ロシア・ソヴィエト文学の幻想性 川端香男里

 ロシア文学はおそらく日本人の読者が明治以来もっとも身近に感じてきた外国文学だろう。それだけにロシア文学に対するある種の思いこみ、思い入れというものも強くて、ロシア文学は泥臭いほどのリアリズムで一貫しており、人がいかに生きるぺきかということに常に思いをこらすいささか重苦しい文学だというのが、かなり固定された観念になっているようだ。だからファンタジーの軽やかな飛翔の上に成り立っている幻想的な文学、ことにSF文学とは何か相容れないような感じを読者はもつのである。
 私自身も十八世紀から十九世記のロシア文学を主として研究していた時には、だいたいそのような意見だった。ところが十九世紀末から二十世紀にいたるロシア・ソヴィエト文学の世界を知り、さらに東欧諸国の文学にまで視野をひろげてくると、そのような考え方にかなりの修正がほどこされねぱならないということに気づいた。
 東欧諸国は大戦後社会主義国にはいったので、ソ連と同一視される傾向があるが、これらの国はロシア文学とちがって、言語に関する特殊な美的感覚の洗練の伝統をもち、幻想的な文学も数多く生み出している。このような東欧文学の流れは、ソヴィエト時代でもポーランド系・南方系の作家アレクサンドル・グリーンオレーシャ・パウストーフスキーなどのロマン的傾向の作家によく現れている。
 またロシア本国においてもロシア革命に先立つ時代の文学の主流は、伝統的なリアリズムではなくて、象徴主義以下のモダニズムの影響も深刻に受けていた、ということも考えあわせてみなければならない。
 何から何までもリアリズムで説明しようとする今のソヴィエトの公式的見解は、現実を無視した図式にすぎない。だいたい、リアリズムそのものが、一つのコンヴェンション、約束事なので、それが常に対象をリアルに表現できると信ずるのはあまりに素朴な考えである。
 一九〇五年から一九一七年にいたるロシアは、二つの革命のあいだにはさまれ、社会の激変・終末の予感される、ヨーロッパでもっとも「幻想的」な国であった。レーニンブハーリントロツキーの著作にみなぎるユートピア的気分は、社会主義ユートピア思想のもたらした幻想であったが、他方において、レーニンの有名な「社会主義とはソヴィエト権力プラス電化である」というスローガンにみられるように、科学の驚異的発展がこのようなファンタジーに翼を与えたのである。
 このような新しい時代を描くために伝統的なリアリズムがあまり役に立たず、象徴主義以下の新手法がかえってリアルに激変する幻想的な時代を描き得たということがあった。タブリーンのようなリアリストでさえSF的ユートピア小説を書いた。(のちのスターリニズム時代の安定・固定期になるとリアリズムが強固になる)
 ツィオルコフスキーやA・N・トルストイ、エレンブルグ、ザミャーチンなどの作品が現われてくる必然性は容易に説明できる。東欧諸国のファンタスチックな作品、ことにチャペックの作品、が一九二〇年代ごろまでに続々と発表されていることを考えると、今までの幻想文学の歴史、SF文学の歴史があまりに英米、西欧に偏していたのではないかという疑問がわいてくるのである。
 ハックスリイもオーウェルも、もしチャペックやザミャーチンの作品をもとにして読み直してみれぱもっと別な評価が生まれるであろう。オーウェルにしてもハックスリイにしても、いままでの評価が少しほめすぎであったということが分るにちがいない。
 戦後東欧諸国も社会主義国にはいり、これらの国もソ連と同じように、一九〇〇−一九二〇年代の自国の文学的成果を恥じたり、否定したり、あるいは存在を否認したりするようになってから、これらの国のSFや幻想文学の遺産はますます知り難いものとなった。
 言語上の制約から西側の国ではこれらの国の文学を知らず、もっばら西側ソースに依存している日本の人々も知り得ない状態におかれている。日本のソヴィエト文学者はいまだにリアリズムー辺倒だから自力で発掘する気持もない。東欧文学者は数が少なく、とてもSFまでは手が回らない、というのが現状なのだろう。
 ともあれ。本巻のような作品集が出ることは、このようなかたよった事態から脱け出る第一歩である。私もSF文学の初心の読者の一人として楽しんで読ませてもらうつもりである。