収録作品(福島正実・伊藤典夫編) レスター・デル・リイ「愛しのヘレン」福島正実訳 ロバート・A・ハインライン「歪んだ家」吉田誠一訳 アイザック・アシモフ「夜来る」川村哲郎訳 ヘンリイ・カットナー「トオンキイ」南山宏訳 P・スカイラー・ミラー「存在の環」南山宏訳 マレイ・ラインスター「最初の接触」伊藤典夫訳 ウィリアム・ラン「クリスマス・プレゼント」福島正実訳 クリス・ネヴィル「ベティアンよ帰れ」稲葉明雄訳 ジャック・フィニイ「こわい」福島正実訳 ポール・アンダースン「野生の児」邦枝輝夫訳 ジェイムズ・ブリ

第三の顔 稲葉明雄

 今年最大の茶番は、なんといっても、アポロ11号の月面着陸探検行だろう−−というより、テレビ局によばれた解説者のかたがたの反応ぶりである。
 私も人なみにテレビの前にすわり、逐一、進行状況を眺めたくちだ。打上げ(これも打上げなのか打下しなのか、考えてみるとわからないが)から月面到着、地球着水とつづく経過は、計算どおり成功して、なにも面白くはなかった(失敗したとしても、やはり何も面白くなかったろう)、よく新聞に出でいる写真とおなじじゃないか、と言って、家人に嗤われた。
 太陽系だけの天体図にかぎってみても、月へ行くなぞは、たかだか自分の家の犬小屋をのぞいて見る程度で、隣近所の家との交際とまでもゆかない。こういう考え方は、なにも私がふだんSF的世界に馴染みすきているからでもないし、私がなんでも横目でみる天邪鬼だからでもないと思う。
 ポイントはただ一つだ。
 月旅行のニュースと呼応して、アメリカ国内の黒人が、そんなものに厖大な国費を投ずるくらいなら、なぜ、まずわれわれ貧民救済にふりかえないのか、と騒いでいる模様が報道された。
 これにたいして、わが国の新聞やテレビ解説者たちの意見は、私の知ったかぎり、だいたいニ種類にわかれていた。一つは、月面着陸は二十世紀における人類の一大壮挙であり、たしかに貧民救済問題にも眼をつむることはできないが、進歩のかげには犠牲はつきものである。人類の科学、文化は昔からこのようにして前進をつづけてきたのだ−−ひらたく言えば、”尻の穴の狭いことをいうな”という考え方であった。
 もう一つは、前者とまったく正反対なのではなく、その差異は微妙なものだった。すなわち、この二つの問題は人間社会がつねに直面しなけれぱならぬ必然的な矛盾であり、われわれの手ではどうにも解決のつかぬものだ、という考え方だ。字にかけば同じように受けとられろだろうが、テレビ画面でみると、前者は、犠牲をふまえて人類進歩にくみする人の、毅然とした溌溂たる語り、後者は、矛盾に身をよこたえる人の、悲愴な渋面となって、はっきり区別できた。
 見ていた私は、このどちらでもない、第三の顔がほしい、という気持ちにひきずられてゆく自分を感じた。
 月世界旅行といえども、やはり、一個の無駄にすぎぬのではないか。人間の情熱のあらわれだ。人間の情熱なんて、ぺつに珍重すぺきものではない。最初からあるのだ。したがって、黒人の貧困問題とはなんの関係もない−−どちらも人間にもともと強いられたものである。”遊び”というと、お先走りの前衛主義者から誤解されるかもしれぬが、漱石の『三四郎』にでてくる与次郎の口をかりれば、”偉大なる無駄”である、無為ですらあるのだ。そんな考えが頭のなかをのろのろと漂流した。その意味からすると、人間にぱどうにもならぬ、いわぱ天命のようなものだ。無駄はただ無駄であって、ほかの意味はない。意味をつけようとするのも、これまた人間のさだめかも知れぬが、それがしぱしは前二者のように、短絡的な結論を招くのだろう。
 似たようなことが、三人の宇宙飛行士の安危を案じるという形であらわれた。米国ではベトナム派兵や交通事故でおおくの人命を失っているのに、わずか三人の英雄の身の上をああまで気遣うなんて、矛盾ではないか、ナンセンスな似而非人道主義ではないか、と一応は考えられる。が、これまた同じ短絡的思考なのだ。三つの事柄はぜんぜん無関係に、しかも同時に地球上に存在している事実なのであろう。
 では、こういう考え方は不毛なのか? 人類社会に裨益するものを何も産まないのだろうか?
 いや、これからが本題なのだ。この”偉大なる無駄”こそ、SFの発想そのものに他ならないと、私は考える。
 SFにもいろいろあって、残念ながら、前ニ者の短絡的結末でおわる作がおおいことは否めない。しかし、発想といっても、所詮、時代の意匠にすぎない。”人間の無駄な情熱”から生れた考え方の源流は、古くから連綿とつづいているはすだから、なにも心配することはないのである。まず、世界の古典のなかで、”SF的”と呼ばれているものは、ほとんど例外なく、どんなに緻密に構成された作品でも、のうのうとした無方図さをそなえている。第三の顔がどんな顔であるか、絵に描いてみせることはできないが、この顔をもつかぎり、SFは文学にたいして遠慮することはあるまい。
 これまで私が読んできたなかで、もっとも面白かった作の三つばかりを挙げておこう。


 一、大町桂月訳『西遊記
 ニ、羅貫中平妖伝
 三、スウィフト作 中野好夫訳『ガリヴァー旅行記

西遊記』はご存じのものだが、漢文の読みくだしで、”二人の悟空、闘いながら西天に到る”の挿話がとくに面白かった。古い本で、全体が無駄に徹している。
平妖伝』は、もう筋をよく憶えていないが、なんでも真田十勇士ぱりの妖術使いが数人、敗北必至の戦いにのぞんで、悲愴感をまじえず坦々と技を尽すあたりが、”第三の顔”的である。
ガリヴァー旅行記』は説明の必要もあるまいが、最終章の”馬の国”が白眉である。かてて加えて、作者スウィフトが、このあとの晩年を、狂人にちかい廃疾者のまま終ったということが、おのれを滅ぼすまでの無為な情熱を象徴しているのが、一層、その印象を強めている小説である。

シュールレアリスムと新しいSF 山野浩一

 SF読者の中には「シュールレアリスム」をSFに近いものとする考え方があり、極端には、ある作品を「シュールか、SFか」というようないい方で並列的なジャンルとして分類している場合もある。私自身「シュール派」と呼ばれたことも何度かあり、一度この両者の関係について私の見解を述べたいと思う。
 とはいえここでシュールレアリムスとSFを詳しく研究することで、大がかりな論文をものにするつもりはない。これは、いわばシュールレアリスムとSFに関する私の感想というべきものであろ。
 シュールレアリスムは芸術理論を中心に方法論まで発展させた運動であり、SFは理論体系に束縛されないジャンルである。
 従ってこの両者を並列的に考えることはできないし、両者の関係が近いとか遠いといわれるような距離を考えることはでぎないだろう。いわばシュールレアリスム運動にSFが生まれてもよいし(アポリネールの作品がそうである)SFにシュールレアリスム理論や方法論が反映してもよいはすである。
 私はシュールレアリスム運動は、創作活動に於ける理想主義を確立したものであったと思う。それは従来の伝統主義から解放し、人間的な原点から芸術の理想を追求することであった。そしてシュールリアリスムが理想主義的に展開されたからこそ本当の作品を一つも生むことかできなかったのだと考えている。このいい方は少々冒険的かと思うが、初めにロートレアモンがあリ、終りに(たぶん終りだろう)ジュリアン・グラックがあるだけで、運動の栄えていた時期のブルトン、エリアールらの作品は断片的なものでしかなく、ロートレアモン、グラックも初めと終りだから作品たり得たのであり、シュールレアリスムの理想を本当に実践した作品など存在しないし、存在し得ないぼずである。
 しかし、シュールレアリスムの理論と方法論は様々な芸術に大きく受け継がれた。それは解放的であることで伝統芸術の体系外に登場し、人間的であることで大衆的なものとして展開した。
 即ち、ダリ、エルンストらの作品はポップアートの基礎となり、美術館を出た絵画、例えば横尾忠則のポスターに代表されるような大衆的な画として現代に発展したのである。
 同様に音楽の面でもビートルズに代表されるポップミュージックにはシュールレアリスムの理論と方法が生きており、「レヴォリューション9」のような純粋なミュージックコンクレートまで登場しているほどである。こうしたシュールレアリスムとポップスのつながりは体系的なものではなく、シュールレアリスム運勁とその前後の芸術活動から生まれた理論と方法論の吸収により、夫々のジャンルの中から必然的に生れたものである。
 つまりシュールレアリスムがポップスに発展したのではなく、シュールレアリスム運動に生まれたものが、ポップスに内部的に再開発されたのである。
 さて、文学に於いても、こうした新しい創作が生まれて当然といえる。シュールリアリスム運動は文学運動であり、それが伝統的な文学を少しずつ変えてはいたが、真の意味の解放はなかったし、人間的な原点に戻ったものでもなかった。
 ところがSFの新しい傾向は、文学に於けるポップスといえるもので、方法論としても理論的にもシュールレアリスム的なものがみられるのである。
 つまりバラード、オールディスらの作品は、丁度ビートルズの音楽が、それまでのメロディ主義、リズム主義から脱け出して「サウンド」に解放されたように、ストーリー主義やアイデア主義から脱け出して新しい小説となっており、しかも伝統主義からも解放された人間的な作品でもある。
 ボッブミュージックもSFもアメリカで停滞し、イギリスで新しく生まれ変った点も不思議な共通性だが、それを利用してアメリカでコマーシャル化されつつある点も一致している。(ポップアートの場台は、やはり英国生まれだが、アメリカで発展した)
 もともとポップスもSFも最も自由なジャンルであり、大衆的に育ったという点で、シュールレアリスム理論を発展し易かったわけであるが、同時にシュールレアリスム運動の体系から生まれなかったために、ストイックな前衛となって行きづまることもなかったわけである。
 バラードの言う「浜辺に寝ころんだ健忘症の男と、錆びた自転車の間の本質」とは正しくシュールレアリスム理論である。しかも、それはやはりSFに登場した理論であり、SFの新しい可能性なのである。シュールレアリスムは理想主義を確立して消滅し、SFやポップスに作品としてそれらのジャンルの内部から現れたのである。
 従ってシュールレアリスムとSFの関係は体系として繋らないにもかかわらず、SFの中にシュールレアリスムの理論や方法論があるといえるのだ、もちろんここでいうSFとは、これからのSFであり、伝統主義から脱け出した理想主義的な意味でのSFである。
 こうした新しいSFに関する問題点は、シュールレアリスム運動を体験していない日本の文化にどれだけ定着するかということであろう。絵画の面では熱心な若手芸術家たちの運動によりポップアートは大いに発展したが、音楽の面では日本のポップスは歌謡曲の変型でしかなく、映画の面では海外の映画祭で古くささが笑いものになったほどである。
 日本と同じくシュールレアリスム運動が大きく発展しなかったアメリカでも、ポップスはコマーシャリズム化しており、新しいSFもゼラズニイの作品のようなコマーシャリズムを感じさせるものが多い。コマーシャリズムが悪いわけではないが、そこには大衆と創作側との関係が停滞する危険が常にあるわけで、創作側が大衆に受け入れられるものだけを生み、大衆もそれだけを望むようになれば、シュールレアリスムの理想の完全な崩壊である。日本SFに対する心配は作者と、読者の両側に向けられるものなのである。