サイエンス・イズ・フィクション 中原佑介

 サイエンス・フィクションは空想科学小説といわれるように、小説の一分野である。その内容と形式がきわめて自由であるのがサイエンス・フィクションの特徴といっていいが、それでも小説であることに変りはあるまい。もっとも最近ではその自由を最大限に行使して、サイエンスとの関係の濃度の深化よりも、ほとんど反リアリズムの文学として、もっばらその領域の拡張を目指しているようにみえる。たとえば、未来を描いても、ヴェルヌの昔と違って、必ずしも「空想科学小説」といった要素を色濃く感じさせるとは限らないのである。まあそれはそれで、とやかくいう筋合いでもあるまい。(もっとも、空想科学小説という呼び名、なんとなく古風然とした要素を帯びてきた気配である。活動大写真といった雰囲気がないでもない)
 そこで、そういうサイエンス・フィクションは敬遠してなどというつもりではさらさらにないが、ここでは空想科学ならぬ科学についての妄想を書いてみたいと思う。というのも、サイエンス・フィクションということばを聞くたびに、私は、これはサイエンス自体フィクションであるということを語っていることぱではあるまいかという反射的妄想にとらわれるからである。
 サイエンスがフィクションであるなどというと、科学者から抗議を頂戴することは、むろん承知である。科学は客観的な法則の探求を目指しているのであって、小説のようなフィクションと同一視するのは、誤解もこれに極まるものはなしというわけである。私もまた、いくら妄想にとらわれていても、サイエンスを小説と同一のものだなどというつもりはない。
 科学とはなんぞやという大問題は、私の貧しい頭脳ではあつかいかねる。しかしまあ、それが自然の構造についての記述、記述による知識であるというぐらいの大雑把さでカンベンしていただくとしよう。さて、この自然の構造についての記述ということであるが、これが一義的であるとなると、なんとも面白くないのである。
 たとえば、この大宇宙にいくつあるか知らないが、わが地球と同じように進化した生物の生棲する惑星があって、そこでも科学(むろん、どういうことぱを用いているかは想像を絶するが)があるとする。まあ、ないことはないだろう。そこでも、ある時オールドマン氏が万有引力の法則を発見し、マックスバッド氏か電磁波の方程式をつくりだし、ツヴァイシュタイン氏が相対性理論をあみだしたとなると、なんともつまらない。そこでは、たとえぱ果物が木から落ちる現象も、光についても空間についても、われわれとまったく異った概念で記述されていて、それなりに一貫しているということであるべきである。というより、そうであるように妄想するのである。そうだからといって、具合の悪いことはあるまい。
 今では、重力は重力場という力の近接作用の概念で記述されている。アインシュタインになると空間の歪みという概念をもちだしている。しかし、それまでは、ニュートンによって定式化された力の遠隔作用という考えで納得してきたのである。それを士台にして技術がちゃんと成りたち、しかも、万有引力が場におきかえられたからといって、それまでの技術が破産したなどと聞いたことがない。自然の機構をちがったように記述する惑星があっても、技術の産物は似たようなものになるだろう。というのも、それは自然の変形されたものであり、自然の構造そのものに直接規制されているからである。
 たとえぱ、力というような概念のまったくもたない惑星を想像してみる。(そこでは、想像力などということばもないだろう)しかし、それでも、自然の構造の記述はできるのではないか。ものとものとの結びつきを力で説明するのは、要するにわれらの理由なき習慣である。それと、その惑星では、数学はまたわれわれの知らない表現形式を備えていて、それを援用した科学の表現も、当然違うということになるかも知れない。
 要するに各惑星にはそれぞれのサイエンスがあって、わが地球上のそれは、そのひとつに過ぎないということ、それが私のいうサイエンスすなわちフィクションということの意である。しかし、悲しいかな、この地球上にあって、われわれの知っているのとまったく異なったサイエンスを具体的に想い描くことなどできる話ではない。(もっとも、大系でなくて、片々たる現象については、そのもっともらしい説明の勝手な空想ができる。これつまり、空想科学小説による妄想科学のでっちあげというわけである)
 そこで、わが妄想も一挙地球上に転落ということになるが、その地球上でも、たとえぱ前世紀から今世紀初頭まで物理学者をひっぱりまわしたエーテルなど、フィクションとしてもなかなか苦心の力作ではあるまいか。ローレンツの如きは、エーテルの存在から物体の運動方向への短縮という考えをひねりだしたが、ともかく、今はエーテルなど不要のものになってしまったとはいえ、ある時期、自然を説明するものとしてちゃんとして通用していたのだから、フィクションの面目躍如たるものがあるといわねぱなるまい。
 しかし、フィクションの話が現実に段々接近してくると、ロクなことはない。ひょっとすると、サイエンスといっても、じつは人間の言語と密接に結びついていて、文字や発音がまったく異なるにせよ、他の惑星の言語をもっている生物にとっても、サイエンスは似たような内容になるのではないかという邪念が湧き起ってきたからである。妄想に邪念が入るときまってよろしくないことになる。
 ひょっとすると、どこかの惑星でも、目下エーテルについて頭をひねり、物体の短縮について議論しているかもしれない。そうだとしたら、やっぱり面白くない話である。サイエンスについて妄想することは、なんとしても面白くなければならない。