攫われる刻 須永朝彦

 月光仮面スーパーマン海底少年マリン忍者部隊月光魔神バンダーウルトラマンエイトマン仮面の忍者赤影バットマン黄金バット宇宙忍者ゴームズレインボー戦隊ロビンタイム・トンネル謎の円盤UFO二十面相ジョニー宇宙猿人ゴリ仮面ライダー……などと書きたてると失笑を買いそうだが、私の嗜好はいまだ幼児の域にとどまっているらしく、暇さえあれぱ少年たちと同じようにテレビジョンにかじりついている。あまりの精通ぶりに知人の多くは、感心するというより呆れかえっているようだ。その上、ときどき”バットマン、ララララララララ、バットマン……”とか”わたしーは科学者、宇宙猿人ゴーりな、のーだ!”などと、件の番組の主題歌を口遊むので、いよいよ救いがたいと思われているらしい。
 もとより覚悟の上だが、逆にこれこそは余人に伝えがたい悦楽だと居直っている。実際、胸のときめく瞬間が得られるのだから、人に何と言われようといっこうに気にもならない。ただ、のべつ幕なし白痴のようにどれにでも胸をときめかせているわけではなく、それなりに抜きがたい好みはある。
 ことごとく連続物で一種の英雄譚だから、結末が勧善懲悪に終るのはやむを得ないこと、批評眼はもっぱら主人公の容姿やコスチューム、戦慄を誘う場面の多少、動画ならぱその技術といったところにそそがれる。バットマン仮面ライダー、それに記憶のなかの月光仮面などは、わりと私の嗜好を満足させてくれる。
 私は倫理とか思索の方面にはまったく駄目な人種だが、しぱらく前に突然、私の愛する幼少年向けテレビ番組の主人公たちの素姓に気がついた。彼らは金髪で緑色のタイツを穿き、諸諸の事情に因って放浪の旅を重ねつつさまざまな試練に耐える西洋の旧い童話の王子にほかならないのだと。道具だてはモダンなメカニズムに代っても、裸形は貴種流離譚なのだ。月光仮面が祝十郎でバットマンブルース・ウェイン仮面ライダーは本郷武などと小手先の辻褄は合わせているが、彼らには、作者の意図を離れて、等しく身上来歴にゆえ知れぬ胡散臭さが漂っている。それは、われわれの眼に見えないこの世ならぬものの力に操られているような感じさえ与える。彼らが発散する胡散臭さを、私は至極勝手にエロスの範疇に入れて考えている。
 SFなる呼称の限定を、私はつきつめて考えたことがない。聞きかじるところによるとこの頃SFとは Science Fictionではなくて Speculative Fiction でなければならぬ−−という理論があるらしい。正直に話すと、私にはどうでもいいことに属する。久しい以前から、私は漠然と、SFとは未知の部分のエロスをさぐる分野であろうと推察している。もう少しはっきりさせれぱ、他界の消息である。現身のすぎゆきには、多分訪れぬであろう時間と体験、それゆえにつねに憧憬をそそる空間についての文学的叙述をSFだと考えている。そのかぎりでは、空想科学小説であっても何ら差支えないのである。
 私がテレビ版少年向け現代貴種流離譚を愛好するのは、SFのエロスと基盤が共通するからである。現実離れしたコスチュームに身をかため、人間性の本質を無視して動き回る彼らは、ときとしてリアルな人間のエロスを凌ぐ。その意味で、たとえばパロウズのスベース・オペラの主人公などはエロティックである。ただ瞬間的に消失するテレビの画面と文学としてのSFとを混同するわけにはゆかない。


 赤い太陽が砂から昇って、砂の中へ赤く沈む。風が砂の小山を造っては、さたそれを平らかにしてすぎ去
る。来る日来る日の風は世界の果から運んできた多くのことをささやくが、それは人間には判らぬ言葉であ
る。そこには死んだような寂莫が君臨してゐる。バブルクンドの街はこんな所にあった。
                                        『黄漠奇聞』冒頭


 私が生れた頃に刊行された稲垣足穂ユリイカ版『ヰタ・マキニカリス』は、既に全頁のそこここに黄灰色のしみを浮かせているが、頁を開いたとき立罩める香気はいささかも薄れることなく、殊に巻頭の『黄漠奇聞』に漂う他界の匂いは比類がない。集中には『星澄む郷』『赤い鶏』その他秀作は少なくないが、読みながら未知の天辺へ連れ去られるような気分に襲われるのは、『黄漠奇聞』を以て第一とする。もちろん、ブラッドベリ以下クラーク、シェクリイハインライン、バラード、また短篇作家としてのF・ブラウン等々を傑れたSF作家と呼ぷことに吝かではないが、彼らの諸作を措いて、なお足穂の『黄漠奇聞』その他は、私の念うSFなのである。
 足穂という作家は、おそろしく強靭な宇宙観の持ち主だろうと思うが、外に同列のものがないわけではない。彼自ら何度となく誌しているある種の謡曲と中世稚児物語がそれである。『花月』や『天鼓』あるいは『秋の夜の長物語』『松穂浦物語』『鳥部山物語』などが湛えているゆくえも知れぬ相聞の伝統を負って『黄漠奇聞』は聳立していると言えよう。見も知らね処へ<夜陰に乗じて攫われてゆく>ような感覚を、私はエロスとしか呼ぴようがなく、そのような寸刻を与えてくれる作品を、文学としてのSFだと信じている。
 足穂のエロスは、アヌスを原点として宇宙の彼方へあてどもなく放射されるがそれを彼は天体嗜好症と名づけている。
 私事を詰せぱ、私の場合その感覚は、天使吸血鬼などの魑魅魍魎の眷属かバットマン以下の転落の王子たちに傾斜するのである。おそらく誰にでもそんな時空一如の不可解な感覚があり、それを天体嗜好症と名づけようと、四次元的世界の透視と呼ぼうと自由である。