「小松左京自伝 実存をもとめて」(日本経済新聞社出版社 ISBN0:4532166535)

図書館本、読了。「日本経済新聞」に連載された自伝と、「小松左京マガジン」に連載された「自作解説インタビュー」。
色々、「えー、そうだったの〜」という話もおおかった。


京大時代の「共産党員としての活動」。これ、小松を語る際に神話的に語られてきたが、実際は「高校時代からの親友が、一人じゃ寂しいからということで、小松の印鑑を偽造して、『二人での入党』を勝手にした」という、力が抜ける実態だった。なので、そんなに本気に活動せず、好きな漫画を描いての宣伝活動が主だったとか。
ちなみに、「日本アパッチ族」が光文社から出たのは、この「悪友」の兄が光文社に入社していたおかげだそうだ。


それと、京大時代の文学仲間・三浦浩(のち、産経新聞に入社し、司馬遼太郎の部下となった人物)の世話にすごくなっている。卒業後に仕事がない時に仕事を紹介してもらったり、「SFマガジン」の創刊も彼から知らされたそう(新聞記者だから、情報が入るのが早いんだろうねえ)。それと、「さよならジュピター」の映画資金が足りなくなってきた時、原作を連載して、産経系の出版社から出版してもらったり・・。


もう一人世話になったのが、旧制高校時代の寮長だった仁木哲という人で、この人が『放送朝日』という朝日放送のPR雑誌の編集長をしていたので、この雑誌に紀行文明論「エリアを行く」を連載(単行本は『地図の思想』『探検の思想』)。この雑誌は、梅棹忠夫加藤秀俊も執筆している雑誌で、その関係で彼らと交流ができたそう。
(こちら→http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/wagashi/chapter12.html に加藤秀俊が回想文を書いている)


あと、「日本アパッチ族」の伝説的なエピソード。「貧乏でラジオを質に入れたため、妻の娯楽のために空想小説を書いた」というのは、奥さんの記憶では「質入れじゃなくて、単に修理に出しただけ」だそう。


だけど、これだけビッグになっても、「文壇からの正当な評価がない」ことは無念のようで、「開高健北杜夫ぐらいにしか、自分の作品を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。


また一方、一貫して「宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があって、これは他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識じゃないかなあ。
この、小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ、開高健高橋和巳であったようだ。
開高健との関係はハタからではわからなかったようで、筒井康隆が「開高はSFをわかっていない。あの程度のSF理解でSFを論じるなんて、小松に失礼だ」と批判していたが・・)


1995年の阪神・淡路大震災の際には、『日本沈没』の著書としての「責任」として、あらゆる取材に答えまくり・・。
それから、毎日新聞に、震災の教訓をほりさげた内容を連載。翌年6月に『小松左京の大震災'95』として刊行したが、その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。
「自作解説インタビュー」にも、「ぼくはもともと躁鬱的なんだ」が、あの小松左京鬱病とは・・。2000年ごろようやく回復し、それから「小松左京マガジン」を作りはじめたそうだ。