山崎忠昭『日活アクション無頼帖』(ワイズ出版 asin:4898302130)

図書館本、読了。 
鈴木清順の『野獣の青春』、岡本喜八の『殺人狂時代』、そして『ルパン三世』や『ムーミン』の脚本家である山崎忠昭の自伝的な文章をまとめたもの。


彼はワセダミステリクラブの創設にも参加し、また卒業論文に、当時未訳のブラウン、ハインラインスタージョンなどを扱ったSFファンだったという。世代的には、そのまま「SF作家第一世代」の人になってもおかしくないくらいの人であるが・・(1936年生まれだから、筒井康隆眉村卓より2歳下。平井和正豊田有恒より2歳上。大伴昌司と同い年)。
一方で映画青年であった彼は、日活アクション映画の脚本家、のち、アニメや「ウィークエンダー」などの作家となった。


かなり癖のある人だったらしく、軽妙な文体ながら、様々な暴露話や、意見の合わない人たちと仕事の上でケンカした話などが多数書かれている。
アニメの脚本で、ともに多くの仕事をしたという雪室俊一へのインタビューでは、山崎は「全身脚本家」とでもいうべき天才肌でかつ「性格的には弱い部分がある」人物で、晩年は仕事がなくなり貧窮の中で亡くなったという。


ネット上にも雪室の山崎の死についての文章があった。
http://www.style.fm/log/05_column/yukimuro10.html

今回は若いライターに負けない実力があるのに、歳を取ったというだけで仕事に恵まれず、ひっそりと世を去った2人のライターのことを書きたい。

ひとりは山崎忠昭さん。ぼくとは『ハリスの旋風』以来の付き合いで、ずいぶんコンビで仕事をした。お互い映画育ちということもあってウマが合った。どちらもガンコだったので、あの2人を組ませると、うるささが二乗になってかなわんとプロデューサーに嘆かれたこともある。

ペンも折れよとばかりの筆圧で書いた、山崎さんの原稿からは作家の熱気がそのまま伝わってくるようだった。たいてい枚数をオーバーして、演出家がカットするのに四苦八苦していた。『ムーミン』の第1話を書いたのも山崎さんだ。『ルパン三世』『一休さん』など、ぼくと離れてのヒット作品も多い。井上ひさしさんとNHKの人形劇を書いたこともある。決して多作ではないものの個性あふれる作品を書いていた山崎さんだが一時、アニメ界を離れたことがある。親しいディレクターのワイドショーの制作に参加するためで、不器用な彼は二足のワラジが履けなかった。

その番組が終わり、さてアニメを書こうというときは浦島太郎状態になっていた。彼を評価していたプロデューサーは定年になったり、亡くなったりして、若いプロデューサーは、彼の名前すら知らなかった。ぼくも何本か仕事を紹介したのだが、肌が合わなかったようで、うまくいかなかった。彼の最後のアニメ作品は『桃太郎伝説』である。以後、ほとんど仕事に恵まれず、宗教雑誌の編集を手伝ったりして糊口をしのいでいた。扶養家族が年老いたお母さんだけということもあって、なんとか暮らしていけるのではと軽く考えていた矢先、山崎さんの訃報を聞いた。それが分かったのは、作家協会からの郵便物を受け取った大家が「あの人は死んだから、もう送らないでくれ」と電話をしてきたからだった。もう2ヶ月も前のことらしい。身寄りのない彼の葬儀を取り仕切ったのは福祉事務所だった。早速、問い合わせると死因も死亡日時もプライバシーを理由に教えてもらえなかった。作協の機関紙にぼくが書いた追悼文を読んで、数人の同業者が電話をくれた。ほとんど付き合いのなかったドラマのライターばかりで、アニメライターはひとりもいなかった。