アポロ式放血手術 福島正実

 深夜、テレピ局のビルの屋上にかかった月を見た。胸をつかれて、思わず立ち止った。それは、アポロ宇宙船が月に到達し宇宙飛行士たちがはしめて月面の塵の中に足跡をしるした日、特別報道番組のためにテレビ局からテレビ局へとたらいまわしされていたときのことだった。興奮と熱気に包まれたスタジオの中では−−月着陸艇が、その四本の着陸脚をしっかと踏まえ、その前を、月面服に身をよろった宇宙飛行士が、低重力の世界特有の跳躍するような足どりで歩いている、その光景が目のあたりテレピ画面に映っていたときには感じなかった、一種痺れるような感動だった。「あそこにいま、人間がいるのだ」とぼくは思った。同時に、「もうぽくは、二度と昨日までと同じ気持で月を仰ぐことはないだろう」と強く思った。
 そうなのだ。われわれはもう、月に人間が到達したという事実を、意識の外へ追いだすことはできない。その事実を、しかも、月に行き月面を歩きまわった当の宇宙飛行士たちとともに、リアルタイムで目撃し知った以上−−すこし極端ないいかたをすれば−−それを意識せずには、何事も考えられないのだ。それはいわば、天が廻るのでなく地球か廻るのだということを、知った場合にも似ているだろう。もうわれわれは、どんなに保守的な考えかたをしようとしても、月が、到達不可能な遠い彼方の別世界だと考えることはできないし、人類が地球に縛りつけられて、外ヘ−−宇宙空間へ出ていけない宿命を持っているなどと思うことはできない。アポロ宇宙船の月面到達は、そうした新らしい時代に、いつの間にかわれわれが入っており、しかもそれから勝手に脱けだすことはできないのだということを意識させたのだ。ある意味で、それは意識の革命だったのだ。アポロ宇宙船の成し逐げた業績は、科学的、技術的にいって偉大なものだが、人類史的な意味でも、またこうした哲学的な意味でもきわめて重大だったのである。
 アポロ宇宙船の業績を、認めない人たちもむろんいる。最も極端な意見を持つ人にいわせると、これは、米ソの国家威信をあらわすための単なる宇宙ショウであり、人類史上最大の愚行ということになる。十兆円におよぶ費用と三十万といわれる人員、そのために結集された高々度な頭脳と技術の粋とは、もし地上の問題に向けられていたら、測り知れない大きな仕事をしていただろう、とその人たちはいう。病院なら何百、大学なら何十、橋なら何百、そして貧民救済や社会福祉に使われたら何十万人が飢顛や不潔や文盲から救われたろうと、詳細な計算をだしてみせた人もいる。
 確かに、計算ならばそうなるだろう。だがそれこそ−−ぼくはこのことを、今まで何度書いてきたかわからないほどだが−−たんなる幻想なのだ。月へ人間を送りこみ、安全に連れ戻すという目標−−そのためにこそ、十兆円の予算はとれたのであり、三十万の人員と人類最高の頭脳と科学技術の粋、明日の情報化社会を開発するシステム工学の全精力が結集されたのだ。貧困の解決、病院や学校の設立はもとより大いに結構だし必要である、だが不幸にして、そういう目標を掲げたのでは、これだけの予算も人員も資材も集まりっこはなかった。幻想というのはそのことだ。正諭めいて聞こえるけれども、実は宇宙開発を、心情的に嫌う人たちの屁理屈にすぎないし不器用な悪口にすぎない。
 もちろん、アポロ宇宙船の月計画に、政治的な意味がなかった、などと強弁するつもりはない。米ソの威信を賭けた競争意識がなかったならば、人間の月到着は、おそらく十年先のことになっていたろう。だが、だからといって、政治的宇宙ショウだと揶揄する人ぴとは、あまりに近視眼的、微視的なものの見方しかしていないのだ。
 二十世紀の最後の四半世紀にさしかかった人類は、今世紀の曙の時代からは、想像もつかなかった巨大なエネルギーを持つにいたった。人口、生産性、科学技術、そのいずれをとっても、十九世紀の世界と現代世界とのあいだにはすでに別世界といってもいいほどの差か開いている。そしてそのエネルギーは、種種さまざまの矛盾やアンバランスを含みながら、人類を、未来へ未来へと押しまくっている。
 その矛盾あるいはアンバランスの落差が大きくなりすぎた場合−−時として、大きな変動が起る−−戦争とはいわばそうした変動の一つの現われだ。それはちょうど、生物界で、自然淘汰のかたちで種族保存のバランスがとられるのによく似ている。ホモ・サピエンスである人間の場合は、もらろん、動物の場合とは違って、物質的にも−−精神的にも経済的にも文化的にもその現われ方は複雑をきわめているから、一見そうとは見えないが、やはり生物の一員である以上、生物学的法則から、免れることはできないのだ。
 宇宙開発は、碓かに厖大な費用を喰う。それはおそらく、小型の戦争の一つやニつは起し得るほどの巨額に達する。しかも、そのための技術開発や人員の供給は、国家的規模でやらなければならないほどのビッグ・ビジネスである。アメリカの場合にも、ソ連の場合にも、国家のために集中されたエネルギーは想像以上に大きかった。巨大なエネルギーがそのために消費された−−だからこそ、それが米ソ間の平和のバランスをとっていたのではあるまいか。
 もし、宇宙開発という目標が、いまから十二年前に定められていなかったら−−恐らく、米ソ間の対立はより更に激化し、熱い戦争にまで発展していなかったとは、誰にもいえないのではないだろうか。核兵器による熱い戦争で敵意をぶつけあうかわりに、宇宙開発競争にその敵意を燃焼させていたことは、平和のために、大きな役割りをしていなかっただろうか。
 つまり−−宇宙開発はいわば、放血手術の役割りをしていたし、今後もするだろうとぽくは思うのだ。それは、放置しておけば血管を破るか悪性の腫瘍を生じていたかもしれないエネルギーのオーバー・フロウを、他に向けるために役立ったのではあるまいか。そしてそれが、人類の、盲目的な智慧−−生物字的な本能だったのではないだろうか。
 ポスト・アポロの問題が、いま種々いわれている。おそらく、今後の宇宙−月開発に、いろいろの消長を経験するだろう。後退の時期もたぷんあるだろう、だが、そうした矛盾や不均衡のうちに、人類は、宇宙への進出を逐げていくにちがいないのだ。