SFに憑かれて 矢野徹

 昔習った言葉に効用価値というのがある。SFのそれは、逃避だ、娯楽だ、と言われるだろう。だがぼくには希望を与えてくれる効能が大きい。過去も現在もだ。ぼくにとってSFは、希望の象徴と言っていい。
 その背景には、ぼくの過去、大きく言えぱ日本の歴史がある。ぽくのSFに対する目覚めは敗戦に始まる。
 軍服一枚で帰ってきた寒い年末、わが家は丸焼で食ぺ物はなかった。焼け跡には、精一杯集めた本の表紙が炭化して残っていた。土方、俄か通訳、何でもやった。本が読みたくても高くて手が出なかった。
 無料で読めるのは米軍の図書館、それは米軍のボイラーで山のように燃やされていたポケット・ブックだった。ぼくはネーサソのファンタジイを知り、それからSFの世界を知った。昭和二十三年ごろの話だ。ぼくほ玉蜀黍のパンをかじりながら横文字のSFを読んだ。
 確かに逃避でもあったろう。厭な苦しい現実の生活の中では、SFはひとつの麻薬だったんだ。星々の王者のこのわしも、未開の惑星へときならぬ不時着では、食うにことかくも仕方がないわい、てなもんだ。ま、少しは頭も変だったでしょうな。
 なぜSFに惹かれたか、その理由のひとつはぼくの状況に、アメリカ人の西部開拓精神に共感するものがあったからかもしれない。ほくはアメリカかぶれは一度もしなかった。だが、共感は覚えたのだ。
 つまり、アメリカの発展の基盤は、過去の代用を未来に求めたところにあると考えたからかもしれない。かれらには長い歴史の背景がなく、誇るべき文化の伝統がなかった。そして過去の栄光に代用するものを未来の希望に求めたのではなかったか。かれらにとって、西部の荒野は、未来のオアシスと考えられたのではなかぅたか?
 兵隊帰りのうらぷれたぼくにとって、過去は誇るに足るべきものではなかった。自分の国が敗れたことにも怒りを感じないほどの情ない男に、過去が希望の象徴であってたまるものか? その時点に於て、ぼくは過去と断絶したかった。
 敗戦ぼけの白痴状態のぼくにも、希望は必要だった。希望は現在の食料だけじゃない。未来の希望を象徴するもの、西部開拓者貧乏人が未来を求めたように、ぼくはSFに未来と希望を求めたんだ。
 ふすまを食ぺ、玉蜀黍をかじりながら、ぼくはスペースオペラに酔い、宇宙の美女を抱き、山海の珍味を食べたんだ。デネブのステーキを知り、ポラリスの三色海老を知るものにとって、地球の食べ物なんざ、ま、当座の口しのぎ。
 過去と断絶してSFに飛びこんだほくにとって、芥川はブラッドベリに変わり、乃木大将はハインラインと変わった。
 そして五年がすぎ、アメリカ一のSFファン、アッカーマンを知り、ニ十八年にはかれの世話でアメリカ各地で半年SFの中に漬かった。もうぼくは、SFから離れることなど夢にも思わなくなっていた。そのころのぼくは、SF一冊をニ、三時間で読めるようになっていた。たぷん目が良かったのと、読むだけで良かったからだろう。
 未来をSFにかけた希望は徐々に形を作っていった。SF放送ドラマ、SF読物、SF翻訳、SFの市場を求めながら、SFを読み作り訳し、そして働き続けた。SFのおかげで良い友達もできた。
 ファンの数はふえ、こんな全集まで出る時代になった。ぼくの未来はやってきた。これからは何をすればいいんだろう? SFに求める新しい希望は何なのだ? それをこれから探そう。
 敗戦と、当時のぼくの幸福を求める心のうずき。それは実に大きくぼくの心に根をおろしている。つまり、現在のぽくがSFテーマの中で最も興味を覚えるのは、終末ものと超能力者ものなのだ。やはり過去はぼくをつかまえて放さないものらしい。
 とすれば、これからの若い世代の読者が求めるSFのテーマは「幸福、マイホーム、ゲバ棒」というようなことになるのだろうか。
 SFにどっぶりとつかったニ十年。これを書いている一時間前の午前六時、ぽくはハミルトンの『天界の王』を仕上げるため二十四時間、かかりきりだった。いかにSF漬けのぼくでも珍しいSFのニ十四時間だった。そのあとでこの月報を書き、急ぎのSFコントを考える。ああ、現在も未来もSFでいっぱい、希望がいっぱい。