寒い、足が痛い

昨夜は24時半に就寝。昼間会社で「昼寝」してしまうと、なかなか眠気がわいてこない。
今朝は7時起床。眠い。


外に出て歩くと、足のつけねが痛い。月曜日の「自転車通勤」が効いているのか・・・・。
眠くて、電車を一駅のりすごす。もどってきて、タクシーで諸侯場まで。


今日もまた「新しい職場」の指示が出ず、WIKIや「はてなキーワード」編集する日々。
あわせて読みたい

唐沢俊一のアサヒ芸能記事「自己セールスの達人 杉浦日向子追悼」???

http://hamada13.cocolog-nifty.com/hamada13/2005/08/post_d0d5.html

「ガロ時代、私(唐沢氏)の担当だった編集者が、酒をのむと自慢げに『杉浦さんの自宅に原稿取りに行ったらちょうど入浴中で、バスタオルを巻いただけの姿で玄関に出てきて、原稿を渡してくれたですよ。ふふふふふ』と繰り返して自慢していたのを思い出す。


ところがそれから他の編集者と付き合ううちに、同じ体験を話す人がかなりの数、いることに気が付いた。まあ、お風呂好きでも有名な人だったからそのようなシチュエーションがしょっちゅうあったとも考えられるが、どうもそれは、後で出版社でそのことが話題になることを狙って、わざとやったことだったらしい。そういう噂が広まれば、自分に仕事を頼んでくる編集者が増えるだろう、と踏んでの演出だったわけだ。自分に色気がある、とひそかに自信をもっていたらしく、それを武器にもしていたようだ。

うーむ、そうかなあ・・。唐沢先生がそれこそ、そういう「自己アピールの達人」だから、それからみた邪推じゃないの・・。
そんなセールスしなくても、どっちみち、彼女の才能からして、世に出るべきして、出たと思うけれどねえ〜。


(追記)
この件は、唐沢と村崎百郎の「社会派くんが行く!維新編」でも、同様にネタにされていたらしい。
http://d.hatena.ne.jp/discussao/20090224

内澤旬子さんの「義理のおじさん」と「その息子の従兄弟」

http://d.hatena.ne.jp/halohalo7676/20080309#p1

土曜日は、いとこのS子ちゃんの結婚式で、東京ミッドタウンリッツ・カールトンホテルへ。(略)


ところでその河に棲む動物似の父親、つまりあたしの血のつながってないオジは、朝妻一郎といって、そのむかしJACKS(ジャックス)というロックバンドのプロデュースをした人で、レコードのライナーノーツを書きまくったりラジオのパーソナリティなどをしていたそうで、音楽業界では名の知れた御仁である。そうそう、西城秀樹のYMCAの元曲をアメリカから買い付けたんだったか。今は著作権関係の仕事をしている。


この「義理のおじさん・朝妻一郎」って、この人ですね。
http://www.fujipacific.co.jp/column/tinpan/001.html
ティン・パン・アレイの歴史」というのを、かつて雑誌「オリコン」に連載したそうで・・。今は「フジパシフィック音楽出版」会長らしい。
あと、社団法人・音楽出版社協会会長(名誉会長は渡辺美佐)でもあるね。
http://www.mpaj.or.jp/outline/mpa/item02_01.html

渡邊美佐名誉会長、朝妻一郎会長が、4月11日、総理官邸を訪れ、オノ・ヨーコさん、リサ・マリー・プレスリーエルヴィス・プレスリーの娘)さんからの書簡を小泉純一郎総理大臣に手渡した。

http://www.mpaj.or.jp/outline/news/2006_10.html
と、首相にも会えたりしちゃう、ビッグな人なんだね! しかし「著作権が死後50年」を「70年」に伸ばす嘆願書だったようだが、70年って、長すぎ・・。プレスリーの娘はともかく、オノ・ヨーコはいくつまで生きるつもりだよ・・。


そして、その人の息子がこちらの朝妻一という人で、「フジテレビジョン編成制作局バラエティー制作センター所属のテレビプロデューサー」みたいですね。この人が内澤さんの従兄弟か・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%A6%BB%E4%B8%80#.E4.BA.BA.E7.89.A9

「24年組」、少女マンガ家たちの”トキワ荘”「大泉サロン」 「耽美マンガ」には黒幕がいた!!

別冊宝島「70年代マンガ大百科」を読んでいたら、上記、「大泉サロン」のことが書いてあった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/24%E5%B9%B4%E7%B5%84#.E5.A4.A7.E6.B3.89.E3.82.B5.E3.83.AD.E3.83.B3

「大泉サロン」とは後に「24年組」と呼ばれる女性漫画家達の拠点であった東京都練馬区大泉の竹宮惠子萩尾望都が同居していたアパートを指す(なお「大泉サロン」の命名者は坂田靖子)。竹宮の友人の増山法恵(竹宮のプロデューサー・原作者をへて、のちに作家)が女性版トキワ荘のような場を作る計画を立て、増山の家の真向かいの長屋で竹宮と萩尾が生活し始めた。


そこへ昭和24年頃生まれの若き女性漫画家達が次第に集まり、「しょっちゅう遊びに来ては滞在し、漫画を描いたりアシスタントをしたり語りあったりして、帰宅する」生活を送るようになった。彼女らの多くはその後の少女漫画界を担う人材として成長していった。


ところで、ここで驚くのは、上記「大泉サロン」のプロデューサーの「増山のりえ」が言うには、「当時の竹宮も萩尾も、映画や小説の知識はほとんどなく、私が教え込んだ」という。(萩尾はSFは読んでいただろうが、文学作品はほとんど読んでなかっただろうねえ)

そう、『デミアン』とか、”ウィーン少年合唱団”とか、少年系を勧めたのは私なのです。私は昔から”少年愛”に憧れてたし、”パブリック・スクール”とか好きなんです。それに当時の竹宮の絵は、少年のほうが全然魅力的だったから、少年の世界を書いてほしくって。モーさまは元々、少女の世界の人だとみてるので、今振り返ると悪いことしたかと思うけど。

だって・・。こういう「黒幕」の人がいたのか・・。