没落への誘惑 虫明亜呂無

 SFというものを知らずに、SFらしいものに、漠然と興味を抱いたのは、シュペングラーの「西欧の没落」を読んだときである。ぼくは没落の涯の回帰と再生を信じた。
 戦前であった。太平洋戦争が末期的症状をあらわしはじめていた。ぼくは十八歳であった。ぼくは、没落という言葉以前に、西欧を落日の国(アーペントランド)というシュペングラーの意想にひかれていた。そう、没落の荘厳さと反比例して日本は戦争には敗けるだろうが、敗戦の惨めさにもかかわらず、落日の国、たそがれの国、夜の国という名を冠せられることは永久にないだろう、と、思っていた。ぼくは「西欧の没落」にこの世ならぬ、来世の爛熟と栄光を、神聖な未来への展望を発見した。
 日本には、末世はないであろう。頽廃はないであろう。日本は、美しく敗れてゆくだろう、と、すら予感していた。日本は均衡がとれ、彫琢された国であった。戦争が悲惨に映れぱ映るほど、日本は典雅に映る国であった。すくなくとも、少年のぼくは、そんなことを感じながら、日本の敗北をほぼ予定の事実として受けとり、学徒動員で引っぱられて、戦場へ送りこまれていった。
 戦場の苛酷さの中にあって、ぼくは、時折、アーペントランドという言葉を思いだした。
 ぽくが転戦したシナの平原は、涯しなく、ひろがっていた。平原のかなたに落日が沈んでいった。大気は乾燥し、透明であった。落日は正確な輪郭をくずさずに、描かれた軌道にのって、地平線に没していった。それを見ながら、ぽくは、折につけ、没落を見た。没落は、いささか、抽象的で、観念的で、図式的であったが、しかし、ぼくが目撃する落日より、もっと、どろどろに溜って、熱く、崩れやすく、歪み、傾いているだろう、と、感じられた。そして、それゆえに没落のむこうに垂直なもの、毅然としたもの、透明なものを考えさせた。
 SFという概念はなかったが、しかし、未来への想像はまさに、現実をふまえているために、非現実の様相を帯びるごとに、落日に象徴されて、ぼくの心をとらえた。ぼくが、ごく平凡な読書と自然現象から未来を予感してゆけたことは、後にSFにひかれてゆくのを、きわめて、自然なものにした。
 万物は大地のなりいでた日と同じ荘厳を保っている。(ファウスト・天上の序面)
 ぽくがSFに興味を寄せる点は、一言でいうと、この言葉に要約される。万物とは、当然、人間のありよう、人間の感受性、生きかた、人間が生活のなかでくりひろげてゆく無数の日常性(食べ、語り、寝ることまでをふくめて)の荘厳さと、その裏がえしの奇怪な厳粛さの総合である。
 二十何年後、ぼくはミュンヘンの街を訪れた。
 ミュンヘンは、奇妙な街である。中世の僧院を思わす建物が、暗灰色の影をひろげて並んでいる。建物の前方は、かし、ぷな、とちの木の緑にかこまれているのに、石造建築の重量感が植物すらを模様化してしまう。家々は、ひっそりとして、虚無と呪詛の底に沈んでいるようである。
 ぽくは人ひとり姿をみせぬ街の中を歩きながら、この都市には今でも魔女が夜、ほうきに乗って空中を飛行し、市場の裏手では錬金術師がフラスコをかざし、鉱物を火でとかし、妖しい作業をつづけていてもおかしくないだろう、と、思ったりした。ミュンヘンアール・ヌーボーの発生地である。ババリヤ芸術の誕生の地である。あるいは一九三〇年初期、ナチ・ドイツが旗上げした都会である。街の上に、雲をつくようにして、そびえるフラウンエン・キルヘは一五〇〇年代に建てられた教会である。
 東京では、すでに、絶滅しかかっている市電が連結して市内を走っている。電車の走る道の背後は秋の末だというのに、目に痛いほどの緑におおわれた公園である。公園の庭にはさまざまな色の花が咲いている。噴水は、豊かな水量を噴きあげている。そして、低くたれこめた雲からは、小雪が音もなく舞ってきて、噴水の音を公園から街路へと反響させている。ぼくは、そのとき、突然、シュペングラーが、この街の貧民街で「西欧の没落」を書いたことを思いだした。たぶん、雪や、噴水の音や、街の静寂が、なにかの回想を誘ったにちがいない。そう思わなくては、「没落」という言葉が脳裡を掠めなかったろう。
 街から、街をぬけて、ばくは、シュペングラーの住居を探しだそうと思った。少年時代の情熱がさかまいて体内をかけあがってきた。広い街路には、誰も姿をみせていなかった。時折、ゆきすぎる自動車は、いかにも、無人操縦車のように音もなく近より、遠のいていった。街は裏手にはいると迷宮のようにいりくんでいた。商店のウィンドーには、この街が西欧美術のひとつの根拠地であることを証明するように、さまざまな色感をたたえたポスターや、カレンダーがならべてあった。
 教会、寺院、本屋、レストランが軒をつらねていた。が、シュペングラーがいたと云われる貧民街とおぼしきあたりは、その近くまでゆくと、彼の住居を探してゆく手がかりがなくなってしまう。たまに路上で出会う老婆に道をたずねると、彼女はしきりに考えて、結局、わからないと答えたりした。ぽくは黄灰色のしわだけが目立つ老婆の顔を見つめているだけで、目的地の所在をつきとめることができなかった。冬が近いのに、雪が降りしきっているのに、街角には、荷車いっぱいの果物をつみかさね、その横には花屋が花々を飾っていた。下町の雰囲気が濃くなってくると、路上には、たくさんの人びとが姿をあらわしはじめていた。広場の一角には、中世のゲットーをおもわせる崩れた城壁が残っていた。ぼくは、かなりの時間にわたって街の中を彷徨したが、シュペングラーの「西欧の没落」の家を発見することができなかった。
 地図はもとより、巡査に聞いても、とうとう、わからなかった。ぼくは最後にあきらめて、ホテルヘ帰った。
 ぽくは、ミュンヘンの街でなにを探していたのだろうか。
 少年時代、たまたま読んで、ある種の影響を受けた本が、いったい、どんなところで書かれたのだろうか。著者は、どんな街で、どんな生活をしていたのだろうか。いったい、ぽく自身を形ち作った元素は、どんな場所で、錬金術をほどこされたのであろうか。ぽくは、漠然と、そんなことを考えていたのかもしれない。
 十代のおわりに、ぼくは落日を観念で知った。
 二十代になるかならぬかで、ぼくは透明な落日を、シナ大陸で見た。
 そして、四十代、ぼくは、観念の落日の発生の地を訪ねて、さがしあぐねた。それは、ぼくのSF的心情を再発見する彷徨であったのかもしれない。発見は、ついに、実現することなく終った。
 しいて云うならば、ぼくが現在、SFによせる興味は、こういう情熱のたぐいのものだろう、と、思われる。SFとはなにか、と、云われれぱ、わからない、と、答える。がそういいながらぼくは、SFのおもしろさを、やはり、いつまでも探しもとめてゆくだろう。