第三の顔 稲葉明雄

 今年最大の茶番は、なんといっても、アポロ11号の月面着陸探検行だろう−−というより、テレビ局によばれた解説者のかたがたの反応ぶりである。
 私も人なみにテレビの前にすわり、逐一、進行状況を眺めたくちだ。打上げ(これも打上げなのか打下しなのか、考えてみるとわからないが)から月面到着、地球着水とつづく経過は、計算どおり成功して、なにも面白くはなかった(失敗したとしても、やはり何も面白くなかったろう)、よく新聞に出でいる写真とおなじじゃないか、と言って、家人に嗤われた。
 太陽系だけの天体図にかぎってみても、月へ行くなぞは、たかだか自分の家の犬小屋をのぞいて見る程度で、隣近所の家との交際とまでもゆかない。こういう考え方は、なにも私がふだんSF的世界に馴染みすきているからでもないし、私がなんでも横目でみる天邪鬼だからでもないと思う。
 ポイントはただ一つだ。
 月旅行のニュースと呼応して、アメリカ国内の黒人が、そんなものに厖大な国費を投ずるくらいなら、なぜ、まずわれわれ貧民救済にふりかえないのか、と騒いでいる模様が報道された。
 これにたいして、わが国の新聞やテレビ解説者たちの意見は、私の知ったかぎり、だいたいニ種類にわかれていた。一つは、月面着陸は二十世紀における人類の一大壮挙であり、たしかに貧民救済問題にも眼をつむることはできないが、進歩のかげには犠牲はつきものである。人類の科学、文化は昔からこのようにして前進をつづけてきたのだ−−ひらたく言えば、”尻の穴の狭いことをいうな”という考え方であった。
 もう一つは、前者とまったく正反対なのではなく、その差異は微妙なものだった。すなわち、この二つの問題は人間社会がつねに直面しなけれぱならぬ必然的な矛盾であり、われわれの手ではどうにも解決のつかぬものだ、という考え方だ。字にかけば同じように受けとられろだろうが、テレビ画面でみると、前者は、犠牲をふまえて人類進歩にくみする人の、毅然とした溌溂たる語り、後者は、矛盾に身をよこたえる人の、悲愴な渋面となって、はっきり区別できた。
 見ていた私は、このどちらでもない、第三の顔がほしい、という気持ちにひきずられてゆく自分を感じた。
 月世界旅行といえども、やはり、一個の無駄にすぎぬのではないか。人間の情熱のあらわれだ。人間の情熱なんて、ぺつに珍重すぺきものではない。最初からあるのだ。したがって、黒人の貧困問題とはなんの関係もない−−どちらも人間にもともと強いられたものである。”遊び”というと、お先走りの前衛主義者から誤解されるかもしれぬが、漱石の『三四郎』にでてくる与次郎の口をかりれば、”偉大なる無駄”である、無為ですらあるのだ。そんな考えが頭のなかをのろのろと漂流した。その意味からすると、人間にぱどうにもならぬ、いわぱ天命のようなものだ。無駄はただ無駄であって、ほかの意味はない。意味をつけようとするのも、これまた人間のさだめかも知れぬが、それがしぱしは前二者のように、短絡的な結論を招くのだろう。
 似たようなことが、三人の宇宙飛行士の安危を案じるという形であらわれた。米国ではベトナム派兵や交通事故でおおくの人命を失っているのに、わずか三人の英雄の身の上をああまで気遣うなんて、矛盾ではないか、ナンセンスな似而非人道主義ではないか、と一応は考えられる。が、これまた同じ短絡的思考なのだ。三つの事柄はぜんぜん無関係に、しかも同時に地球上に存在している事実なのであろう。
 では、こういう考え方は不毛なのか? 人類社会に裨益するものを何も産まないのだろうか?
 いや、これからが本題なのだ。この”偉大なる無駄”こそ、SFの発想そのものに他ならないと、私は考える。
 SFにもいろいろあって、残念ながら、前ニ者の短絡的結末でおわる作がおおいことは否めない。しかし、発想といっても、所詮、時代の意匠にすぎない。”人間の無駄な情熱”から生れた考え方の源流は、古くから連綿とつづいているはすだから、なにも心配することはないのである。まず、世界の古典のなかで、”SF的”と呼ばれているものは、ほとんど例外なく、どんなに緻密に構成された作品でも、のうのうとした無方図さをそなえている。第三の顔がどんな顔であるか、絵に描いてみせることはできないが、この顔をもつかぎり、SFは文学にたいして遠慮することはあるまい。
 これまで私が読んできたなかで、もっとも面白かった作の三つばかりを挙げておこう。


 一、大町桂月訳『西遊記
 ニ、羅貫中平妖伝
 三、スウィフト作 中野好夫訳『ガリヴァー旅行記

西遊記』はご存じのものだが、漢文の読みくだしで、”二人の悟空、闘いながら西天に到る”の挿話がとくに面白かった。古い本で、全体が無駄に徹している。
平妖伝』は、もう筋をよく憶えていないが、なんでも真田十勇士ぱりの妖術使いが数人、敗北必至の戦いにのぞんで、悲愴感をまじえず坦々と技を尽すあたりが、”第三の顔”的である。
ガリヴァー旅行記』は説明の必要もあるまいが、最終章の”馬の国”が白眉である。かてて加えて、作者スウィフトが、このあとの晩年を、狂人にちかい廃疾者のまま終ったということが、おのれを滅ぼすまでの無為な情熱を象徴しているのが、一層、その印象を強めている小説である。