七〇年代のSFは? 小野耕世

「SFの傑作といわれている作品は、『アンドロメダ……』といった題のものよりも、『夏への扉』だとか『幼年期のおわり』というような、情念的なタイトルのついているものに多いようですね」
 あるラジオの座談会で、現代のロマン作家五木寛之氏はこう言った。五木氏によれば、七〇年代は、情念のロマン復興の時代であるとともに、パロディの時代になるという気がするという。
 SFというのは、ひとつには、核時代のおとぎぱなしである、と私は思う。だから、できるだけキラキラとはなやかで、自分をいったいどこに連れていってくれるのか、期待でわくわくするような、面白い現代のおとぎばなしを読みたいと、いつも思っている。
 またひとつには、SFは、予感の文学であるべきだと考えている(予感であって、予測ではない)。
「予感のSF」ということになると、話題になったものとして、スタンリー・クープリックがシネラマに仕立てた「二〇〇一年宇宙の旅」がある。あるイギリス人は、この映画は story telling ではなく story thinking の映画だ、といって笑ったが、私にはクラークの原作よりも、映画のほうが、はるかに自由な想像をかきたてられ、ぞくぞくしなから楽しんだ。
 この予感の映画作家クーブリックは、いままさに注目を集めているイギリス作家アンソニー・パージェスの代表作であり、未来世界がティーン・エイジャーによって支配される悪夢の状態を描いた「時計じかけのオレンジ」を映画化している、というので、それこそ胸をとぎめかせて完成を待っているところだ。これはすごい映画になるぞ!
 私かいま、いちぱん関心を寄せている作家は、イギリスではこのパージェス(どうしてこの作家の作品が翻訳されないのか不思議である。もっとも、バージェスはジェイムス・ジョイスに私淑している作家だから、文体が独得で、翻沢しにくいのはたしかだ)と、アメリカではテリイ・サザーン(そして、スーザン・ソンタグ)だがそのザザーンの「マジック・クリスチャン」が映画化され、主演はピーター・セラーズと、わが敬愛なるビートルズリンゴ・スターだという(見たいね)。
 予感のSFといえば、それは当然、情念のSFになるべきで、情念のSFというと、私はその原型を、巨人H・G・ウエルズの短篇「壁の中の扉」に見出す。はじめてこの作品を読んだときの感動を、これからも忘れることはないだろう。私には、情念的なSF作家のように思えて注目している山野浩一氏の諸作品も、このウエルズの短篇に原点があるように感じる(もちろん、その前にアポリネールを考えてもいいけれど)。
 いやSFだけではない。水木しげるが描くところの、異次元願望をテーマにした一連のマンガは、すべてその出発点を「壁の中の扉」一篇に求めることができる。
 そして、マンガということになると、「裸のランチ」「ジャンキー」などの翻訳で知られるアメリカの前衛作家ウィリアム・バロウズは、これからの小説は、コミック・アートを見習うべきだ、といっている。パロウズは、それこそ予感の作家であり、彼のモザイク風の小説「爆発した旅券」「ノヴァ・エクスプレス」などは、さまざまな情念のイメージが機関銃のようにとび出す、一種のSFと考えてもいいだろう。最近、一般にサブ・カルチャアに対する関心がたかまっているが、例えぱ、アラン・レネや、フェデリコ・フェリーニのような映画監督が、アメリカのガラクタ芸術であるコミック・プックに注目しているのは、私にとっては興味深い。
 このことは、日本における「劇画」の流行と関連はあるだろう。だが、劇画が、現状のように、それこそ安手の風俗小説の退屈な絵ときにとどまっているあいだは、将来に期待はもてない。しかし、最近のアメリカの一部のコミック・プック、そしてアンダーグラウンド・コミックスなど、小説のあとを追うこととは無関係なマンガには期待できる。
 さらにヨーロッパに目をむければ、フランスでは、映画化された「バーパレラ」の続篇「新バーバレラ」か健在だし、イタリアのセクシャアル・コミック「ヴァレンティノ」イギリスの女スパイもの「スカーレット・ドリーム」など、豊満な肉体を惜しげもなくさらして、テクノロジー時代の宇宙を伸び伸びととぴまわる女性たちの活躍を描く、完仝におとなのためのマンガ−−Graphic Story もしくは、Illustrated Literature という新分野の台頭を見ていると、SFも、うまいところに解放区を見つけたものだ、と思う。
 ………と、これだけ述べてきただけでも、ある情況が感じとれる。SF・パロディ・コミックスそしてポップ・ミュージック−−それらがつながりあって、七〇年代には新しい情念のロマンを創りだしていくような気がする。そして、それが、ビートルズ以後の時代の方向だと思う。ポップスとSFとは、共振していく分野なのだ。ヒッピーSF「バタフライ・キッド」の作者チェスター・アンダーソンは、ポップス雑誌の編集長なのである。
 私が、ほとんど毎日のようにのぞくことにしている銀座の洋書店に行くと、最近の都心の洋書店の例にならって、ちゃんとSFの棚があるが、その横にはポーノグラフィの棚が並び、さらにその奥にマンガがある。この配列は、たまたまそうなっただけなのだが、見かたによってに暗示的である。そうだ、ポーノグラフィ(好色本)があった!
 七〇年代は、新しいタイプの、ネオ・ポーノグラフィの時代でもあるのではないか? それは、ドライなパロディとしてのポーノグラフィかもしれない。やはり、テリイ・サザーンは時代を予感していたのだ……。
 そんなことを考えながら、その洋書店で、やっとペイパーバックになったばかりフィリップ・ロスの新作「ポートノイの不平」を買った。このなんともこっけいで、激しい小説は、ポップスとボーノグラフィの要素をあわせ持ち、どこから読んでも楽しめる。こんなに自由自在にスイングするSFがあったらなあ、と思う。
 SFのことを書いてきたにもかかわらず、科学について何も触れなかったことに気がついた。正直のところ、現在の私には「SF」というコトパの連想として「科学」を思いうかべることはなくなってしまっているのだ−−というと、いわゆる「本格」SFのファンから反発されるだろうが、SFが先鋭化し、確立した分野のなかにとじこもっている間に、他の文学ジャンルやマンガなどがSFのいちばんおいしいところをもぎとって消化し、その想像力の世界をさらに豊かに拡張している、というのが現状なのである。
 そして「本格」というようなコトパは、私の大嫌いなコトバである「根性」などとともに、これからは、ワイセツな語感をもつものとして、新世代にうけとられるようになるような気もしてくる(これは冗談!)。勝手なことばかり述ぺてしまったが、新しい時代のコンテクストを意識したSFは、上等なおとぎぱなしになってくれるだろう。