収録作品(福島正実・野田昌宏・伊藤典夫編) フィッツ=ジェイムズ・オブライエン「金剛石のレンズ」稲葉明雄訳 アーサー・コナン・ドイル「ロス・アミゴスの大失策」福島正実訳 H・G・ウエルズ「新加速剤」宇野利泰訳 クルト・ラスヴィッツ「万能図書館」小尾芙佐訳 エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」稲葉明雄訳 アンブロウズ・ビアス「霊の内なる難船」中村能三訳 ギョーム・アポリネール「オノレ・シュブラックの失踪」窪田般弥訳 エドガー・ライス・バロウズ「火星の月のもとで」関口幸男訳 A・メリット「竜の鏡」団

科学の檻 塚本邦雄 

 一頃のぼくにとってSFとは、「火星年代記」と「鋼鉄都市」がそのすべてであり、他を悉く消去してもこのニ作さえあれば良いと頑固に信じていた。勿論、ブラッドベリアシモフの最高作であることは、大概のつむじ曲りでも認めるだろうし、てはフィニイはどうした、ハインラインを忘れたか、バラードをなぜ挙げぬと詰寄る面々には、苦笑をかえすよりみちがない。何につけても晩熟のぽくが、SFを始めて読んだのは十二年前、'59秋に出た「第四次元の小説」(荒地出版社)だった。ここにはSFなどという呼名は全然出て来ない。そして結果的には、巻頭のポージスの「悪魔とサイモン・フラグ」から巻末のドィッチェの「メビウスという名の地下鉄」まで揃って<空想科学小説>であることを誇示している。ハインラインもここに肩並べた「歪んだ家」で初めてお目にかかった作家であり、佳作「夏への扉」(特にこの邦訳題名も、原題に即していて実にうつくしい)を読んだのは数年後であった。それはともかくこの小説集の中の一つ一つ、ほとんど記憶に残っていない。「火星年代記」の部分部分を、小笠原豊樹訳で暗誦できるぼくにとって、この稀薄な印象は異例のことだが、今読返してみても、新鮮無類であるくせに凡作ぞろいである。辛うじて記憶しているのは、メビュースの環にクラインの壺などという、手品の種、位相幾可学の応用問題くらいである。
 それ以後ぼくはSFの特に科学に妙にこだわりなから、数百のSFと称される作品を貪り読んだ。科学に縁が無い小説は固意地に、これは幻想小説として脇におき、別に愛することにしていた。もともとぼくは小説を、百貨店の売場か何かのように、部門別に色分選別することなど虫唾がはしるほど嫌いである。バイブルから野坂昭如にいたるまで東西古今次元入乱れ、面白けれぱ心中もしようし、面白くなければ屑籠にすてると言うとんとSF的な読書癖が身につき、その反動で枠に入れて、否檻に入れてこちらは何々小説といいたけれぱ、終始徹底するがよかろう、色分ならどんな寒色暖色の混合でも意地になってやり遂げてみせようと、変に絡む心意気で、ブラッドペリなどでも「刺青の男」は金輪際SFと呼ぶ気は無い。ぼくには<小説>があれぱ、強いてあえて無埋矢埋に貼紙つけようなら<幻惣小説>があればよいので、科学、非科学一向に構ってなどいられない。そこを枉げて構ってSFの古典となれぱウエルズが、そこのけそこのけ元祖が通るとばかり、昔クリケットで鍛えた敏捷な身のこなしで出御あそばそう。この一種のスーパーマンの、SFの申し子、否御先祖様については、貶そう者に神罰風の、定家もどきの威光を先ず鑽仰せねぱなるまいが、それに加えてぼく自身も「世界史概観」等々で一方ならぬ裨益を受けてもいることだから、オマージュの百枚奉りたいのは山々ながら、ただの一度もまことに感動した覚えがない。そこには光りかがやく先見の明と、怖るべき予言の力があるにはある。健康で高邁、かつ雄大な世界人的気魄に満ち満ちてはいる。そしてそれを認めれば十分なのではあろうが、ぼくの<小説>はそこには無い。「タイム・マシン」もあるいはヴェルヌの「悪魔の発明」も着想以外は退屈である。ウエルズのファンが芸術的香気ありと口を揃えて褒辞を捧げる「塀についたドア」や「水晶の卵」も、この種のものなら何もウエルズを俟つことはあるまいと思うのみである。空想と科学を統一して、更に今一つの「未来小説」なる貼紙を貼られそうな、「火星年代記」の徹底したニヒリズムの前には、すべてぼくには光を喪う。
 ウエルズの盟友、ヘンリー・ジェイムズジョゼフ・コンラッドは、彼のSFに慊焉たるものを覚えたればこそ、<純文学>をすすめたのだろう。芸術家づらはしたくないとジェイムズにむかって啖呵を切ったウエルズも亦、みずからの小説が<芸術>に縁遠いことを悉知していたに違いない。タイム・マシンに駕って現代に現れたウエルズが、「火星年代記」を読んだなら、必ずや顔をしかめ舌打して、その絶望的な文明批評を、毒を含んだ懐疑的な世界観を、眦つりあげて難詰し、長々と訓戒を試みることだろう。
火星年代記」二〇〇一年<月は今でも明るいが>の、あの六月に火星に下りて、なまじっかヒューマニズムとか良心を持っていたために、隊長に、しかも自分を愛してくれる隊長に撃たれて死ぬスペンダーの、暗澹たる悲劇が、果してウエルズにわかるだろうか。ほくも単なる悲劇ゆえに、人間を直視しているゆえにブラッドペリに手を振るのではない。呪われた、醜い、卑怯な、この人間なる生物を、かくもいとおしく、あふれる涙をおさえながら如実に謳った作家は空前絶後と思えばこそ、次元超越してウエルズの上におこうとするのだ。大上段にふりかぷるなら、ブラッドベリのもつ美学がぼくを魅了するのだ。この冴え冴えと澄み、苦味舌をうつブラッドベリの美学と、渾沌として錯綜し、熱を病んだようにとろりと甘く、然もその奥に叡智の目の光るバラードの美学は、まさに対照的であり双璧と言えようが、ぼくはどう言うわけか、バラードの作品に酔ったことも感動したこともなく、われながら奇異である。
 アシモフも亦その閲歴から見ればウエルズの申し子的である。ぼくは彼の作品の中から条件つきで、凡百のアンドロイドものの最高作として、「鋼鉄都市」を好むのみである。たとえばその続篇「裸の太陽」なども、第二章の旧友邂逅のシーンをのみ、前篇の余映として愛するが、他の夥しいお伽噺的SFには一向に舌鼓が打てぬ。ただ「鋼鉄都市」のイライジャ・ベイリ刑事と、人造人間のダニイル・オリヴォウ青年の交情の美しさ、清々しさは稀有のものであり、ぼくは唐突ながら、G・バクスト作「ある奇妙な死」の黒人刑事ファロウと作家セス・ピロの衆道関係すら連想した。これはSFではなくまして警察対犯罪人の関りあいだが。若しアシモフでなく、ブラッドベリが「鋼鉄都市」を書いていたら、すべての人間に絶望し、人造人間にのみ愛着を覚える人間達の一人として、このイライジャ刑事を浮び上らせたろう。利学のSにさえ拘泥せねば、古典はSFの宝庫である。「神曲」も「ガルガンチュア物語」も「千一夜物語」も、さては古事記も霊異記もお伽草紙もこれに類する数々の物語も、あるいは秋成の諸作、否その小説すべて、秀抜無類のSFである。近、現代に入るなら、アポリネールから石川淳まで、<芸術家づら>せぬ芸術家の諸作、SFならぬものを挙げる方が至難ではあるまいか。こだわるまでもなく、SFとは恐らく過渡的便宜的な一時期のことさらめいた呼称であろうし、またあることをぼくは願ってている。

SFとの出会い 中島靖侃

 灰色の平原が金属の一枚板のように視界の限りひろがっている。空は乳白色で何もない空間。地平線に向かって六本の平行線が真直に並んで無限に走っている。なんとも冷たく寂しい情景で、見ているうちに我慢ができないほど無気味になり恐怖の叫びをあげると、紋帳の裾をはねあげ外へとび出した。廊下に坐ってから夢だったと思う。終戦後まもない或る日の夜明け前、もう、電灯が外に見えてもいいんだと、雨戸を閉めずに寝ていた。ガラス戸の外では弱い嵐といなづまが交錯していた。両親は疎開して家に一人残りなかば栄養失調の体に三十九度近い発熱があった時だ。


 日射しがまぶしい。一面みどりの麦畠の中の道を友達の家まで歩いて行く。十メートルくらい横の麦穂の上に真紅の服を着た女の子が突然現われたのが眼鏡の端に映る。ハッとひかれて視線を向けると、もうそこには何も見えない。白昼夢。


 あ、またここへやって来た。どうしてここへ来る夢ぱかり見るのか、もう三日日だ。いや先週の分までいれると五回目だ、と夢の中で思う。現実には一度も見たことも行ったこともない沼のほとり、囲りには葦が繁って道はない。沼の向うには何があるか、行ってみたい。よし、いつか夢の中で両足を一所懸命こいでいたら空を飛ぶことかできた。あのてで行ってやろう。私は空中に跳び上がり一所懸命駈け足をする。少しずつ高く浮上する。もっと速くもっと遠く足を漕いで前進をするが、沼は思ったより広く、向う側はまだ見えない。四分の一ほど沼を渡り、もっと高く昇ろうとした所で目がさめる。よし、明日、もう一度同じ夢を見て、今度こそ向う側に行こう。少年の頃の夢。


 庭で土いじりをしていると蜂が足にとまってしきりに爪で引っ掻きはじめた。胴がひどく細くくぴれたジガバチだ。足を退けると、その下の砂粒を蜂か引きずり寄せた。穴がある。蜂は近くから青虫を運んで来て穴に入れ人口を元を砂粒で塞ぎ、どこかへ飛んで行った。穴を掘って見ると麻酔させられた青虫に真珠色をした米粒のような卵が着いている。瓶の中に巣を移し、何日か見まもる。やがて白いうじになり青虫を食い尽し蛹となり蜂になって出てくる。奇妙なおどろきと感激。


 幼少年時代から現実より本の中の世界で過して来た方が多い私。雑読乱読、万を越す量読で、中にはSF的なものも多数あったと思うが今はおぼろの記憶しかない。意識してあさり治めたのはニ十代も終りの頃、元々社の最新科学小説全集あたりからである。外出すると、あちらで一冊、こちらでニ冊と集め、アメージングストーリイズとか、少年科学小説全集、世界空想科学小説全集などが今も廊下の棚の上で埃をかぶっている。
 本格的にSFと出会えたのは、SFマガジンの創刊号から表紙絵を担当する幸運にめぐまれたことによる。読むだけの立場から読ませる側の一員に加わったわけだから、幼少年時代の幻想が現実になり、私の表現意欲、探求意欲をかきたて満足させてくれることになった。それからはSFについて本気で取組み、日本に今までなかったSF画を作るべく色と形の感覚で創意、工夫、実験に努力をしたつもりである。
 雑誌やポケットブックも百点近くずつ手にはいったので読書欲も満たされた。
 画家としての仕事をさらに開拓する上で、技術的にも精神的にもSFとはもう切っても切れない仲になりつつあるような気がする。

土方的SF賛成論 荒巻義雄

「……SFは高級な一種の白痴芸術ではないかと思った。たとえば歌舞伎の荒唐無稽さやオペラのばかばかしざに通じてゆくところがある」といった、ある中くらいの文芸評諭家がいた。この人は知性的なのだろうか、それとも痴性的なのだろうか。どうせ物にたとえるのなら、あんな高級な歌舞伎やオペラになぞ、なぞらないで、『よってらっしゃい、みてらっしゃい。お代はみてのお帰り』の場末のストリップや、女剣劇か、祭りの見世物にたとえて欲しかった。
 三島由紀夫安部公房北杜夫といった作家をのぞけば、SFに対する文化人の評論は大体こんなところである。
 だが、白痴の痴という字が、病だれに知と書くとおり、痴は病める知のことだ。SFがこの評論家の眼に痴的に映ったのは、方法としての痴、知性の逆説としてのSFの痴性に気づかなかったからだろう。ぽくも、かれこれ十数年、この白痴芸術とつきあっている一人だが、SFをばかばかしいと思って読んだことは一度もない。ぱかばかしいのは病める痴性の横行する現代社会の方である。そうじゃなかろうか。
 確かに文学者は偉くなった。小説家が国会議員になったり、文学碑なるものが建ったりする。文芸雑誌にはポートレートがのる。文化勲章をもらう。でもこの小説家という名の芸術家は、昔は、河原乞食と大同小異だったのである。今では大学の先生が小説を書いているが、昔は葛西なにがしなんてどうしようもない大酒のみだの、髪結の亭生みたいのが、小説家になったものだった。
 小説なんてものは、その素生を探れば、多分に痴呆的であり、元々、無頼漢的だったのだ。でも、その時代のように落第生や軟派学生や生活不能者の書いた小説の方が、はるかに人間的に生々としていて面白かった。あの頃には小説があったのだ。今はない。秀才方のお書きになる現代小説はスケールが小さい。日本の小説を面白くなくしたのは志賀直哉という小説の神様だ、白樺派新思潮の連中が、小説を駄目にしたのだ。日本を代表する川端文学も谷崎文学も、どうみたって庶民生活からは縁遠い存在だ。少年から老境へとぴこしており、青年や壮年の時代がない。社会にとって一番大切な働きざかりのその時代がない。そんなわけで、ぼくとしても世間の文学青年並に、読書は沢山してきた方だが、結局、目本の現代小説には入りこめるすき間さえなかった。もし共感を得たとすれば、せいぜい戦後の戦記文学、戦前のプロレタリアート文学ぐらいだったと記憶している。
 むろん海外小説は、大いに読んだ。でもこれだってあらかた読み尽してしまい、結局、SFにもどってきたのである。釣は鮒にはじまり鮒におわるというが、ぼくの場合は、読書はSFにはじまりSFにおわりそうだというわけだ。
 少年時代には海野十三山中峯太郎南洋一郎を読んだ。あの頃は読む実感があった。愉しかった。懐中電灯をもってふとんの中にもぐって読んだ。読書とは一体なんだろう。愉しく読んではいけないものなのだろうか。偉い先生方のおっしゃるように、読書は人生の糧を第一義とすぺきなのだろうか。ひと昔前の山賊やお姫様や英雄豪傑が活躍した立川文庫の講談本は悪書なのだろうか。だから、今のSFはだめな本なのだろうか。
 でもそんなのは嘘っぱちだ。コンコンチキだ。現代小説に人生の糧などあるものか。むろん例外はある。でも大部分の日本文学の描く世界たるや、家庭の中のいざこざだとか、芸者をひかせる話だとか、銀座のホステスと何することだとか、上流社会のあでやかな生活だとか、不良少年のヨット遊ぴだとか、安保闘士の転向の話だとか、確かに芸術的で良心的だが、およそ一般人にとっては縁遠いお話ばかりではないか。
 冗談じゃない。こんな小説から人生の御手本を学ぷやつばかり出てきたら、日本国なんて五年もたたないうちに破産してしまうだろう。
 つまりそういうことなのだ。なぜ、日本のSFが、一部の文芸評諭家たちの罵詈雑言に耐えなから、ここまで読者をふやしてきたのか。広告だってあんまりしないのに、読者が本を買ってくれるか、口コミで紹介してくれるか。要するにSFが日本の現代小説が満そうとしていないもの、新しい読書世代の渇望を満そうとしているからではなかろうか。だから着実に伸びているのだ。この狂った現代に問いかけるから、抑圧された若者を新しい世界へ、センスオブワンダーの旅にさそうからとはちがうか。
 というぼくは、昭和八年生のちっぼけな土建屋だ。ぼくは文学にあきたらなくなって、土方になった。いまは家を建て、下水を入れ、道路をつくっている。本物の人生はここにあった。そんなほくにとって、実生活の余暇を利用して、SFを読み、また自分で書くことが、一種の生きがいになっていることを告白しよう。
 むろんひと口にSFといっても、種類は色々だ。ぼくはぽくなりに、それは知識の小説だと考えている。文学青年、いま技術屋のはしくれとなったぼくにとって、実生活から得た色々な事柄、体験や知識や願望やそこで得た人生観やそんなことを、最もふきわしく書きあらわすことのできる形式は、このSF以外にはないのである。SFは、ぼくの現実生活の延長した世界なのだ。それは現実から遊離した絵空事の世界ではないのだ。それを空想だといって軽蔑する人は、きっと、本物の実人生だって本気になって生きていない人たちたのだ。
 知識は現場にあってはじめて生きてくるものだと思う。知識というものは、土や油やインクやそういった現場特有の匂いと入りまじってはじめて本当に、人間的に、人間の実存にかかわりあってくるものではないだろうか。書斎人の本の中や、エリート的な知識人の頭の中にある知識は、単なる知識でしかないのだ。お百姓や運転手や工員さんや、ラーメン屋のおやじや、一般サラリーマンやそういった人々が、それによって生活している知識こそが、本物の知識ではないのか。そういう知識を盛りこめるのはSFしかないと、ぼくは思う。それは日本の文壇的な小説の世界からは縁遠いものだ。でも、生活する人間にとっては、この方がよっぽど大切なものだ。
 その昔、アートという言葉は、芸術と共に技術をも意味していたという。それを今こそ思いおこそう。SFはいわゆる芸術至上主義的小説を目指さない。でも、そこには現代小説が見落している、すごく大切なものが一杯つまっている。つめこめる可能性がある。土方のように気どりのないこの小説形式は、現代社会にあって、最も可能性のある、未開拓の余地の一杯ある、小説の新しい土壌なのだとぼくは思う。