脱地球の思想 テディ片岡

 現実とSFとのさかいが次第にせまく薄くなっていく事実こそ、SFの未来に対する最大の挑戦なのだ。SFが、かたっぱしから現実になると同時に、現実そのものの様相が、悪意のSFにかさなっていく。
 18世紀の初頭に生きていた人にいまの社会を見せたら、これは地獄だ、というだろう。18世紀において考えられ得る最大のSFであった地獄が、いまの人間にとって現世となっている。毎朝、家まで配達される新聞とそっくりおなじものが数百万部、ほかの家にもほぼ同じ時刻に届けられでいることを知ったその18世紀の人は、新聞を見ただけでおそらく悪性の熱病にかかることだろう。数十ページの新聞を夜明けまでに数百万部印刷し、お昼までに全部数の配達を完了できるようにしろ、と命じられたレオナルド・ダ・ウィンチは、輪転機の原型のようなものは考えつくだろうが、そのあたりで気が狂うにちがいない。
 人間が月へいく、というSFは、すでに、人間は月へいったことがある、という回想になってしまった。月にのこされているSFのおそらくこれが最後のものとなるであろうものは、アボロが月面に残してきたいくつかの測定装置や機械が人間の理解の枠をはみ出た生殖によって繁殖し、えたいの知れない性能を持った機械が月面いっぱいにはびこり始めているのではないだろうか、というファンタジーだ。
 これがファンタジーではなくなったとき、すべてのSFは、その活躍の終結をむかえなけれぱならないのだ。最もおそくまで生きのこるSFが最もすぐれたSFということになるのであり、たとえぱ月の争奪をめぐって米ソ間に戦争かおこる、といった類のSFは、いまですらもうSFではなく、現実にかなりおくれをとった冒険物語りでしかないのだ。過去から現在をとおした未来のアナロジーは、ユーモア小説ではありえても、SFではない。あとに残っていくSFは、現実よりすこしでも巧みに現実のさきまわりをしなければならない。さきまわりできなくなったときはすなわち純粋に有機的な生きものである人間が、機械にたちうちできなくなったときなのだ。機械が、たとえぱ、自己修正能力、というようなかたちででもいいから生命を持ちはじめたとき、人間の運命は決まったといえる。
 科学技術文明の、とりあえずいまの人間の段階で最も一般的で理解されやすい目標が脱地球であるならば、脱地球は機械がやることであって、人間は、彼が生きながらえるために必要なあらゆる地球の文明を濃縮した保身装置をしょいこみ、機械にくっついて宇宙へ排泄しにいくのがせいぜいのとこなのだ。宇宙に出てまで排泄しなければならないような、すべての不便さともろさのさんたんたる集合体であるこっけいな生きもの人間が、地球以外の場所で主役になれる日は、こない。完全な暗闇でも目のみえる機械はいくらでもあるが、そのような人間は、地球上にひとりくらいしかいない。月ロケットを飛ばしたのはたしかに人間だか、できあがったロケットにとって人間は、便乗者以外のなにものでもないことを考えなおさなくてはいけない。
 生命を持った機械は可能だが、人間か月面に裸で立つことは不可能だ。
 脱地球をなしとげたあとの人間は、どうなるのだろうか。機械が自由に繁殖し、こわれたところは自分でなおし、足らないところもやはり自分で勝手におぎなってすくなくとも銀河系ていどの宇宙を行動範囲にすることができてしまったとき、人間は地球の上でなにをすればよいのか。
 死に絶えることしか、人間には、残されていない。人間にとって、明かるい明日とか未来とかは、存在しないのだ。
 夜なかの十ニ時ちかく、銭湯のしまい湯から、タオルと石ケン箱、それにプラスチックの容器に入った液体シャンプーを持って出てくる人たちをながめていると、人間にはもはやそうたいした未来は残されてはいない事実が、一足とびに納得できる。
 彼らひとりひとりには、あと50年くらいの明かるい明日は、ひょっとしたらあるかもしれない。しかし、人間ぜんたいには、依然として地球しか残ってはいないのだ。18世紀には、月ロケットを信ずる人は、いなかった。だが、月ロケットは、現実になった。だから、人間による脱地球をいまは誰も信じないがやがては現実になる、という単純なアナロジーは、まずなによりもさきに、人間に対する根元的な洞察を欠いている。これを欠いたSFはSFではない。
 地球は、おびただしい水道を持った文明的な星ではあったが、最後には、こっけいで悲しい星となるのだ。
 どのように文明的でこっけいで悲しいかについての、ささやかなSFを、こころみてみよう。古代エジブトがあのようなピラミッドをつくり得たならば、これからの地球には、すくなくとも次のような芸当は、できて当然なのだ、というSFだ。地球の文明はすでに死に絶えているとしよう。生命と呼べるようなものは、金属を食べる微生物くらいしか残っていないのだ。いつごろこうなるかまだわからない。この死んだ星を宇宙の果てから観察している地球外知性体は、不思議なことをすぐに発見する。この星は、ある一定の周期をもって、ピカリ、と弱く光るのだ。その光線を分析してみると、銀河系のなかでおとろえつつある太陽の反射であり、人工的なとしか考えようのない平面から反射してくるではないか。平たい星があるのだろうか。地球外知性体は、この不思議な星を見に、やってくる。
 星は、四角なかたちをしている。正六面体で、そのうちの一面だけがピカビカになっていて、そこが太陽光線を銀河系のむこうまで反射させているのだった。
 正六面体は不思議な金属でつくられている。地球外知性体は非常な苦労をして、その金属を、一部分はがしてみる。
 内部は、暗闇だ。その巨大な闇のなかに、地球がいる。冷たく死んでしまった、なれの果ての地球だ。
 地球の文明は、自らがほろぴつつある事実を知ったとき、かつてここに文明がさかえたことを宇宙の誰かに伝えるため、総力をあげて正六面体の金属箱で自分をおおい、自分よりはすこしは長く生きのぴるであろう太陽光線を周期的に反射させるシカケとしたのだ。