ハインライン・コレクション 伊藤典夫

 アメリカ合衆国カリフォルニア州。その州第二の都市サンフランシスコから、海岸線に沿って州道一号線を南へ百キロほど下ると、人口三万足らずの観光地サンタ・クルーズがある。『夏への扉』の作者ロバート・A・ハインラインに会いたいなら、この町へ行けばいい。6000 Bonny Doon Road, Santa Cruz, Californla 95060−−これが、彼の住所だ。もっとも聞くところによると、かなり気むずかしいおじいさんだそうで、ちゃんとした筋からの紹介がないかぎり、そう簡単には会ってくれないだろうが。(一九六八年、あちらのファンに招かれて渡米した柴野拓美氏は、「ミスターSF」フォリー・アッカーマンを通じて会見の約束までとりつけなから、フォリーが約束の時間をまちがえたためにツムジを曲げられ、とうとう会うことかできなかった)
 その町にあるカリフォルニア大学サンタ・クルーズ分校図書館に、ハインラインが、原稿やメモを含む自分の著作の大半を寄贈したというニュースを読んだのは、三年ほど前のことだ。それ以上くわしいことはそのときわからなかったのだけれど、アメリカのファンジン<SFレビュー>の七〇年二月号に、同図書館を訪れたあるファンのレポートが掲載され、ハインライン・コレクションの概要が明らかになった。
 図書館におさめられているのは、ハインラインの全著作一五六篇のうちの九五篇。内容は、”処女作″「生命線」までさかのぼる小説、エッセイ、映画脚本の生原稿と、海外版を含めた単行本のすべて、およびそれらに関係する書類、書簡、批評の切りぬき、創作メモ、等々。そして年二回ずつ、新しい資料がこれに加えられ、やがては現在コレクションから抜けている原稿も、未公開の書簡や創作メモなどとともに、同図書館に寄贈される予定だという。
 ふつう大学図書館に、外来者ははいれないものだが、ここでは誰もが自由に閲覧できる。ただし文献の破損や盗用を防ぐ意味から、原稿の複写や、鉛筆以外の筆記用具の持ちこみは厳禁されている。
 作品には、それぞれ作者自身による″作品番号″と注釈がついていて、整理カードを見れば、それがいつごろ書かれ、いつ発表されたか、ひと目でわかる仕組みになっている。意外なのは、未発表作品や、秘密のペンネームで書かれた作品が四〇篇ほどあることだ。これらは今のところコレクションにおさめられていず、整理カードにも”作品番号″以外なにも書かれていない。
 たとえば、短篇「地球の緑の丘」は、整理カードによると、″作品四八″だが、ぽくらが知るかぎり、それは「生命線」から数えて三一番目に発表されている。そして処女作だとばかり思われていた「生命線」が、なんと”作品二”! どうやらその荊に、未発表の習作が一つあるらしい。興味ぶかい事実は、ほかにもいろいろある。『太陽系帝国の危機』(1956)が”作品一二二”であるのに、一九六一年に発表された大作『異星の客』は”作品一二一”。ハインラインの注釈によると、理由はこうだ。
 彼が『異星の客』のアイデアを最初に思いついたのは一九四八年で、ストーリイの骨格は、そのころ創作ノートのなかでいちおう完成を見ていた。だが、商品価値があるかどうかの点で疑問があり、執筆は見送られた。そして一九五五年、じっさいに書きはじめ、発端の部分、タイプ用紙で一五二ページまで進んだが、そこでふたたび投げだされた−−だから”作品一二一”となる。『異星の客』がとうとう完成したのは六〇年。八〇二ページの大作だったが、出版にあたって六ー二ページに縮めた。これが、今日ぼくらの目にふれる『異星の客』だ。
 論議をかもしたセックス・シーンは、原稿のほうではもっと露骨だそうだか、それでも現在の標準からすると、大したことはないらしい。
 またコレクションのなかには、二つ奇妙な短篇がまじっている。“Poor Daddy"(作品五九)と“Cliff and the
Calories”(作品八二)で、シニア・ブロムというティーン雑誌に発表された少女小説だ。ハインラインの注釈によると、この種の作品はほかにも数篇あるらしく、そのうち女性のペンネームで一冊にまとめる考えもあるという。
 ハインラインは、SFの分野でも、「地球の脅威」や長篇 "Podkayne of Mars" などの少女小説を書いている。これで味をしめていたぼくは、ベンネームで書かれた彼の少女小説を発見してやろうと、セヴンティーン誌の傑作集などをしばらく読んでみたが、もちろん皆目わからなかった。
 コレクションのなかで、『人形つかい』に関係する書類は、いっさい見ることができない。理由はハインラインの注釈から想像するしかないのだけれど、それもはなはだ曖昧だ。作品の映画化にさいして、シナリオ作家がストーリイにひどい改ザンを加えたらしく、一時は訴訟問題にまで発展したが、けっきょく示談でおりあいがついた。書類は、特別の許可がないかぎり、ハインラインとその家族、およぴ事件の関係者すべてが生きているあいだは、一般に公開されない。作者にとっても、思いだしたくないできごとなのだろう。レポートが書かれた時点で、いちばん新しいのは”作品一五六”、<未来歴史>シリーズを一冊にまとめた "The Past Through Tommorow" だ。ニ一篇が収録されているが、この決定版では、「光あれ」「大宇宙」「良識」が抜け、新たに「地球の脅威」と "Searchlight" が加えられている。
 これ以後、短篇小説やエッセイが発表された形跡はないので、五年ぶりの新作長篇 "I Will Fear NO Evil" が、”作品一五七”ということになりそうだ。
 テーマは脳移植。『自由未来』の主人公ファーナムを思わせる金持ちの老人が、自分の秘書であった美女に脳移植されてよみがえり、しだいに女として目ざめていく過程をえがいている。ハードカバーで七〇〇ページもあり、おそろしくワイセツで、しかも「聖ハインラインのご説教」が長すぎるので、不見転で雑誌掲載権を買い取ったギャラクシー誌編集部がオタオタしているという噂だったが、じっさいに届いた本は四〇〇ページあまり、『異星の客』と同じくらいだった。削除されたのだろうか?
 これもきっと、「きわめて通俗的で、権力志向的な独善のクサミが強すぎる」(石川喬司)、読みだしたらやめられない傑作だろうと、ぽくは期待している。