SFが私に与える吐瀉作用 日下武史

 私はSFを読んでカタルシスを感じます。ちょっと以前にSFに感じていたエンターテインメントの要素より、より深いものです。どうも最近人間が嫌いになってきました。そのせいもあるのでしょうか、人間というものは、実は栄えるべき道を歩んでいるのではなく、破滅すべき道を歩んでいる−−つまり、宇宙は何の関係もなく生々流転を繰り返しその中の地球という星にほんの一瞬虫けらのようにフイと現われて消えてしまう、ごみのような存在なのではないだろうか、特にこんな考えにとりつかれています。何を今更といった感既には違いありません。このことを、人間のはかなさ、輝きという視点て把えてジャン・ジロドゥという劇詩人は何篇かの劇作をものして、私自身もそれを上演することによって、この考え方に薫陶を受け、学んできました。田舎町に視察に来た視学官に、ヒロイン、この町の助教師のイザベルは答えます。
 視学官様、自然界に様々な災害が起るのは残念なことですが、それはとるに足りないことです。宇宙全体の調和にとってはそれが必要なのだとこの子たちに教えています。それで自然界に災害を惹き起す力や精霊を舞台監督と名づけているのです。
 ジロドゥの「間奏曲」の部分ですが、ジロドゥの人間観は人間を宇宙のカビとして把えています。だがそのカピは至上のカビであり、人間は宇宙の中で一瞬のはかなさのうちに無限に輝く存在であるとしています。
 しかしどうも近頃の私自身は悲観的なのです。
 キリストを宇宙人とみたてたSF作品がありましたが、キリストは人間を、人間によって亡びるものだと確信していたのではないでしょうか。いやそれより以前に、人間が智慧の実を食った途端に人間は破戚への道を歩み姶めたと云えます。ジロドゥの云うような、人間は自然の一部であるという点から人間をみることか出来ない現実があり過ぎるように思えるのです。
 人間が目分の智慧に過信しない時代もありました。いやその時代は人間か自分の智慧を過信出来る程の智慧がなかった時代だったのかも知れません。人間は過信することが当然だとみる思想もあります。宗教はこれに対する戒律ではあります。科学に対する恐怖は、殆ど有能なる総ゆる科学者が口にしています。しかし科学の進歩は、人類平均理解度に比ぺれぽ、あまりにも遠い処に行ってしまっています。こうして不安だ不安だと考えていると自縄自縛に陥って閉鎖的になるのは凡人の思考の常にいきつくところですが、かといってこの状態で、やがては自然が人間を陶汰する自明の現実があるのに、亡ぴるのは決っているのだからと「一瞬のはかなさ」とか「輝き」とかいって明るい気持で日々の行勤をする気にはどうしてもなれません。やはり払自身は人類は亡びるものであるという論理の中に落らついていられない人間なのかも知れません。ぞれじゃ亡びないと考えればいいはずなんですが。
 公害問題のキャンペーンが多くなって来ました。”人間は自然を対立物と考えている、それは間違いだ。人間は自然の一部である”生態学の先生方の発想です。次のもそうです。″益虫、害虫のように自然のものを良い悪いに分けた発想が対立の発想で、こういった考え方はするべきではない”不思議なことですが、これを読むと気持ちが落ちついてくるのです。アシモフの「空想天文学入門」にあったのでしょうか、石炭、石油を堀りつくして地球という星の環境が変わってしまうのは時間の問題だという主旨です。誰かが訴えてくれている嬉しさかあるのです。自分のグシャグシャな、まとまらない考えを一流の思考の中から語られると、胸のつかえか下りたような気がするのです。これはカタルシスです。昔文学作品を読んでカタルシスがあった状況とはまるで違いますが、感動という言葉で云い現わせば云えないこともありません。こういう形の浄化作用もあるわけです。私は芝居屋ですが、劇場は精神の吐瀉作用を行なうお祭りの場所です。するとSFは私の中では物質の吐瀉作用となっているのでしょうか。私はSFを読んでさまざまな夢を受けとっています。荒唐無稽とはわかっていても夢は楽しいものです。その夢の中から人類の未来についての痛烈な警告を読みとって、私はカタルシスをしばしば覚えるのです。
 SFよ、いつまでも夢を与えて下さい。そしてやっぱり警告を発し続けることで人間を嫌いになる熊度を捨てるべきなのでしょう。