わからない、ということ 都筑道夫

 NHKテレビで放映していた「プリズナーNO6」が、わけのわからない終りかたをしたので、だいぶ腹を立てたひとがいるようだ。局の担当者は、視聴者からの電話で、なんども説明をもとめられたらしい。
 早川書房の編集者だったころ、私はジョルジュ・シムノンの「ペルの死」という長篇を、ハヤカワ・ミステリに入れたことかある。そのとき、かなりの読者から、苦情の手紙をいただいた。殺人事件の犯人が、だれともわからないまま、この作品は終る。主人公は、まわりの人間から、犯人と思いこまれる男だ。だから、最後まで真犯人のわからない小説を、ミステリとして出版するとは、なにごとだ、という叱責の手紙だった。けれど、「ベルの死」は心理スリラーで、犯人さがしのミステリではない。むしろ、真犯人がわからないことによって、結末が生きている作品なのだ。
 そこへいくと、「プリズナーNO6」のほうは、わからなさの性質がちがうから、腹を立てるひとがあっても、当然かも知れない。私は最初から、へんな終りかたをするらしい、という噂を聞いていたし、三、四回みて、これはまともな結末はつけられない、と思っていたので、おどろかなかった。もちろん、NO6が情報部をやめた理由にも、村がどこにあるかということにも、村をつくった目的にも、合理的な解決はつけられるだろう。だが、このシリーズを書いている作家グループは、たとえば「暗号」という、すぐれたアイディアのエピソードがあった。「おとぎ話」というスパイ活劇のパロディで、くりひろげた技巧も達者なものだった。それらを見てもわかるように、かなりな腕の持主かそろっていて、しかも、視聴者の洞察力を、そうとう高く想定している。だから、どう合理的に解決してみせても、あっといわせることはむずかしい、と観念して、シュールリアリスティックな結末をつけたのだろう。
 このごろ、パズラーを読んでいて、犯人あるいは犯罪方法がわかったとたんに、索漠としてしまうことが、しばしばある。ことにリアリスティックな推理小説が、リアリスティックに解決されたとたん、リアリティを感じなくなってしまうことが多いのだ。いちばん単純に理由をつければ、現代は合理的にわりきれる時代ではなくなっているせいだろう。そのくせ、すでに過去のものかも知れないパズラーという形式に、いまも私は魅力を感じている。
 だから、ついハズラーを組立てたくなって、けれど、書きすすめていくうちに、読者を失望させるよりも、むしろ混乱させ、怒らせてみたくなってくるのだ。わけがわからなけれぱ、新しくて高級だ、といっているのではない。わからないことのなかに、新しいショックが、サプライズが、みなぎっているときに、魅力を感じるのだ。合理性を単につじつまをあわせることでなく、想像力を推進するためのライフルとして活用したとき、ハズラーはSFとおなじように、もっとも可能性にとんだ小説形式になるだろう。したがって、私の内部では、古いパズラーと新しいSFに同時に夢中になっていることに、いささかも矛盾はない。ただ実際に書く段になると、制約の多い推理小説に馴れすぎたせいか、SFの自由さに、かえって手がすくむだけだ。
 たとえぱ地球人である主人公が、地球人とまったく共通点のない宇宙人と、コンミュニケートしようとする物語を、書こうとしたことがある。けっきょく、うまくいかないでショートショートにしてしまった。身動きできない状態で、闇のなかに閉じこめられた主人公が、おなじ状態でおなじ場所にいる宇宙人たちと話しあおうとする。だが、言葉は通じない。テレバシーで話しかけてくるものもいるが、送られてくるイメージは、理解できない。その恐怖と焦燥を書いたわけだが、イラストレイターは困ったことだろう。もっとも、まっ黒ななかに劇画にあるようなバルーン(吹きだし)をいくつか白くぬき、人間的、非人間的なもののかたちを、いくつも書きこめばいい、と思うのだけれど…
 ところで、畏友、星新一に対する私のただひとつの不満は、その作品のつねにわかりよすぎるところにある。それが、こんな感想を、私に書かしたらしい。