ジュール・ヴェルヌの時代 野田昌宏

 ジュール・ヴェルヌの生まれた一八ニ八年といいえばシューベルトの死んだ年、ウェブスターが英語辞典を完成した年、日本でいえば天保の大飢饉の四年前、従って天保の改革の十年前ということになるが、SF史的にいえばメリー・シェリーの「フランケンシュタイン」が一八一七年、そしてヴェルヌ、ウエルズと共に8Fの父の一人とされてにいるエドガー・アラン・ポー(一八〇九〜一八四九)はすでにつぎつぎと作品を世に送り出していた頃である。そして、彼の処女作とされている『気球での五週間』が出版された一八六二年頃には、フイッツ−ジェームズ・オプライエンの「ダイヤモンド・レンズ」、ホーソンの「ハイデッガー博士の実験」、バルワー・リットンの「ザノニ」などが続々とあらわれている。ヴェルヌがポーの作品に強い影響をうけていることは今日、研究家の間での定説となっているが、別の観点から彼の作品にもっとも大きな影響を与えたのはやはり現実の科学技術の進歩であろう。
 ヴェルヌの伝記や評伝のたぐいはたくさん出ていてそれこそ枚挙にいとまはないが、英語で出たもののうち、戦前の代表とされているH・G・ワルツのもの、アロットのもの、戦後のベッカー、フリードマン、ピアなど、そのどれを見てもヴェルヌを予言者として大きく扱っている。事実、彼の作品、たとえぱ『海底二万リーグ』の中に出てくるものだけをひろってみても、原子力潜水艦に始まって鯨乳の利用に至るまで、その発想のユニークさと、約一〇〇年のタイムラグをもって見たときに一段とよくわかることだが、その発想のたしかさにはまったく脱帽の他ない。たしかに脱帽の他はないのだけれど、どうやらみんなが予言者という言葉にひっかかるのが、まるで中世かなにかのような環境でヴェルヌがこれだけの予言をなしとげたみたいな錯覚におちいっている場合が間々あるような気がするのである。
 ヴェルヌの生まれた次の年、一八二九年にはロバチェフスキー非ユークリッド幾何学を、そしてそれから十年後にはマイヤーがエネルギー保存の法則を確立しているし、オームの法則が確立したのはヴェルヌの生まれた前の年にあたる。ちなみに、そのあたりにあらわれた利学技術、工業技術の所産をアトランダムにならぺてみればよくわかる。一八二九年イギリスにおいて蒸汽自動車が実用化、一八三〇年イギリスとアメリカで鉄道が開通、一八三五年モールスが電信機を発明、一八三六年汽船のスクリュー推進方式が開発される。一八三八年ダゲールが写真術を開発−−と、たった十年の間のめまぐるしさを考えてみて欲しい。潜航艇そのものにしてからが、フランスのブリュシが潜航艇を建造したのは『海底二万リーグ』の出る六年前のことだ−−などという事実もあまり知られてはいない。
 おなじように、ヴェルヌがどんなところからその卓抜な発想を得たのかについてもかなり大きな誤解がある。たとえば彼の『征服者ロピュール』である。あの中には、ローターが何十本も林立する空中船が登場するが、その挿絵をひと目みたとたん私はぎょっとなってしまった。それとそっくりおなじものをアメリカのダイム・ノヴェルの挿絵でみたことがあったからである。ダイム・ノヴェルというのは、南北戦争の頃から二〇世紀初頭にかけてアメリカではやったタブロイド版の週刊読物雑誌のことで、西部もの、恋愛もの、探険ものなどいろいろあるが、その中にはフランク・トウシイという出版社が大当てにあてた<フランク・リード>シリーズと呼ぱれる大発明大冒険物語がある。
 今日ではもちろん稀覯本であり、好事家の間におそろしい値段でとりひきされているが、私のところにあるマイクロフィルムの中に、『征服者ロピュール』とそっくりおなじイラストが入っているのである。ワルツの評伝はこの<フランク・リード>シリーズがヴェルヌの大きな影響をうけた作品のひとつだと簡単に片付けているし、他の評伝ではこのことにまったく触れていない。私のところに<フランク・リード>の完全揃いがあるわけではないが、すくなくともその空中船が初めて<フランク・リード>シリーズの中にあらわれたのが『征服名ロピュール』の出た一八八六年度より前であることに間違いない。モスコウィッツによると、ヴェルヌは自分の『海底二万リーグ』が群小のダイム・ノヴェルに剽窃されたことがきっかけで<フランク・リード>シリーズの存在を知り、原作者のL・P・セナレンズの許に手紙を送っているといる。ところがセナレンズの方は当時若冠十六歳(!)、すでに大家として令名の高かったヴェルヌからの手紙に喜ぴはしたものの、自分の正体かバレることをおそれて返事を出さなかったといういきさつがある。<フランク・リード>シリーズを全部読んでいたことなどと考えあわせると、むしろ『征服者ロピュール』の方がアイデアを失敬したと考えられなくもない。
 いっておくが私はヴェルヌの偶像破壊をやろうというのではない。科学年表をひいてみれぱ、やっとこやっとこ蒸汽機関車が実用化したころに気送列車を考え出すことがどれだけ大変だったことなのか、そして『フランク・リード二世とクイーン・クリッパー・オヴ・ザ・クラウド』と『征服者ロピュール』を読みくらべてみれぱ、ヴェルヌがどんなにストーリー・テリングの資質の持主であったかをいやでも知ることになるだろう。要するにそれだけのことである。

わたし内のネモ船長 伊東守男

 もうニ十年にもわたって、ノーティラス号はわたしの記憶の不透明な探部にあって果てることなき潜水を続けている。そしてそれは一番思いがけぬとき、わたしの前にその不吉にも美しい姿を現出せしめる。何千年の昔から水というものを忘れているサハラの瓦礫の無限の広がりの内を、また、東北の支線の夜汽車を包みこむ、土の臭いのする匿名の暗黒の内でノーティラス号の黒い横腹が一瞬光る。
 幼い頃のわたしは良くとんでもない高熱を発した。わたしは、しかしそんな燃えるような状態をひどく居心地の良いものに受取っていたのだ。そしてそんな高熟の内にあって冒険モノを読みふけるのが無上の楽しみであった。『海底二万リーグ』もそんなわたしの好みを知っている親が買って来てくれたものに違いない。始めの内、全訳の翻訳モノ特有のヨンヨソしい文体のおかげもあり、わたしはなかなかノーティラス号に乗り移れなかった。だが次第にわたしはそれがただ文章や、ややっこしい外国名前のおかげでないことに、子供ながらも気付かざるを得なかった。ネモはシャロック・ホームズとか快男児××、怪剣士△△、と言ったこれまでわたしが親しんで来た、ストレートな英雄や、反抗的な、だが日の当る世界の住民とは根本的に異質のものなのだ。強いていえばあの船長は名探偵よりもルパンを思わせたが、ルパンを読むときのようなストレートな爽快感がないのだ。だから結局そのときはとうとうそのまま乗船することもなく途中でほうり出してしまった。そしてまたも−−恐らくニ、三年経ってからだと思うのだが、またすぐ後とも思えるのだ−−発熱したとき、きっとなにも読むものがなくなったためであろう。わたしはまたも二冊からなる部厚い本を、もう一度手に取ったのだ。
 なぜか今度はごく自然に水枕の臭いをかいだままで、わたしは、暗黒の海底に潜み行き、ネモ船長の横にあって復讐の旅に立ったのである。わたしはあのとき作中の「私」の目で社会の叛逆者ネモを見てはいなかった。わたしはごくすんなりとネモの側に立ち、ネモの目で「私」の「きみの気持は良くわかるが、しかし……」といった小市民的、日和見的客観性を、敵意のない、だが距離のある目で見ていたのだ。今日でもわたしはなぜ物語には終りがあるのだと腹立しい思いにかられ、そんなとき文学そのものの意義を疑うのだか、あのとき、つまり、あくまでひっついて行こうとするわたしに、「だめだめ」というようにネモが笑いながら手を振って海底に没し去っていとき、わたしは薄い最後のページを透し見てみた。まるでその内に大洋があるかのように。
 それはわたしが大人になった時期であったともいえよう。ネモ船長と別れた後のわたしははっきりと怪男児や正義の味方から離れて行ったのだ。今から考えて見るとき、最初ノーティラス号に飛り移れなかったのは、それが児童モノや大衆小説が一番無縁な場、つまり憎悪の場であったからだと思う。勿論憎悪は人間の力にあって最も根源的なものであるのであり、一番人間性が生の形で生じている子供にあっても、それは例外ではない。だかこの意味で殆どすべての児童文学、いや文学の大半はマヤカシであるのであり、それまでわたしがなじんで来ていたものはすべてこのジャンルに入る以上、最初の時の拒絶反応はむしろ当然であったと言えよう。しかし人類を動かすものは愛であり高邁な理想であると同時に、いやあるいはそれ以上に憎悪、羨望、妬みなどなのであり、古来傑作と呼ぱれているものも、ウラミ、ツラミ−−それもその発生において極めて個人的な−−の結晶化に他ならぬのである。
 この意味においてネモ船長こそは、パリ・コミューンを頂点とするフランスの叛逆の精神の化身とも言うぺきものであり、彼にとって世界は、ブルジョワ的と言わず、封建的と言わず、とにかく秩序を有するが故に破壊すべき対象なのである。この絶対拒否の精神はルッソー、バフーフからバクーニンヘと引きつがれた戦闘的アナーキズムの系列に入るものであり、そこにあっては、絶対的でない自由は自由の名に価いしないものであり、そのような自由に甘んじる人類は破滅してこそ当然なのである。
 もちろん幼いわたしがこんなように思ったわけではないし、アナーキズムに対しては今日のわたしも多くを留保するものであるが、なおネモ船長は、わたしにとって「暗黒」との最初の出合いだったのであり、その印象は極めて強いものがあったのである。
 つまりヴェルヌがわたしを引きつけたのはネモに代表される叛逆への意志であったのだが、それはまたそれがマヤカシではない人間像であったからであるが、それはまたこのアンチ・ユートピア的人物が、当時の科学技術水準を遥かにこえた、痛快な道具を駆使するものであったためでもある。この意味でヴェルヌはSF、つまり科学+小説(虚構)の有機的結合の典型的好例であると言える。
 フランスでも大体この作品をヴェルヌの代表作としているが、それはひとつには叛逆児の挑戦というテーマがひねくれ者のフランス人に受けるためであろうが、その後は科学よりも人間的なるものを選ぶと言う、ある意味では安易なヒュマニズムの国フランスではSFはついに育つことがなかったのだ。

一〇〇年の年月 福島正実 

 アポロ宇宙船のあいつぐ月着陸成功によって、世界最初の自然科学的方法による月旅行物語の作者としてのジュール・ヴェルヌの天才が、このところまたあらためて評価され賞揚されている。出版物もかなり出て、その売行きも悪くないそうである。
 実際、今日になって彼の作品を読み返してみると、彼の、時代に先行する洞察力の偉大さは警嘆すべきものがある。特に彼が活躍した時代が、主に一九世紀なかばから末にかけてであることを考えると、あれだけの空想や願望を、あれだけの文学作品のかたちに創造してみせたことは、なまなかの精神構造の持主にできることではない。
 ひと頃は、ヴェルヌというと、ジュヴナイル向きの冒険空想小説の親玉ぐらいにしか考えていない文学者が多く、とくにその人たちが目をひらけばヴェルヌは月ロケットを空想しただの、原子力潜水艦や飛行機を予言しただのと、たんなる予言者扱いにすればそれで済むものと思いこんでいたため、SF読者までがそれにかぶれ、ヴェルヌなどもうふるい−−などとうそぷく習慣がつきかけていただけに、こうした傾向はけっして悪くない。ヴェルヌは確かに再評価される必要があるのだ。なぜなら、かれは、一部の人々が軽率にも思っているような、たんなる科学万能主義者でもなければ、まして科学・技術を持って来さえすれぱすべてが解決されると主張するオプチミストでもないからである。
 彼の作品を、注意ぷかく読み返してみれば、予言や空想などよりも、そうした、科学と技術の恐るべきポテンシャルを感覚的に感じとったがゆえに、時代に先行せざるが得なかった鋭い知性のはげしい、欲求不満が感じとれるはずなのだ。彼のどの作品にもあらわれる反逆児的主人公たち−−それはあるときは常識を唯一絶対のものと思いこむ俗物貴顕紳士たちに、世界早まわりの賭を挑むプレイボーイであり、あるときは大砲クラブの名誉のために月へ砲弾をぶちこもうと考える大砲クレージーであり、またあるときは人間嫌いの理想主義である−−の言動は、すべてそれを裏書きしている。彼が、いかに自分の同時代人たちの無知さ加減に、非合理的、非科学的、因習的な思考や行動に反撥し、いらだっていたかが読みとれるはずなのである。
 彼が科学を信じ、技術の時代に明るい希望を見出そうとしていたのは事実だ−−だがそれは彼が、技術によって、あるいは利学によって、人間の持つ問題のすべてを解決できるというオプチミズムを持っていたという証拠ではない。彼はただ、一〇〇年前の人問だったがゆえに、たかい科学・技術を、一人の天才ではなく一般が享受できるようになったときは、人間も、その科学・技術に見合う水準に達しているだろうと−−達しているべきだと考えていたにすぎないのだ。もしかれが楽観論者だとすれば、まさにこの点でそうだったといえるかもしれない。だが、再び、かれは一〇〇年まえ−−一九世紀なかぱの、孤高な存在だったのだ。あの時代、自然科学の成果にあれほどの好奇心と純粋な驚異を感じうる稀有な感受性を持った彼に、同時に、その科学・技術によってもたらされる入間疎外を予想しろというのは、むしろ、時代と人間の関係をあまりに軽視した、粗雑な見方といわなければならないだろう。
 一〇〇年という年月は、じっさい、恐ろしいことをするものである。ヴェルヌの天才をもってしても、その年月は、彼がとくとくとして語っている<科学的事実>のいくつもが、問違いでしかなかったことを−−あるいは誤解にすぎなかったことを明らかにしてしまった。
 アポロ宇宙船の月旅行のおかげで、この頃ひっきりなしに引き合いに出かれる「地球から月へ」や「月世界一周」の中にも、そうした点は、いくらでも拾える。もっとも典型的なのが加速度の問題で、たとえば、月へ行く旅行者たちをのせた重量八トンの巨大な砲弾を射ちだすコロンビアード砲が、口径二・七メートル、砲身二七〇メートルでなければならず、それに一八〇トンの火薬をつめなけれぱならないことは、それでいいとしよう。そしてその砲から射ちだされた砲弾宇宙船が、秒速一一キロメートルの第二字宙速度を獲得することも、また正しい。さらにそれが、じつは初速であってはならず、空気の抵抗を計算に入れなければならなかった、と途中で気づかせるあたりも、手がこんでいる。
 そしてまた、たぶんそのとぎ受ける大きな加速度を緩和するために、彼が考えだした方法は、これが一〇〇年まえに案出されたことを思うとき、思わずうなるほど天才的だ。ヴェルヌは加速度が胸から背へ抜けるときもっとも耐えやすいことを知って客たちを砲弾の床のマットの上に腹ばいに寝かせたうえ、床と外壁との間に隔壁を何段にも設けてそこに水を入れておき、ショックが床にかかると、床が落ちて一段ずつ水が船外に放出されるような工夫までした。つまり、水をショック・アブソーバーに使ったのである。
 にもかかわらず、この方法は全く間違っている。というのは、もし、初速一一キロメートルという恐るべきスピードで物体が打ち出されたら、その時生じる加速度は、瞬間に五〇〇〇〇Gに遂するからであろ。
 マーキュリー宇宙船を打ちあげた推力一八〇トンのアトラスCロケットの最高のGが7G、アポロ宇宙船の推力三四〇〇トンに及ぶサターン5型巨人ロケットが4Gであり、アポロ宇宙船の大気圏突入の際のGが瞬間的に一〇〜一五Gであることと考えあわせれば、いかにむちゃかがわかるだろう。バービケーン会長もニコール大尉も陽気なミシェルも、一瞬にして肉塊と化してしまったはずなのだ。
 こうした間違いは、実は<科学的>と思われている描写の随所にある。ヴェルヌは確かに無重量状態を知っていたが、それが宇宙船が自由落下をはじめた瞬間に−−つまり砲弾ならば、初速を失ったとたんに起こることを理解していなかった。そこで、月旅行者たちがふわふわと浮き上るのは砲弾が地球と月の引力の接合点を通過するときだけであとは平気でブドウ酒で乾杯! ということになる。
 また真空についても誤解していて、砲弾から外に棄てられた犬の死骸が「空気をぬいた風船のように」しぼんだり、真空の中で平気で空気の充満した部屋の窓を「手早く」開いたりしている。
 ミシェルが月で「地球の出」を見たいと願うのもヴェルヌが月と地球の関係を十分理解していなかった証拠だ−−なぜなら地球は一ヵ所にとどまっていて、観察者が移動しないかぎり、絶対に出たり沈んだりはしないからである。
 だが・・・・・・数えたてれぱきりがないこうした問違いや誤解は、しかし、些かもヴェルヌの作品の価値を落としはしないのだ。それは、一〇〇年という年月の演出にすぎないのである。

翻訳者紹介

村上啓夫(むらかみ・ひろお)
明治三ニ年東京に生まれる。
英米文学翻訳家。
主訳書
 ロイド・ジョージ「世界大戦回顧録」(改造社刊)
 ケニス・デーヴィス「英雄」(早川書房刊)
 アラン・ムーアヘッド「運命の衝撃」(早川書房刊)