生体移植とSF 福島正実

 一九六七年暮、南アフリカ共和国ケープタウンで、世界最初の心臓移植手術の成功が伝えられたとき、SF読者は、ちょうど、世界最初の人間宇宙船がうちあげられたときとおなじ一種の興奮を惑じたはずだ。そして、あるいは希望をこめて、あるいはそのことの持つ問題性をいちはやく見抜きながら、書かれた数々の作品を思い浮かべたにちがいない。
 最初の心臓移植患者バスカンスキーは、退院を許された日「わたしはフランケンシュタインの再来だ」と冗談をとばしたが、確かにフランケンシュタインの怪物は、動物や人間の屍体や内臓をつなぎあわせてこしらえた人間だったから、その意味では、従来いわれているようなロボットの祖であるよりも、生体手術もの、サイボーグもののはしりだといっていいだろう。
 つぎに頭に浮かんでくるのは、やはり、H・G・ウエルズの『モロー博士の島』だろうか。この作品で使われるのは、主に哺乳類の動物たち−−ウシ、ウマ、イヌ、プタ、ハイエナ、オオカミ、キツネその他の生体で、これに外科的手術をほどこして直立歩行と手の操作ができるようにし、ロ蓋や舌、声帯に手を加えてものがいえるようにしたほか、もちろん脳外科手術を行なって知能をたかめ、セント・バーナード犬人とかハイエナ人、ブタ人などを作ろうとする話だった。もちろんウエルズは、この作品によって、科学技術の発達が動物を人間化することができるという一種の未来小説を書こうしたのではなく、人間化された動物が獣性を克服でぎるか、という問題、さらには、科学の技術がどこまで神の領分に干渉することかできるか、といった、いわぱ宗教的、哲学的問題にたいする関心を小説化しようと試みたのだ。
 そして、この後者の問題は、神の問題を、生命の問題、知性の問題と書きかえることによって、今日的な意味あいを持っているといえるだろう−−もっとも、ウエルズ自身は……あるいはごの作品自体は……この問いに十分に答えることはできなかったが。
 つぎに、思いだされるべき作品は、本書『ドウエル教授の首』だろう。この作品は、事故による死者の首そのものを人工培養しようというアイデアによっで書かれているから、従来のこの種の作品よりも、SFとしてもずっと近代的な意味を持っている。首だけになったドウエル敦授が、依然として五体満足であるときの同じドウエル教授であることを、ベリャーエフは何のためらいもなく肯定し、人格をつくるものが、心臓でもなければ身体でもなく、頭−−脳であることを、小説のかたちで、はじめて明瞭にしたのだった。
 この小説の場合、脳移植がきわめてかんたんに実現していること、それにまつわる医学的困難が都合よく回避されすぎていることなどを指摘しても始まらないだろう。それはちょうど、ジュ−ル・ヴェルヌの『地球から月へ』に登場する砲弾型宇宙船が、現実のロケット工学に照らしてみて、現実不可能のナンセンスなしろものだ、ということを、ことあたらしくいいたてるのと似ている。それよりはむしろ、彼がこの作品を書いて約30年後、ソ連で犬の首のすげかえ手術が一度ならず成功し、こうした、一目荒唐無稽としか見えない技術も、時さえ与えれば実現するという、科学技術の恐るべき自律性について考えてみることのほうが有意義だろう。
 現代的なSF作品のなかでは、なんといっても、カート・シオドマクの『ドノヴァンの脳髄』が、この種のものの代表作だろう。
 この場合は、医学的にも、かなり信憑性を持った書き込みがなされているし、とくに、脳波というものの、SF的な扱いが、この作品ではじめて独創的なかたらで実現されている点が目立ち、SFスリラーとしても、力量感あふれた成功作だった。


 シオドマクは、このアイデアに、かなりの愛着を持っていたらしい。というのは、彼は一九六八年再びこれときわめてよく似たアイデアを使って『ハウザーの記憶』という作品を書きあげているからだ。
 このニつの作品は、そのあいだに経過した二十五年の年月の経過を、如実にものがたっている。二十五年まえ、シオドマクは当時の最新の大脳生理学の知識を先取りして、脳の人工培養というアイデアを、きわめて現実的に、展開した。その彼が、今日あらたに解明されつつある生化学・分子生物学の知識を用いて、記憶と人間のエゴの問題にいどみ、あたらしいかたちでこのアイデアを開発しようとこころみたのだ。


 けっきょく、このアイデアの最終目的は、エゴとは何か、という問題を解明することにある。そしてぞれはいま、現実にも、科学・技術というアプローチの方法をもちいて、解明されようとしている。このテーマが、現代SFの一つの大きなジャンルであるのは、もちろん、このためであろう。