーの小松制作所にひっかけたシャレがその名の発生の由来である。また bull は牡牛で、doze はぐうぐう眠るの意味。小松左京の寝姿にそんな感じかないでもない。
 余談になるが、牡牛の眠りがなぜブルドーザーという建設用機械になるのか。矢野徹氏に問いあわせたところ「強い牡牛をも眠ったようにおとなしくさせてしまう、おそるべき力をそなえたもの」との意味だと判明した。自然改造の機械にふさわしい名である。
 既成概念をくつがえすエネルギーという点では、彼とプルドーザーとに共通するものがある。しかし、私たちが日常使うブルドーザーという語感には、精密さの響きがない。「SF界のプルドーザー」との異名のひろまるのを私が気にするのは、そこである。
 彼の博学多識は周知のことだが、それ以上にぴっくりさせられるのは、知人や関係先の電話番号をみな暗記していることである。彼が各所に電話をかけるのを見ていると、手帳なるものを開かずにやっている。
 コンピューター的な才能である。私など、暗記しているのは自宅と早川書房と、一一〇と一一九だけだ。時報サービスと天気予報が、どっちか一一七で、どっちが一七七かさえ、とっさに思い出せない。なさけない話である。自分の年齢さえおかしくなってくる。私は大正一五年生れだが、大正一五年は一九二七年といつのまにかまちがっておぼえこんでいて、ひとと話しているうちに計算がおかしくなり、先日はじをかいた。
 彼のテーブルマナー、公式の席での礼儀正しさ、バイオリンをひかせての音楽的才能、航空機の性能と型とについての知識のくわしさなど、つぎあってみてはじめて驚かされる。つきあうほどブルドーザーのイメージが薄れてゆく。
 本当はここで、ちゃんとした小松左京論をもっと書けばいいのだろうが、それは話の特集社発行の彼の短編集「ウインク」のあとがきで、私が自己との比較で論じてしまった。未読のかたはお買いになってお読み下さい。印税が入り、彼も喜ぷことでしょう。もしその本が人手不能なら、その部分をいずれ私のエッセー集に収録するつもりですから、それをお買いになってお読み下さい。その場合に、印税は私のほうに入り、私か喜ぶことになるわけです。

左京さんのババ抜き 加藤秀俊

 さきごろ京都でひらかれた国際未来学会議での左京さんの役まわりは、「イベント委員長」であった。要するに開会式から閉会式まで、あれこれの催しものを計画し実行する係なのである。
 この人事−−というのも大げさな話だか−−は、たまたまご本人の欠席なさった理事会で決定された。とにかく、ニ百人以上の、さまざまな国からの参加者をアッといわせる趣向を考えてもらうことのできる知恵者はかれ以外にいないだろう、と会長の中山伊知郎さん以下全員が満場一致でこの委員長任命を決定したのである。
 数日経ってから、わたしは左京さんに会う機会があり、カクカクシカジカと通達したところ、かれは、あまり大きくもない目玉をむいて、ヤだよ、そんなの知らないよ、と絶叫した。まあ、これは無理もない話で、ちょうどそのころ、左京さんは、万国博テーマ館の地下室でヘルメットをかぷり、展示のプロデューサーとして、世界各地からあつまった民俗資料を飾りつけるのに全力をあげていたのであった。
 じつのところ、このテーマ館うんぬんというのも、かれをとりまく悪友だのの陰謀のニオイが濃厚であって、ぼう大な計画書をかれに渡し、さア、小松ちゃん、やってよ、あんたをおいて人はないんだから、という筋書きになっていたかのごとくに見えるフシかないでもないのである。じっさい、ことしの冬のある晩など、わたしたち数人、コタツに入って酒を飲みながら、ああ、左京はいまごろ、千里のまっ暗な地下室でウゴメいているのだね、といささかシンミリと罪悪感をおぼえたりしたおぽえがある。
 さて、そういう地下生活で疲れ果て、もうSFなんか書けなくなっちまった、冗談じゃないよ、というヤケッパチの心境になっている左京さんに、こんどは未来学のイペントを押しつけたのであるから、かれが悲鳴をあげるのもムリはない。それに、これは理事会の一方的決定であったのだから、異議申立ての自由はあった。そして、たしかに、かれは異議を申立てたような気もするのだか、いつのまにかウヤムヤに既成事実ができあがり、しぱらくたつと、左京さんは、ついに強迫観念にとりつかれ、しようがないなア、といってオミコシをあげて下さったのである。
 イペント委員長というとキコエはいいが、これはべつだん委員のいる委員会の長というわけではなく、どっちみち左京さん単独個人、ということだ。長、というのは景気をつけるためのトリックで、ふと気がついてみると、左京さんただひとり、会期中のすぺての行事の責任者ということになっていた。さすがにたまりかね、ヒトを出せ、ヒトがいなけりゃどうにもならない、と叫ぶ。
 ところが、時期がわるい。折しも学年末であるから、学生アルバイトをさがすにしても成績のいいやつは卒業をひかえて心うきうき、アルバイトなんてツバもひっかけないし、在学生も帰省してしまっている。とにかく、かきあつめてみると、これがことごとく留年組で、ひとクセもふたクセもある怪人物ばかり。いちいちこましゃくれたリクツをこねまわし、左京さんの顔をみると、タバコくれ、メシ食わせろ、という手合いなのである。
 左京さんは、空をあおぎ、バパ抜きだねエこりゃあ、と嘆息をもらした。大学の先生がもてあましたのが自分のところにまわってきた、という意味である。そして、この数人の学生をかれはニャロメグループと命名した。
 何回かニャロメとの会合がつづいたらしい。らしいというのは無責任な言い方だが、このニャロメは三人寄ると雑音はなはだしく、会合は事務局からはなれた一室でやってもらうことにしていたのである。だが、ひと月ほど経ったとき、わたしはニャロメに重大な変化が起きたことに気がついた。かれらは左京さんに心服したのである。大学の先生にはいちいち異をとなえる学生が、左京さんの指示のもとに眼をかがやかせ、ハイ、ハイ、とうごくようになったのである。
 そのようなワケで、学会の内容はともかくイベントのほうは大成功であった。開会式でニャロメが数台のプロジェクターをあやつって左京さんの演出による映像ショウをやったのが好評で、外国人参加者からは、じぷんの報告にスライドを使うのだが、ぜひ、あのワンダフルな映写技師にやってもらいたい、という注文が殺到し、ニャロメはイエス・イエスとプロジェクターをもってかけまわることになった。ついひと月まえまでは、アメリカ製プロジェクターをはじめて見て、へえ、これ、なに? などと心細いことをいっていた連中が、映写技師になってしまったのである。
 左京さんのあの精力的なはたらきのなかにはこういう面がある。ババ抜きとかれはいうけれども、ふつうの人間にとってのパパ抜きは左京さんには通用しない。かれが、ジョーカーを手にしたとたん、ゲームはパバ抜きではなく、ツー・テン・ジャックになっているのである。ジョーカーの使いようが変っているのである。わたしは、かれの作品を掛値なしにぜんぶ読んだ。作品についても、たくさんの賛辞をおくることができる。しかし、わたしにとっては、人間としての左京さんの偉大さが、まずだいじなのだ。
 会議がおわってから、ニャロメがおしゃべりしていた。
 「小松さんってやさしい人だな」
 「うん、ほんとにいい人だな、思いやりがあって……」
 「会いたいな」

著者紹介

小松左京(こまつ・さきょう)
昭和六年大阪に生まれる。
昭和二十九年京都大学文学部イタリア文字科卒。
日本SF作家クラブ会員。
日本未来学会会員。
主著書
 「日本アパッチ族」(光文社刊)
 「復活の日」(早川書房刊)
 「エスパイ」(早川書房刊)
 「地には平和を」(早川書房刊)
 「地図の思想」(講談社刊)
 「見知らぬ明日」(文藝春秋刊)