ソ連SF界の新人登場とその舞台 袋一平

 銀河航路のはずれに『緑の峠』という名で知られる小さい惑星がある。暗黒太陽系の『黒チタン』という惑星で傷ついた二人の宇宙飛行士がこの『緑の峠』に途中下車する。人工空気、人工庭園−−宇宙の休息所である。いくら小さい惑星でも、観測所長ひとりだけでは管理しきれないから、ここではすべてがオートメ化され、立体映像化されている。蜘蛛の怪物のようなロポットが所長の手足となりて働いている。
 そういう土地に起る異様な事件と経験を描いたのが、ミハイル・エムツェフとエレミー・パルノフニ人組の処女作『緑の峠』で、隔月刊「探求者」の一九六二年第一号に発表された。およそ八○枚くらいの短篇である。
 あくる年、六三年春、モスクワの『知識』出版社から「新しい信号所」という表題のSFアンソロジーが出た。発行部数三一万五○○○部。ストルガツキー兄弟、ワルシャフスキー、ガンソフスキー、ブラッドベリなどの中短篇に並んで、エムツェフ=パルノフ組の処女作もここに採録されている。内容に手を加えて、題名も「跡も残さず」と変更。
 おなじ六三年秋、こんどは『若き親衛隊』社のSFアンソロジー『ファンタスチカ63』にこのニ人組の作品がニつ入っている。おそろしくむずかしい「白ネプチュン公式」と「雪片」。前者は重力波やテレパシーの問題を扱った短篇で約一三○枚。後者はその半分ぐらいの分量で、ヴェクトル時間に対するミクロシステムの運動にかんする実験を軸とするふしぎな物語が展開する。
 ざっと、これがソ連のSF作家が生まれる順序の一例である。
 ニムツェフ=パルノフ組はもう圧しも圧されもしない作家となり、六四年には短篇集『超新星の落下』(表題の作品はSFマガジン一九六四年十二月号に紹介)、六五年には同じく「フォセット大佐の最後の旅」、六六年には「緑のエビ」、六七年には長篇『ディラックの海』と好調に本を出している。
 この二人組はまたその出身においても、ソ連SF作家の一典型を示している。エムツェフは本年三十九歳、モスクワ精密化学大学卒、タイヤ工場技師から燃料研究所へ移り、新しい科学の達成についていろいろ解説を書いている。パルノフは三十四歳、化学技師としてソ連科学アカデミーの研究所で石油産地予知法の問題に取組み、傍らやはり科学普及書をいくつか出している。
 つまりソ連SF作家には科学者=専門家、技師出身が圧倒的に多いということである。エフレーモフにしても、ストルガツキー兄弟にしても、その例にもれない。
 前にいった隔月刊「探求者」というのはリーダース・ダイジェスト型の雑誌で、実は月刊「世界めぐり」という一般向地理雑誌の付録として、六一年に創刊されたものである。純粋のSF誌ではなくて、探偵ものやスパイ、スリラーなどとの抱合せだが、いまのところ、一番SFに力を入れ、新人の紹介にもつとめている雑誌である。親の「世界めぐり」は一九二〇年代に、ソ連SFの父A・ペリャーエフの舞台であった。その伝統をここに見るのはおもしろい。「探求者」の現在発行部数三○万。
 ソ連のSFは「世界」「中央公論」級の雑誌、「文春」「週刊朝日」級の雑誌、また大新聞にものるが、ほとんど恒常的にこれを取上げているのは月刊科学普及誌「技術青年」や「知識は力」などだろう。それに年に数冊のアンソロジーが出て、専門誌不在をどうにか補っている。広い需要があるのに専門誌が出ないのは、官僚統制、売手市場、用紙不足といったお家の事情による。
 新人ではなかったが、エフレーモフの『アンドロメダ星雲』はまず「技術青年」に連載されて評判になった。一九五七年である(同時に少年新聞「ピオネル=プラウダ」にも連載)。彼の新作長篇『丑の刻』(日本の”草木も眠るうしみつどき”より取った題名)もいまこの雑誌に連載されてる(六八年九号より六九年六号まで)。これはゼロ空間を突破して、トルマンス太陽に近づき、ヤレ・ヤフという惑星で他の人類と接触する物語。
 この雑誌はまたクラーク、アシモフブラッドベリなど外国作品の翻訳もよく紹介するが、一方、国際SF短篇コンクールや宇宙画解読コンクールなどをしぱしぱ催して、SFの普及と新人発掘につとめている。たとえば、いまをときめくストルガツキー兄弟も、この「技術青年」五八年一号に、「外宇宙から」という短篇で、新人として初めて登場したのである。現在この雑誌は一五○万部を発行している。
 解読コンクールというのは、宇宙画の大家A・ソコロフや絵のうまい宇宙飛行士A・レオーノフなどが何かいわくありげな空想画を描く。これをテーマとして、読者が短いストーリーをつくるというもの、またはじめてSFリレー連作を試みたのも、この雑誌である。
「知識は力」も新人の檜舞台といえる。六八年一一号にL・ロザノワという女流の「心臓移植の問題について」という短篇が出た。いまやかましい問題にからめて、相愛の男女か永遠の愛の誓いにおたがいの心臓を交換するという話。機知にとんだ作品である。
 ストルガツキー兄弟も、「技術青年」にデビューすると、すぐ「知識は力」に招じられた。おなじ年(五八年)の八月号に短篇「自然反射」を、ついで五九年三号に「六本のマッチ」を発表し、これか兄弟のSF活動の実質的な第一歩となった。この雑誌の発行部数はいま五〇万である。
 この雑誌は前に中学生のSF創作コンクールを催したことがあるが、『アンドロメダ星雲』が小学生新聞に連載された例でもわかるように、ソ連のSF界は未来のSF作者を期待する手を絶えず打っているようにみえる。