SFの未来像−−シュール・ドキュメンタリーの可能性−−権田萬治

 これからのSFはどういう方向をたどるであろうか。
 アポロ11、12号による月探険計画が成功した現在、アーサー・ケストラーが「ファンタジーの退屈」の中で述べている次のような言葉を振り返ってみることは決して無意味ではないであろう。
「私は、SFはよきエンターテインメントであると信じているが、けっしてよき文学たりうるとは思わない。今後百年間に、われわれが宇宙旅行を行なうようになることはまず間違いあるまいが、その段階においては、月への旅行記は簡潔なルポルタージュとなるはずである。それは事実であって空想ではない。そしてその時代のSFは、読者を驚かすためにはさらに一歩先へ進まねぱならないだろう」
 私はこのケストラーのSF観を読むと、日本の推理小説史で有名な甲賀、木々論争を思い出し、SFにおいても同じように文学か娯楽かという問題が論じられたのかと今さらながら興味を深くした。
 私は、推理小説もSFもケストラーのいうように基本的には娯楽の領域に属していると考えている。しかし、ケストラーとむしろ反対にSFと推理小説、とくにSFは本質的に娯楽の範囲に属しながら、常にそれをはみ出す文学的要素を持っていると思う。そこにはいわぱ娯楽と文学の、あるいは娯楽と芸術の境界線上に位置する”境界線上の文学”がありうる。したがって推理小説もSFも最高の娯楽を目指すことによって、文学に通じる追が開けてくるというのが私の逆説的な主張である。娯楽を芸術に高めるのではなく、むしろ逆にそういう改良主義的発想を捨てて、最高の娯楽の方向を徹底化する方向の中にいわぱ弁証法的な飛躍がありうるのではないかということである。
 しかし、ケストラーが指摘している問題には、もう一つ大きな問題がある。それは科学が現実を追い越すこの時代にいかにしてSFが新しい力向を見出すことかできるかという問題である。
 アポロ三飛行士の月世界探険のルポルタージュが、H・G・ウエルズの「月世界最初の人間」やジュール・ヴェルヌの「月世界旅行」のようなものではなかったことは確かなことである。安部公房のいうように、「リアリズムという概念はあくまで文学上の方法にかぎられたものであり、科学上の事実だとか、まして通俗的な真実らしさなどとはなんの関係もない」(「SFの流行について」)のは事実であるとしても、埴谷雄高が「ニ十世紀文学の未来」で次のように指摘していることも同じように真実なのである。
「現実のなかに深い真実と並んで、強い事実が現われてきて、そして、その二つのものはそれぞれ決して退かぬ自己主張をすることによりて、ゆくりなくも思いがけず激しい拮抗作用を果すことになったのである。フィクションとノン・フィクションはついに同じ感銘度をもって私達に受けとられ、一方が他方をのみこむとか、あるいは、絶対の優位にたつということがなくなってしまった」
 こういう傾向はSFにおいても出てきつつあると思われるが、だからといってSFの舞台を遠い先に設定することを必ずしも必要とはしないのではないか。その意味で最近刊行されたマイクル・クライトンの「アンドロメダ病原体」の方法は私に強い印象を与えた。人工衛星が地球の人類にまったく未知の病原体をもたらすという着想は空飛ぷ円盤や火星人襲来という昔ながらのSFのテーマともいえるが、宇宙科学のここ数年の進歩はこの不安を極めて日常的なものにしているのである。この小説がライフ誌によってサイエンス・ノンフィクションと名付けられたのもふしぎではないので、このようなドキュメンタりー・タッチで比較的近い未来の身近な問題を記録的にとらえる方向は科学の進展とともに今後ますます深まるのではないかというのが、私の感想である。
 もちろん、サイエンス・ノンフィクションという名称は正確ではない。なぜなら、これも完全なフィクションに違いないからである。かつて花田清輝は、ドキュメンタリーを越えるところのシュール・ドキュメンタリーという概念を提起したことがある。つまり虚構であれぱあるほど記録的であり、記録的であれぱあるほど虚構的であるドキュメンタリーの方法を従来のドキュメンタリーに対比したのであるが、その意味でクライトンの方法は一種のシュール・ドキュメンタリーといえるかも知れない。
 福島正実はSFにはサイエンス・フィクション・プロパーとサイエンス・ファンタジーのニつの主要な流れがあることを指摘しているが、これはいいかえれば未来状況を主要対象とするSFとそのような状況を自由に仮説として設定し、人間存在の存在論的追求を行なうSFがあるということであろう。そして、シュール・ドキュメンタリーの方法は、とくに前者の系列で威力を発揮するのではないか。
 このようなニつのSFの系列の中で存在論的な方向を目指すスウィフトオーウェルの”仮説の文学”をケストラーがSFからわざと切り離してSFと芸術という対比を行なっていることに私は納得できない。「アンドロメダ病原体」のような作品と並んで、もう一方の系列に立つスウィフト的発想の存在論的SFとして沼正三の「家畜人ヤプー」のごとき力作が最近日本にも現われたことは、現代のSFがますます両極に分解しながら、独自の方法を深化させつつあることを物語る強力な証左といわねぱならないであろう。