シュールレアリスムと新しいSF 山野浩一

 SF読者の中には「シュールレアリスム」をSFに近いものとする考え方があり、極端には、ある作品を「シュールか、SFか」というようないい方で並列的なジャンルとして分類している場合もある。私自身「シュール派」と呼ばれたことも何度かあり、一度この両者の関係について私の見解を述べたいと思う。
 とはいえここでシュールレアリムスとSFを詳しく研究することで、大がかりな論文をものにするつもりはない。これは、いわばシュールレアリスムとSFに関する私の感想というべきものであろ。
 シュールレアリスムは芸術理論を中心に方法論まで発展させた運動であり、SFは理論体系に束縛されないジャンルである。
 従ってこの両者を並列的に考えることはできないし、両者の関係が近いとか遠いといわれるような距離を考えることはでぎないだろう。いわばシュールレアリスム運動にSFが生まれてもよいし(アポリネールの作品がそうである)SFにシュールレアリスム理論や方法論が反映してもよいはすである。
 私はシュールレアリスム運動は、創作活動に於ける理想主義を確立したものであったと思う。それは従来の伝統主義から解放し、人間的な原点から芸術の理想を追求することであった。そしてシュールリアリスムが理想主義的に展開されたからこそ本当の作品を一つも生むことかできなかったのだと考えている。このいい方は少々冒険的かと思うが、初めにロートレアモンがあリ、終りに(たぶん終りだろう)ジュリアン・グラックがあるだけで、運動の栄えていた時期のブルトン、エリアールらの作品は断片的なものでしかなく、ロートレアモン、グラックも初めと終りだから作品たり得たのであり、シュールレアリスムの理想を本当に実践した作品など存在しないし、存在し得ないぼずである。
 しかし、シュールレアリスムの理論と方法論は様々な芸術に大きく受け継がれた。それは解放的であることで伝統芸術の体系外に登場し、人間的であることで大衆的なものとして展開した。
 即ち、ダリ、エルンストらの作品はポップアートの基礎となり、美術館を出た絵画、例えば横尾忠則のポスターに代表されるような大衆的な画として現代に発展したのである。
 同様に音楽の面でもビートルズに代表されるポップミュージックにはシュールレアリスムの理論と方法が生きており、「レヴォリューション9」のような純粋なミュージックコンクレートまで登場しているほどである。こうしたシュールレアリスムとポップスのつながりは体系的なものではなく、シュールレアリスム運勁とその前後の芸術活動から生まれた理論と方法論の吸収により、夫々のジャンルの中から必然的に生れたものである。
 つまりシュールレアリスムがポップスに発展したのではなく、シュールレアリスム運動に生まれたものが、ポップスに内部的に再開発されたのである。
 さて、文学に於いても、こうした新しい創作が生まれて当然といえる。シュールリアリスム運動は文学運動であり、それが伝統的な文学を少しずつ変えてはいたが、真の意味の解放はなかったし、人間的な原点に戻ったものでもなかった。
 ところがSFの新しい傾向は、文学に於けるポップスといえるもので、方法論としても理論的にもシュールレアリスム的なものがみられるのである。
 つまりバラード、オールディスらの作品は、丁度ビートルズの音楽が、それまでのメロディ主義、リズム主義から脱け出して「サウンド」に解放されたように、ストーリー主義やアイデア主義から脱け出して新しい小説となっており、しかも伝統主義からも解放された人間的な作品でもある。
 ボッブミュージックもSFもアメリカで停滞し、イギリスで新しく生まれ変った点も不思議な共通性だが、それを利用してアメリカでコマーシャル化されつつある点も一致している。(ポップアートの場台は、やはり英国生まれだが、アメリカで発展した)
 もともとポップスもSFも最も自由なジャンルであり、大衆的に育ったという点で、シュールレアリスム理論を発展し易かったわけであるが、同時にシュールレアリスム運動の体系から生まれなかったために、ストイックな前衛となって行きづまることもなかったわけである。
 バラードの言う「浜辺に寝ころんだ健忘症の男と、錆びた自転車の間の本質」とは正しくシュールレアリスム理論である。しかも、それはやはりSFに登場した理論であり、SFの新しい可能性なのである。シュールレアリスムは理想主義を確立して消滅し、SFやポップスに作品としてそれらのジャンルの内部から現れたのである。
 従ってシュールレアリスムとSFの関係は体系として繋らないにもかかわらず、SFの中にシュールレアリスムの理論や方法論があるといえるのだ、もちろんここでいうSFとは、これからのSFであり、伝統主義から脱け出した理想主義的な意味でのSFである。
 こうした新しいSFに関する問題点は、シュールレアリスム運動を体験していない日本の文化にどれだけ定着するかということであろう。絵画の面では熱心な若手芸術家たちの運動によりポップアートは大いに発展したが、音楽の面では日本のポップスは歌謡曲の変型でしかなく、映画の面では海外の映画祭で古くささが笑いものになったほどである。
 日本と同じくシュールレアリスム運動が大きく発展しなかったアメリカでも、ポップスはコマーシャリズム化しており、新しいSFもゼラズニイの作品のようなコマーシャリズムを感じさせるものが多い。コマーシャリズムが悪いわけではないが、そこには大衆と創作側との関係が停滞する危険が常にあるわけで、創作側が大衆に受け入れられるものだけを生み、大衆もそれだけを望むようになれば、シュールレアリスムの理想の完全な崩壊である。日本SFに対する心配は作者と、読者の両側に向けられるものなのである。