金子徳好 去年の11月に亡くなっていたんだな。
この「ゼッケン8年」(http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20060525#p4)の人、去年の11月に亡くなっていた・・。
ビデオ「F・W・ムルナウのサンライズ」(asin:B00005H6R0)
図書館で昨日借りた、サイレント映画。
田舎に住む若夫婦。そこに、都会から美女が避暑に来る。その女に夫は誘惑され、妻をボートに乗せ、池に突き落としてころそうとするというサスペンスな展開。だが、妻の怖がる顔を見て後悔し、彼女への愛を誓う。
後半は、すっかり仲直りして、遊園地にでかけて、「的に当たれば子豚が出てくるゲーム」に興じたり、ダンス場でロシア風ダンスを二人で踊ったり。前半のサスペンス風はなんだったんだの、ノンキな展開。
でも、ラストは、帰りのボートに乗っている際、嵐にあって、妻は池に落ち、夫だけは岸に泳ぎつく。でも、救助隊が妻をみつけてハッピー・エンド。なんか、バラバラなストーリーの、見ていて頭がおかしくなるような映画だった。
でもまあ、この時代の映画って「見世物」だったんだよねえ。映画の「見世物性」を強く感じる作品だった。
はてなでムルナオのキーワード検索してみたら、蓮実重彦が面白いコトを書いているのを引用している方(http://d.hatena.ne.jp/Re-TATTAKA/20080129)がいたので、孫引き。
ゴダールがムルナウに「間に合わなかった」ということは、だから、『サンライズ』がジャン=リュック自身の生誕以前にすでにこの世界に存在していたという時間的な前後関係とはいっさい無縁の事態を意味する。「遅刻」とは、何にもまして「不在」の体験なのである。あの路面電車の息をのまずには見られない滑走運動を知らなかったにもかかわらず、人なみのフランスの青年として、ゴダールはルネ・クレールやカルネやオータン=ララをごく自然に知ってしまっていた。そのことの「取り返しのつかなさ」の自覚だけが、「間に合わなかった」という現実をきわだたせるのである。そこに、初めて、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が生まれる素地がかたちづくられる。(ゴダールの「孤独」――『映画史』における「決算」の身振りをめぐって/蓮實重彦)
http://www.mube.jp/pages/JLG_9.html
そう。妻が、「怖い夫」から逃れてハシっていると、本当に「偶然のように」路面電車の駅があって、そこで二人とも電車に乗り込んで、都会に行くんだよね。
まあ、「ボートに乗る」時点で「赤ん坊を祖母に預けて」出て行っていたから、「ボートで池を渡る→路面電車に乗る」で都会に行こう、と夫は妻を誘って出たワケだが。観客からすれば、あの唐突な路面電車の登場は、確かに、「息を飲むような」光景ではあった。
小谷野敦「日本の有名一族」(幻冬社新書 asin:4344980557)
随分前に買ったものだが、いまごろ読み終わった。
で、こちらに、小谷野先生も、下記に、「各所からの指摘」を書かれているが・・、私が気がついた点。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20071109
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20071024