収録作品(飯田規和編) イワン・エフレーモフ「宇宙翔けるもの」 ゲオルギー・グレーヴィッチ「創造の第一日」 ワレンチナ・ジュラヴリョーワ「宇宙船ポリュス号の船長」 アナトーリィ・ドニェプロフ「人間の公式」 ウラジーミル・サフチェンコ「ベルン教授のめざめ」 ストルガツキー兄弟「六本のマッチ」 M・エムツェフ&E・パルノフ「雪つぶて」 セーヴェル・ガンソフスキー「湾の主」 E・ヴォイスクンスキー&I・ルコジャノフ「不可能の方程式」 イリヤ・ワルシャフスキ「予備研究」 スタニスワフ・レム「事故」 アンジェイ・チ

ロシア・ソヴィエト文学の幻想性 川端香男里

 ロシア文学はおそらく日本人の読者が明治以来もっとも身近に感じてきた外国文学だろう。それだけにロシア文学に対するある種の思いこみ、思い入れというものも強くて、ロシア文学は泥臭いほどのリアリズムで一貫しており、人がいかに生きるぺきかということに常に思いをこらすいささか重苦しい文学だというのが、かなり固定された観念になっているようだ。だからファンタジーの軽やかな飛翔の上に成り立っている幻想的な文学、ことにSF文学とは何か相容れないような感じを読者はもつのである。
 私自身も十八世紀から十九世記のロシア文学を主として研究していた時には、だいたいそのような意見だった。ところが十九世紀末から二十世紀にいたるロシア・ソヴィエト文学の世界を知り、さらに東欧諸国の文学にまで視野をひろげてくると、そのような考え方にかなりの修正がほどこされねぱならないということに気づいた。
 東欧諸国は大戦後社会主義国にはいったので、ソ連と同一視される傾向があるが、これらの国はロシア文学とちがって、言語に関する特殊な美的感覚の洗練の伝統をもち、幻想的な文学も数多く生み出している。このような東欧文学の流れは、ソヴィエト時代でもポーランド系・南方系の作家アレクサンドル・グリーンオレーシャ・パウストーフスキーなどのロマン的傾向の作家によく現れている。
 またロシア本国においてもロシア革命に先立つ時代の文学の主流は、伝統的なリアリズムではなくて、象徴主義以下のモダニズムの影響も深刻に受けていた、ということも考えあわせてみなければならない。
 何から何までもリアリズムで説明しようとする今のソヴィエトの公式的見解は、現実を無視した図式にすぎない。だいたい、リアリズムそのものが、一つのコンヴェンション、約束事なので、それが常に対象をリアルに表現できると信ずるのはあまりに素朴な考えである。
 一九〇五年から一九一七年にいたるロシアは、二つの革命のあいだにはさまれ、社会の激変・終末の予感される、ヨーロッパでもっとも「幻想的」な国であった。レーニンブハーリントロツキーの著作にみなぎるユートピア的気分は、社会主義ユートピア思想のもたらした幻想であったが、他方において、レーニンの有名な「社会主義とはソヴィエト権力プラス電化である」というスローガンにみられるように、科学の驚異的発展がこのようなファンタジーに翼を与えたのである。
 このような新しい時代を描くために伝統的なリアリズムがあまり役に立たず、象徴主義以下の新手法がかえってリアルに激変する幻想的な時代を描き得たということがあった。タブリーンのようなリアリストでさえSF的ユートピア小説を書いた。(のちのスターリニズム時代の安定・固定期になるとリアリズムが強固になる)
 ツィオルコフスキーやA・N・トルストイ、エレンブルグ、ザミャーチンなどの作品が現われてくる必然性は容易に説明できる。東欧諸国のファンタスチックな作品、ことにチャペックの作品、が一九二〇年代ごろまでに続々と発表されていることを考えると、今までの幻想文学の歴史、SF文学の歴史があまりに英米、西欧に偏していたのではないかという疑問がわいてくるのである。
 ハックスリイもオーウェルも、もしチャペックやザミャーチンの作品をもとにして読み直してみれぱもっと別な評価が生まれるであろう。オーウェルにしてもハックスリイにしても、いままでの評価が少しほめすぎであったということが分るにちがいない。
 戦後東欧諸国も社会主義国にはいり、これらの国もソ連と同じように、一九〇〇−一九二〇年代の自国の文学的成果を恥じたり、否定したり、あるいは存在を否認したりするようになってから、これらの国のSFや幻想文学の遺産はますます知り難いものとなった。
 言語上の制約から西側の国ではこれらの国の文学を知らず、もっばら西側ソースに依存している日本の人々も知り得ない状態におかれている。日本のソヴィエト文学者はいまだにリアリズムー辺倒だから自力で発掘する気持もない。東欧文学者は数が少なく、とてもSFまでは手が回らない、というのが現状なのだろう。
 ともあれ。本巻のような作品集が出ることは、このようなかたよった事態から脱け出る第一歩である。私もSF文学の初心の読者の一人として楽しんで読ませてもらうつもりである。

何かをして・・・ 金森達

 月ロケットは、あらゆる現代彫刻よりも、新しい。


 ヒューストン宇宙センターとアポロ宇宙船との間に交される無線の会話は現代詩を上まわる。


 音のひずみ、発信者、空電妨害、通信の中絶、これらの交信は、ほとんどの電子音楽をもしのいだ。


 気まぐれに歩くスーパーマーケットの買物客の足どりは、現代舞踏のどんな動作よりも豊かだ。
                                      −−アラン・カブロー


 更につけ加えるならば、ヘドロの海、街角のゴミの山も、ぼくの描く一枚のイラストよりも、うんとおもしろい。


 ほんとうに、そうであるのか。ほんとうはそうでないのか。ほんとうは、どちらでもないのだろうか。いや、ほんとうは、どちらでもよいのかも知れない。


 十数年前、ある旅先で、当時は放浪画家であった、山下清と同宿したことがある。名が知れていた彼は、宿のものに乞われて、スケッチブックに何か描いていた。それは何の変哲もない灰皿とタバコの一本であったが、彼のエンピツは丹念に点をつなぐようにして一本の線を引いていく。それも数十分は費しているのを妙に不思議にながめた。
 いや、今になって思うに、これはまさに不思議でもなんでもなく、人間の物を作っていく最も、原初的でかつ素朴な作業なのではないかと思える。
 われわれは常にたやすく、納得したかのように一本の線を引いている。それはほんとうに一本の線を引いたことになるのだろうか、いや、それは一本の線のように見える虚像だといえないか? 無論、虚像であってよいのかも知れない。そしてある確かさを認めながら、それと同じようにある不確かさが残るのを知っている。
 抽象的であるが、われわれは、時間とか、次元を視覚化することが出来ないのではないかと思いつつ、その可能性をさぐる。彼はその一つ一つのエンピツの動きにそれをさぐっているような気がした。それは勝手なぼくの錯覚なのだろうか。


 以前から思っていたことだが、SF文学(小説)はある。SF映画もある、SF音楽と呼ばれるものはない、SF絵画と云うのもやはりない。屁理くつのようだが、SF的音楽、SF的絵画、と呼ぽれることはあるかも知れない、しかし本来、そんなものがある訳はないのかも知れない。いや、SFと同じ次元で考えることのできる、同じ質ともいえるような絵画、音楽はあり得るとも云える。しかし、それはもっと適切な言葉で呼ばれていてそう呼ばないのか、それともSF絵画と云って差支えないとしても、それが一体どんなものかまた一寸見当がつかない。
 大ゲサに云えぱ、人間の持つ外なる宇宙と内なる宇宙の相剋から生れるイメージを最も幅広く展開することの可能な表現と世界が、そこにあれば、それをどんなかたちで呼んでもよいと思える。
 まあ、それとは別に、ダリ、エルンスト、ミロ、等のシュールレアリズムの画家たちや、また、キリコ、マグリット、等の意識や幻想、そして戦後のアンフォルメル絵画や、現代の環境空間芸術と呼ばれるものまでの思考と発想を、本来、SFが含んでいる筈のものと無縁のものではないと考えることは出来ないだろうか!
 SFという言葉と同義として、ぼくは常にその間口を拡げて勝手に理解する世界の、果てしない何億光年の遠い島宇宙の爆発から、必ず何処かにいると信ずる宇宙人(生物)たち、のことからはじまって、月ロケットのこと、われわれの脳細胞の出来具合のこと、もっと日常的な一日ニ四時間の一つ一つのこと、コップの中のビールの泡の世界のこと、また二日酔いのため、頭ががんがんしてどうしても起き上がれないことまで……etc
 ぽくにとってそれらがみな、科学的な証明や、論拠とは別なところで大変素朴な、フシギさと興味を持てるし、また持ち続けたいと思っている。


 冒頭に引用した一連の言葉が逆説的であっても、またそうでなかろうが、ぼくは人間が、この混沌と分裂から今も未来も逃げられないのではないかと思いたい。


 人間はどこから来て、どこへ行くのか……
 このことを考え、また考えさせられるもの。
 それは、SFをふくめて何であれぼくはそれに魅かれたい。
 おわりにそんなカタイこと考えたら到底SFなんか判らないと云われるかも知れないし、またそれは何のことはなく妄想だと片付けられるかも知れないが、それもまた、ぼくにとってたいへん楽しいことでもある。

攫われる刻 須永朝彦

 月光仮面スーパーマン海底少年マリン忍者部隊月光魔神バンダーウルトラマンエイトマン仮面の忍者赤影バットマン黄金バット宇宙忍者ゴームズレインボー戦隊ロビンタイム・トンネル謎の円盤UFO二十面相ジョニー宇宙猿人ゴリ仮面ライダー……などと書きたてると失笑を買いそうだが、私の嗜好はいまだ幼児の域にとどまっているらしく、暇さえあれぱ少年たちと同じようにテレビジョンにかじりついている。あまりの精通ぶりに知人の多くは、感心するというより呆れかえっているようだ。その上、ときどき”バットマン、ララララララララ、バットマン……”とか”わたしーは科学者、宇宙猿人ゴーりな、のーだ!”などと、件の番組の主題歌を口遊むので、いよいよ救いがたいと思われているらしい。
 もとより覚悟の上だが、逆にこれこそは余人に伝えがたい悦楽だと居直っている。実際、胸のときめく瞬間が得られるのだから、人に何と言われようといっこうに気にもならない。ただ、のべつ幕なし白痴のようにどれにでも胸をときめかせているわけではなく、それなりに抜きがたい好みはある。
 ことごとく連続物で一種の英雄譚だから、結末が勧善懲悪に終るのはやむを得ないこと、批評眼はもっぱら主人公の容姿やコスチューム、戦慄を誘う場面の多少、動画ならぱその技術といったところにそそがれる。バットマン仮面ライダー、それに記憶のなかの月光仮面などは、わりと私の嗜好を満足させてくれる。
 私は倫理とか思索の方面にはまったく駄目な人種だが、しぱらく前に突然、私の愛する幼少年向けテレビ番組の主人公たちの素姓に気がついた。彼らは金髪で緑色のタイツを穿き、諸諸の事情に因って放浪の旅を重ねつつさまざまな試練に耐える西洋の旧い童話の王子にほかならないのだと。道具だてはモダンなメカニズムに代っても、裸形は貴種流離譚なのだ。月光仮面が祝十郎でバットマンブルース・ウェイン仮面ライダーは本郷武などと小手先の辻褄は合わせているが、彼らには、作者の意図を離れて、等しく身上来歴にゆえ知れぬ胡散臭さが漂っている。それは、われわれの眼に見えないこの世ならぬものの力に操られているような感じさえ与える。彼らが発散する胡散臭さを、私は至極勝手にエロスの範疇に入れて考えている。
 SFなる呼称の限定を、私はつきつめて考えたことがない。聞きかじるところによるとこの頃SFとは Science Fictionではなくて Speculative Fiction でなければならぬ−−という理論があるらしい。正直に話すと、私にはどうでもいいことに属する。久しい以前から、私は漠然と、SFとは未知の部分のエロスをさぐる分野であろうと推察している。もう少しはっきりさせれぱ、他界の消息である。現身のすぎゆきには、多分訪れぬであろう時間と体験、それゆえにつねに憧憬をそそる空間についての文学的叙述をSFだと考えている。そのかぎりでは、空想科学小説であっても何ら差支えないのである。
 私がテレビ版少年向け現代貴種流離譚を愛好するのは、SFのエロスと基盤が共通するからである。現実離れしたコスチュームに身をかため、人間性の本質を無視して動き回る彼らは、ときとしてリアルな人間のエロスを凌ぐ。その意味で、たとえばパロウズのスベース・オペラの主人公などはエロティックである。ただ瞬間的に消失するテレビの画面と文学としてのSFとを混同するわけにはゆかない。


 赤い太陽が砂から昇って、砂の中へ赤く沈む。風が砂の小山を造っては、さたそれを平らかにしてすぎ去
る。来る日来る日の風は世界の果から運んできた多くのことをささやくが、それは人間には判らぬ言葉であ
る。そこには死んだような寂莫が君臨してゐる。バブルクンドの街はこんな所にあった。
                                        『黄漠奇聞』冒頭


 私が生れた頃に刊行された稲垣足穂ユリイカ版『ヰタ・マキニカリス』は、既に全頁のそこここに黄灰色のしみを浮かせているが、頁を開いたとき立罩める香気はいささかも薄れることなく、殊に巻頭の『黄漠奇聞』に漂う他界の匂いは比類がない。集中には『星澄む郷』『赤い鶏』その他秀作は少なくないが、読みながら未知の天辺へ連れ去られるような気分に襲われるのは、『黄漠奇聞』を以て第一とする。もちろん、ブラッドベリ以下クラーク、シェクリイハインライン、バラード、また短篇作家としてのF・ブラウン等々を傑れたSF作家と呼ぷことに吝かではないが、彼らの諸作を措いて、なお足穂の『黄漠奇聞』その他は、私の念うSFなのである。
 足穂という作家は、おそろしく強靭な宇宙観の持ち主だろうと思うが、外に同列のものがないわけではない。彼自ら何度となく誌しているある種の謡曲と中世稚児物語がそれである。『花月』や『天鼓』あるいは『秋の夜の長物語』『松穂浦物語』『鳥部山物語』などが湛えているゆくえも知れぬ相聞の伝統を負って『黄漠奇聞』は聳立していると言えよう。見も知らね処へ<夜陰に乗じて攫われてゆく>ような感覚を、私はエロスとしか呼ぴようがなく、そのような寸刻を与えてくれる作品を、文学としてのSFだと信じている。
 足穂のエロスは、アヌスを原点として宇宙の彼方へあてどもなく放射されるがそれを彼は天体嗜好症と名づけている。
 私事を詰せぱ、私の場合その感覚は、天使吸血鬼などの魑魅魍魎の眷属かバットマン以下の転落の王子たちに傾斜するのである。おそらく誰にでもそんな時空一如の不可解な感覚があり、それを天体嗜好症と名づけようと、四次元的世界の透視と呼ぼうと自由である。

編者紹介

飯田規和(いいだ・きわ)
昭和三年山梨県に生まれる。
昭和三十年東京外語大学ロシア語科卒。
ソヴィエト文学研究家。
出訳書
 スタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに』(早川書房刊)
 R・E・コブリンスキ『電子頭脳の時代』(理論社刊)
 ユリアンセミューノフ『ペトロフカ、38』(早川書房刊)