次元テーマ私考 福島正実

 七、八年まえ、SFマガジンを始めてまだあまりたたない頃に、どんなテーマのSFが好きか、という読者アンケートをやったことがある。
 宇宙テーマ、タイムトラベル、未来小説などのなかで、次元テーマSFが非常に高い得票率をしめし、たしか順位は三位だった。それで、日本のSF読者が、次元テーマSFを、非常に好んでいることがわかったのだが、それを取材に来たある新聞の記者が、SFは科学的なフィクションのはずなのに、なぜこんな、ファンタジイとしか思えないようなものが面白がられるのか、やはり目本のSFファンが幼なくて、まだ怪奇小説幻想小説読者と未分の状態にあるのかと聞かれたことなど、思いだす。
 もらろん、今では、こんな−−いわぱプリミチブな質問は、かなり減った。SFを、科学的な物語だとしか考えないような習慣が、なくなったせいである。
 しかし、この記者の質問は、初歩的であっただけに、次元ものSFの一面もよく捉えている。
 というのは、SF読者は一般的に次元テーマのSFが好きで、いまアンケートをとってみても、おそらく順位は三位以下には落ちないだろうが、それは決して、いまだに日本のSFファンか幼いためではなく、そこに十分うなずける理由があるからである。
 次元テーマが好かれるのは、まずその現実との親近性にある。この種の小説は、ほとんどといっていいくらい、その小説の書かれる現時点を、小脱の時間として用い、したがって、風俗習慣、地域性なども、すべてその時代の現実のものとなる。たとえばその小説が、一九六九年に書かれれぱ、そこに登場する人物も、事件のパックグラウンドをなす社会も、一九六九年のものが使われる。そこで読者はきわめて容易に、その虚構の世界に入っていくことかできるのだ。
 第二に次元テーマでおこる事件は、社会問題とか政治問題、国際問題のようなスケールの大きなものであるよりも、読者にとって身近な問題、日常の現実につながりのある問題である場合が多い。だから読者は、日常性からの飛躍なしに、安心して虚構の世界に馴染んでいくことができる。
 そして第三には、事件のもつ異常性が、読者の−−というよりは人間一般の、つねに、心ひそかに希求し期待しているものである点だ。人は現実の生活には変化を嫌う性向をもつくせに、深層心理的なレベルで、昨日と今日、今日と明日、いつも同じ、いつも月並みな、いつも変りばえのしない事象のくりかえしであることに飽きている。何か変った、何か異常な、何か足もとをさらわれるような事件が起きないものかと待ち望んでいる。
 そして実は、これが、怪奇小説やファンタジイを好んで読む読者たちの心理にもつながる。その意味では、次元テーマのSFは、それらの怪奇小説やファンタジイと、あるいはミステリとも、おなじ求められかたをしているのだ。
 これは次元テーマのSFにとって、ちっとも迷惑なことではない。非現実と現実とをつなぐ心理的基盤が、すでに読者の側にあることは、小説にとってきわめて有利だ。しかも、それは、昨日や今日のことではなく、おそらくは、人間が文化的な生活をしはじめたごく最初のころから、あった心理傾向なのである。もし人間の脳に、種族的記憶というものがあるとすれば、もっとも強いインパクトを持つ記憶塊として、存在しているはずのものなのである。
 次元テーマSFの好かれかたは、およそこうした一つの共通項を持っているはずだ。ただし、この三つの項だけを満足させる作品でよしとしていたのでは、このテーマは十分に使われているとはいえないだろう。このテーマは、実は、もっとはるかに実り多いもののはずだからである。
 非現実と現実とのつながりを武器にして、つまり、その強い説得力、感情移入をフルに用いて、次元テーマは、現代を材料に、さまざまな思考実験をこころみることができる。普通の−−常識的なルールやオーダーを守っていては決してできない実験的なこころみができるのだ。
 しかもそれは、一般の小説の扱うテーマのほとんどを覆うことができる。事実この世にある愛について、憎しみについて、その他の人間関係について、現実にはあり得ないツイストをあたえ、価値の転換をおこなって、愛そのもの、憎しみそのもの、人間そのものの意味を問うこともできる。
 ぼくが、次元テーマを好んでえらぷ理由もそこにある。
 いま、ここで、何気ない日常の現実のなかで、非現実の何かが起ることによって、日常の牢固たる基盤はあとかたもなく姿を消し、そこに、生々しい問題そのものが、姿をあらわす。その姿を、現実のものと対置することによって実は唯一無二と思われていた現実が、幾様にもかたちを変えて見られることを発見する。そして、その発見は、場合によっては、ぽくの人生で、ぼくがどうしても、いつかは到達しなけれぱならなかったものかもしれないのだ……。
 もちろん、次元テーマは、最初にも書いたように、いわば、もっとも通俗的な興味から、そうした思想性への指向までを、多様に、複合的に含む小説形式である。それだけに、失敗したら目もあてられない通俗小説に堕することも多いし、どうしようもない出来損いになることもある。
 時折り、自ら省みて、ぼくのうしろに、そうした惨状が幾つもつながっているような気がしないこともないのだが……それだけにいっそう、このテーマのもつスリルがこたえられない、ということもあるわけである。