山口治子(聞き書き:中島茂信「瞳さんと」(小学館 asin:4093876126)

図書館本、夜中一晩かけて、読了。
山口瞳の妻による、思い出記。鎌倉アカデミアの同級生同士で、恋文を交わしあい、結婚。
若い頃の山口瞳の写真が載っていて、あまりにハンサムなのに、驚く。治子さんは、「ジェラール・フィリップに似ている」と思っていたそうだ。
あと、出版社に勤めていたころの、帽子をかぶりトレンチコートでヒゲをはやして「きめている」写真、これにも笑った。
サントリーに入ったころ、若禿が出てきて、坊主頭にする。このころの写真から、我々の知る「山口瞳」の姿に、ようやくなる。


そして、彼女が「電車で外出できない」神経症であったのは、現在で言う所のパニック障害だったという。2人目の子供を堕胎した手術のショックで、彼女はその病気になったそうだ。
今でも、その病は治ってはいなくて、息子の山口正介が一緒でないと、電車には乗れないという。


例の、国立の、「コンクリート打ちっぱなし」で「食堂が半地価」の、超モダンな自宅は、ヒトミ先生が師事していた「高橋義孝先生の嫁」が、そういう「前衛建築家」だったため、ああなったそう。
ヒトミ先生は、和風なうちにしたかったので、内心は不満だったが、「高橋先生の言うことだから」と、渋々従ったらしい。
この「前衛建築」は、武蔵野を襲った大雨の際、大浸水するはめになる。


また、「元スポーツマン」山口瞳としては、息子の山口正介がスポーツが苦手なのが、悲しかったそうだ。
正介は中学で写真部に入り、瞳先生が「さあ、正介が走るのを応援するぞ!」と張り切って運動会にでかけると、当の息子は、学生服のまま写真を撮っていて、ガッカリ、だったと。


意外な交友関係として、伊丹十三とは互いに若い時代からの知り合いで、「ヨーロッパ退屈日記」というタイトルも、山口瞳が考えたものという。宮本信子と結婚する際は、突然、元旦の朝に山口家にやってきて、「これから結婚式をあげますので、立会人になってください」と、無理矢理仲人にさせられたそう。


いずれにしても、幸せな夫婦だ。治子さんの両親は厳格な両親だったので、山口家の自由闊達な家風がすごく好きだったという。
だが、どんなに仲のよい夫婦でも、心中でもしない限り、どちらかが先に死んでしまうのだ。
自分たち夫婦は、どちらが先に死ぬのだろう・・。