猿よ、シンバルを 平岡正明

 夏の夜のことだ。筒井家に解毒剤をもらいにいくために青山通りを歩いていた。まるでシェクリイの短編だな。自分と話している女の表情や身のこなしが筋肉の収縮運動としてありありと見えてがっくりきた男の話がたしかシェクリイにあったとおもう。ところで私は酒が飲めないという話をしよう。よせばいいのに友人をのみ屋に誘った。気持か晴れなかったからだ。友人は女ともだちをつれていた。
 酒ののめない男にとって、女の赤いくちびるから水で薄めたアルコールがクイクイとのどの奥に流しこまれるのを見ているのはたえがたいものである。観察によると、アルコールが流しこまれるときの人間の表情というものは、目が半眼にとじられ、目玉が寄り、鼻の穴がひらいて、きわめて自己陶酔的なものである。かたむけたコップと氷の触れあうカラリという音の間に、気味悪い色をした液体があっけなく出ていってしまい、やがてアルコールは彼女の消化器を内側からかけめぐり−−わざわざ「内側から」といったのは、アルコールにつけられた胃袋は見たことがあるが、胃袋のなかにつけられたアルコールというのは見たことがないからと強調したいためだ−−腸壁で吸収され、いやな色をしたレバーで濾され、やがて頭にのぼってろくでもない思想を燃やすのかと想像するうちに憂鬱になってきた。たまらずに友人たちを置きざりにして私は外に出た。
 私は想像しただけで悪酔いしたらしい。新宿御苑裏の暗い道を歩きながら、とつぜん筒井康隆に会いたいと思い、たぶん風呂場で貧血をおこす寸前の老人なら感じるだろうようなふうーっと世界が稀薄になるあの不安な気分を、いま私から中和してくれるものは彼しかいないと感じた。
 考えてみれぱ奇妙なことだ。筒井康隆は神聖なものは断じて茶化し、この作家の手にかかると聖なるものがことごとくたよりなくさせられてしまうのに。神泉なものの最初の属性は重厚さである。それがたちまちヘナヘナにされる。彼の手にかかってあえなくヘナヘナにされなかった諸神が何人いるか。それは無差別攻撃であって、右に口をつぐむぺきものがあると飛んでいって骨ぬきにし、左に神聖なものか生じると駆けつけてケパをむしってしまう。
 神聖なものの第二の特徴は、それについておきまりの思考のパターンしかゆるさず、その思考パターンの反復しかゆるさないということだろう。人死にの前では粛然としなければならない、変死した女は美人と言ってやらねばならない、正しい思想や純粋な感情は敗れねばならない、だれか他人がドジをふめば「深く考えてみようではありませんか」と言わねぱならない、など。筒井康隆はそういったおきまりの反応にたいして、もう一点、別な論理の前提を置くことによって攻撃をしかける。法皇の鼻が赤く垂れさがっていたらどうかとか、核弾道ミサイルに雌ゴリラが抱きついたらどうかとか、安田砦が陥落しなかったらどうか、という風に。神聖な諸個人、組織体、秘密、社会的事件にたいして、無差別にしかけられ、無差別にとんでもない発想が飛びだしてくる。短篇「晋金太郎」で、金嬉老事件をパロディーにして文化人たちが観念的ドンチャン騒ぎを演じている席にーー
「窓をあけてSF作家が顔を出した。『軽薄なら、ぼくにまかせてください』」
 とある。そのひょいと顔をつきだす軽薄さのシーンは戦闘的である。そのようにして筒井康隆は、重く沈みこむことによって価値観の岩盤になろうとするこの世の神聖なことどもを、軽石やぼうふらやコルクの栓や死魚や貼り紙細工のように、戦闘的にも軽く、白い腹を見せて浮上させてしまう。そのようなときの筒井康隆道化をこらしたフランツ・カフカである。
 作品からひらひらと舞いでてくる、あの奇妙で不安な、この世の非在感を、存分に吸いこむことが筒井ファンの特権の一つなのだ。だから、私はその時おちいった空虚な気分を筒井康隆によって中和してもらえたのだと直感したのかもしれない。
 筒井家に着いた。青山通りから百メートルほど奥まったこの家は『心狸学・社怪学』所収の「優越感」のモデルである。夜、他家を訪ずれるのは失礼だけれども、その当時出した私の評論集をとどける用事もあったので、あらかじめ電話しておき、仕事部屋に通していただいた。話した。共通する友人、相倉久人松田政男山下洋輔トリオなどの話題で、『馬は土曜に蒼ざめる』のあとがきで作家自身が書いた話題の後日談を、ああでもないこうでもないと話しあった。ウインチェスター銃を分解して元にもどらなくなり、ニつにわかれた台座と銃身をにらみつけながら、どちらがウインでどちらがチェスターかと松田政男と大議論をしたとか、山下トリオが発見の会のために作曲した「葬いのポサノバ」の譜面をもってきて、やがて筒井家のピアノで演奏するうちのりにのり、れいの殺人的スィングをはじめ、お子さんが眼をつりあげてポンゴをたたいた、といった話しだった。この話題は省略しよう。また、ここ数年間、私が夢中になって読み耽り、考えている三人の作家、五木寛之山田風太郎筒井康隆についてのポレミックな話題−−三作家評価を契機に開始された論敵への爆撃はいまも続行中なのだが−−にもふれるのはよそう。
 しかし、この夜、私は筒井康隆を解く鍵の一つを手に入れたのかもしれない。それは猿のおもちゃに関する意見の一致である。
「母子像」で、ネジをまくと両手のシンバルを打ち鳴らす猿の玩具が、母と子とを異世界にみちぴきいれる道具として使われている。私の構想でも、あの猿の玩具が、夜中の舗道を一列となりて、両手のシンパルを打ちならしながら不細工に行進し、それに導びかれて異世界に主人公がはいる。われわれはたがいにあの猿に興味をもっていて、苦味ぱしった兄さんが町角でネジをまいては玩具の猿の両手を打ちあおせて売っている光景を、あきもせず、不気味なものとした見た経験を有しているのだった。私の気分はなおっていた。
 筒井康隆はあのブリキのシンバルの打ち合わされる音を「かしゃん、かしゃん」と表現した。私は「しゃんこ、しゃんこ」と表現した。そしてたがいに相手の表現の方がすぐれていると主張しあった。あの音は「かしゃん」であるか、「しゃんこ」であるか、そのことを判定する論文を一本書くつもりだ。