南陀楼綾繁「路上派遊書日記」(右文書林 ISBN:4842100753) すみません、読み進めませんでした。

図書館で借りたこの本。「書評のメルマガ」に誘ってくださった南陀楼さんの本だし、ブログも「愛読」してたので、さあ読もうと昨夜から読み始めたのだが・・。十数頁読んで、先に進まなくなってしまった。


理由は3点ほどあって。

  • ブログと本はやはり違う
    • 私は南陀楼さんのブログを、「面白い本を紹介してくれる」ブログとして、「あ、こんな本もあったんだ」「へえ、あの本はあの人が編集したんだ」という風に楽しんでいた。でも、こうして本になってみると、拾い読みは難しく、本以外の南陀楼さんの、日々の一連のアクションが頭にズイズイと入ってきてしまう。
  • 自分が病人であることからの嫉妬(?)
    • 南陀楼さんは、あちこちの本屋や古本屋や、居酒屋やライブハウスや図書館などに出かけていき、精力的にあちこち動きまわる。それにくらべて、毎日、自宅の周りをウロウロしているだけの自分って何? という気分が沸々とわいてきて、「この人はなんでこんなに元気に動きまわっているんだ」という理不尽(ホント理不尽なんだけど)な怒りが沸いてくる。(病気治ったら、私もあちこちでかけるぞ、と、自分の闘病パワーに転嫁すればいいのにね)
  • 自分の資質の問題
    • 私がなぜ、本ばかり読んでいるかといえば、端的に言えば、それは他人が嫌いだからだ。たとえそれが、「本好きの人」同士でも、そんなに会って話をしたいと思わない。特に1年以上仕事休んで、他人とほとんど会っていないこともあり、ブログのコメント欄が自分的には一番快適な人間関係で、メールでも、ちょっと重ったい。それくらい「他人嫌い」な人間なのだ。(うちは夫婦ともそう)
    • 十年前に「日曜研究家」で、南陀楼さんの日記を始めて読んだ時は、「世の中にはスゴイ人がいる! これを書いている人は、どんな偏狭な、鬼のようなマニアなんだろう」と想像していたが、今は、「元気で社交的なお兄さん」というキャラがわかっている(大学時代に、「民俗学者になってフィールドワークしたい」と考える人が、人嫌いなわけはない)。その「色んな人とどんどん出会って、ワイワイやっていく、幸せな様」は、自分の「読みたい日記」じゃあないのだ。
    • 私が一番読みたいのは、「人間嫌い」の倉阪鬼一郎の「活字狂想曲」(ISBN:4344402634 作家専業になる前の校正者時代の、会社社会での鬱屈の日々を描いたエッセイ。傑作!)や、この「しおみじょうじ日記 http://www.icity.or.jp/usr/artpop/dir11.html#TOP」(自分が、いかにモテナイか、そして地方の「下流社会」の職場がイカに辛いかというテーマを、手を買え品を買えたメクルメク文体で、8年以上にわたり書いた日記。大好き)とかの、「不幸な日記」なのだ。
    • もちろん、南陀楼さんなりの、悩みや屈託はある筈だが、そういう感情的な部分は、意図的にブログから排除されている。思えば、戸板康二の自伝も、その「社交的で屈託が全然ないキャラクター」に嫌気がさして、途中で読むのを挫折してしまったなあ(http://d.hatena.ne.jp/kokada_jnet/20050318#p2)。
    • 一方、社交的な人の日記でも「夢声戦争日記」は好きなのだが、その理由は、夢声の「屈託」(根本的には、”インテリなのに、中途半端な芸人をしている”ことによるもの。あと奥さんとの喧嘩とか、歳をとってからできた子どもが成長するまで生きられるかとか、出先でまずい料理食わされたり、老人なのにハードな慰問旅行に連れていかれたり等等。そして勿論「日本が戦争に負けるんじゃないか」という懸念。)が、たくさんたくさん出てくるからだ。もう一方の雄、「ロッパ日記」は未読だが、読むなら、ロッパが落剥した「戦後編」を私は読みたいなあ。


というわけで、南陀楼さんすみません。病気治ったら、読ませてもらいます。