元々社について(高橋良平「日本SF戦後出版史」より)

神保町のオタさん(id:jyunku)が、独自の調査で、「日本初の本格的なSFシリーズを刊行した出版社、元々社」についての記事をアップされている(http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20091211)。


ところで、同社については、「本の雑誌」1991年2月号から始まった、高橋良平の連載「日本SF戦後出版史」の冒頭でとりあげられていて、その第2回(同年4月号)に、元々社についての詳細が記述されている。参考までにアップしてみる。

この間の事情がわからないものかと、前回触れた日本SFファンダム賞受賞式前に、元々社の人に会ったというSF翻訳家の小隅黎こと、同人誌「宇宙塵」の主宰者柴野拓美さんにうかがった。柴野さんが会ったのは、全集第二期からの発行者である津田和宏という人で(以下略)
もう故人になられた関係者も多く、以下は津田さんの話からまとめたものである。
そもそも、元々社明治大学から生まれたようなものだった。卒業生の小石堅司は、恩師である斎藤晌(しょう)教授(『宇宙航路』の月報に「最近の科学小説ブーム」という文章を寄せている)に『神皇正統記』からとった元々社という社名をつけてもらい、池袋で出版社をはじめた。1954年、82社が新書を出すという新書ブームの中、元々社も<民族教養新書>をスタートさせた。ところが、刊行点数は順調に増え、内容は名にふさわしいものにしろ、出版経営の才能の持ち主がいず、採算を度外視して出すため、赤字はかさむばかり。そこで顧問挌の斎藤教授に相談したところ、大衆文学ものの全集の企画が浮かんできた。(以下、当時の大衆文学全集の隆盛の説明を、略)
明治31年生まれで東大哲学科を卒業し、『漢詩入門』などを著した中国文学者としても有名な文学博士、法学博士だった斎藤教授は、斬新な大衆文学路線の全集ということでSFに着目し、大学への通勤途中も原書を読み、およそ100冊のSFの中からラインナップを決めたという。そして元々社は限りなく明治大学に近い神田駿河台に場所を移すとともに、斎藤教授の教え子で小石堅司の友人である津田和宏が、教授から依頼されて経営に参加した。現在も健康器具を発明する発明家であり、いくつかの会社を経営する津田は、静岡出身の財産家の息子であり、当時編み物会社を経営していた。恩師の頼みでもあり、出版の意義に賛同した津田は資金を援助し、<最新科学小説全集>は1冊あたり5000部、売れたものは2万部の部数を数えたのだが、経営体質は変らず赤字がつづき、一次は社員を10人抱えていたが、手形で失敗し、倒産を迎える。
その後、東京ライフ社から全集の残りが<宇宙科学小説シリーズ>全6巻として予告されたのは、編み物会社経営の津田とは主婦の友社時代に知り合いだった同社社長の沼田千之が津田に資金援助を頼み、津田は元々社の配本残りを出版することを交換条件として出したからだった。しかし不運はつづくもので、発行・東京元々社、発売・東京ライフ社としてスタートしたシリーズも『宇宙恐怖物語』『時間と空間の冒険』の抄訳アンソロジーを57年の10月と12月に出しただけで、津田自身の事業の失敗もあっておわってしまった。


この語り手の津田とは、オタさんブログでの

大島豊先生を偲ぶの記』(駿哲会)所収の津田和弘「人間大島豊先生」によると、

と同一人物。
オタさんのブログにもある、福島正実「未踏の時代」中の「佐藤享一を中心とする企画チーム」という記述との、食い違いについては、やはり不明。
また、この高橋良平による津田へのインタビューでは「社名は斎藤教授がつけた」とあるのに、オタさんが引用していた文献では「明大総長の鵜沢総明が命名」となっていて、ここも違いをみせている。語り手は同じなのだが、記憶違いなのか。