アメリカのSF ソ連のSF 伊藤典夫

 ソヴィエトSFの新しい世代が、若い作家たちの抬頭ではじまるのは、一九五六年から七年にかけてである。世界の最先端を行く英米SFの紹介は、六〇年代にはいってから始まり、まずレイ・ブラッドベリが、『資本主義的現実を否定し、マッカーシズムに抵抗する作家』として人気を得た。だが、それが堰を切る役目を果し、以後相当数の作品が出されているようだ。といっても二つの対立する陣営に属するSF関係者たちの意見が、率直に交換された例はほとんど知られていない。が、一九六五年のはじめごろだろう、ソ連共産党中央委員会の機関誌コミュニストにのったアメリカSF批判が、翻訳されてアメリカのファンタジイ・アンド・サイエンス・フイクション誌六五年十月号に掲載されることになり、批判の対象になった四人の作家−−アイザック・アシモフマック・レナルズポール・アンダースンレイ・ブラッドベリが−−同じ号に釈明文を寄せた。
 評論の筆者は、ソ連の中堅SF批評家コンビとして知られる、E・ブランディスとV・ドミトリエフスキー。両国のSF関係者たちの考えかたの差を知る珍しい資料として、このやりとりをかいつまんで紹介してみよう。はじめに評論から−−「アメリカSFに描かれた未来社会の最も著しい特徴は、その社会が前向きの発展に基づいたものではなく、すべて退化と衰退と腐敗と人類の破滅からなっている点だ。そして批評家や作家は、社会学的SFをアンチ・ユートピア小説の同義語としている。ポール・アンダースンの中篇『進歩』では、核戦争に生き残った人々が、過去から受け継いだ帆船や風車だけで繁栄と幸福を築きあげられると確信するが、作者もまったく同感らしい。多くの哲学者や社会学者にならってアメリカ作家が描くのは、未知の宇宙に対する人間の卑小さと、社会の進歩が幻想にすぎないという認識だ。
 現在の国家関係や、現代資本主義の内包する社会問題を未来に投影するのも、アメリカ作家がよく便う手である。旧態依然とした主従関係や植民地主義などをそのまま空想の惑星上に持っていき、帝国主義的な矛盾を展開させる。わが国で翻訳される作品を読むかぎり、アメリカSFの大部分は、非政治的であり、まったく無害な印象を与える。しかし現在、わが国で最も人気のあるレイ・プラッドベリにしても、もちろん彼のヒューマニステイックな傾向を否定するわけではないが、現代資本主義社会の暗黒面を痛烈に諷刺しながら、実は真の悪は、ブルジョワ社会の内部構造ではなく、科学技術の急速な発達にあるのであって、個人をおし潰そうとしているのはそれだと信じているのだ」
 評論は、アイザック・アシモフが、英訳されたソヴィエトSFアンソロジイの序文で投げかけた疑問−−アンソロジイ全体に流れる楽天主義は、アメリカに対するプロパガンダとして作為的に選ばれた作品ぱかりだからではないのか?−−を、いいがかりだと否定し、邪推するのはアメリカ作家の心が盲いているせいだと結論して終る。
 これに対する四人の作家の解答のうち、アシモフのは、アメリカに住むロシア人の気がねだろうか、政治的な問題には触れず、些細な誤解の訂正だけ。マック・レナルズは、この評論の指摘が、アメリカSF全体を見わたした場合、ある程度当っていることを認めたのち、自分の作品が必ずしもそれにあてはまらず、逆にソ運を好意的に見た作品まであることを説明し、もっとアメリカSFをたくさん読んでから発言してほしかったとしめくくっている。さて、アンダースンだが……
共産主義が標榜する思想−−人間と、人間の運命は改善できるものであり、個人はすべてその改善に力を貸すべきであるという思想−−は、たしかに気高い」と彼はいう。
「だが問題なのは、共産主義が、より正確にはマルクスレーニン主義が、その思想を理論でも仮悦でも敬虔な願いでもなく、ドグマにしてしまっている点だ。さらにそれは、改善の正しい方法は一つしかなく、それはすでに発見されているとして、また一つのドグマを背負いこんでいる。哲学におけるそういったドグマの効果は、楽観主義を強制してしまうことだ。そうなれば当然、自由とそのドグマとのあいだに永遠に妥協しない抗争か起る。現にわれわれは自由ではないかというかもしれないが、本当に自由ならば、共産主義を堂々と否定しても許されるはずだ。もちろん、アメリカ人にそれに相当する自由があるとはいわない。過去においてもそうであったし、将来においてもそんな自由はないだろう。私がいいたいのは、二つの社会のありかた、その目標と価値観に違いがあることだ。共産主義社会では、人間を愚昧な猿類であると仮定することは許されないが、西欧社会ではそう仮定して楽しむことができるのだ。共産主義のドグマにとらわれない西欧のSFは、考えられるあらゆる状況を扱う。したがって楽観的な見かたのほか、悲観的な見かたがあることもやむをえない。ただ一言つけ加えれば、私の書いた『進歩』は、核戦争を不可避なものだといっているのではなく、人間はどんな目にあっても生き残ることができ、幸福を見出すことができるといっているのだ。じっさいには『進歩』は、楽観的な小説なのだ」
 ブラッドベリの解答は、レナルズやアンダースンのに比べれば短い。しかし全訳するスベースはとてもないので、ここではただ結論を引用するだけにとどめよう。
ブランディス、ドミトリエフスキー両氏の討論に対する私の反応は、悲しみだった。SFの目的は、私たちを過去の愚かさや、現在の愚かさや、未来の愚かさを、エンターテインさせながら私たちに教えることだと、それまで考えてきたからだ。私の願いは、一つ。私たちがお互いの作品をできるだけ偏見なく読み、それらが、ある一つの見かたを人びとに提示したいと心から願っている人間によって書かれた意義ある小説だと認識できるようになることだ。私たちはみんな馬鹿なのかもしれない。しかし将来も、馬鹿のままでいる必要はないだろう」