埼玉エスペラント会主催 日本エスペラント百周年記念事業


尊敬して、親愛なる各位の聴衆達、皆さん、こんにちは!


私は栗栖継です、さっきすでに紹介されました。私はすでに93歳になって、1910年7月に生まれたため、日本の年号にすると明治43年の7月です。あなた達の中のたくさんの人にとって、こんなに大きい年齢のような人は、まったく生きた化石のようでしょう。幸運に恵まれて、私は生活するのがずいぶん良いだけではなくて、甚だしきに至ってはまた、元気いっぱいに文章を書いて、翻訳ができて、また講演することができます。私は信じて、私はなぜこのようになることができるのか、たくさんの人が言うようにではなくて、神の加護によったのです。私は信じて、主にエスペラント語によったのです。私の講演を聞くと、私はあなた達が、そのことを、分かると思っています。


今日私は、とてもうれしくエスペラント語を使います、各位、《私はどうして終始一貫して、まだエスペラント者にならなければならないか》このように1つの話題に向って、講演を行います。
私は1930年に、私が約20歳の時、エスペラント語を学びます。エスペラント語は極めて大きく私の生活を豊かにして、それは物質の上ではなくて、精神の上です。私は、私は93歳の高齢の時に、またなぜ講演を行うことができるのか、まさにエスペラント語のおかげと、甚だしきに至っては思い切って、このように思います。


1997年に、私はかつて、ブラジルの出版のエスペラント語の文学の刊行物《源》の上で、1篇の文章を発表したことがあって、テーマは《私はどうして、および、どのようにエスペラント者になったか》です。ブラジルは全世界の中で、エスペラント語の運動の比較的に発達している国家の1つです。(ついでに1つ言います、私達の日本もこのような1つの国家です、あなた達の仲間の一部の人がこれに対して驚くことと感じることができ(ありえ)るかも知れません。)私のあの文章の見出しの言う、とてもの明確にすること:どうして、どのように1つのエスペラント語になります。同類の会議の宣言の定義を配置しますによって、エスペラント語エスペラント語をわかって運用する人。同類を配置するのはフランスのブローニュで、1905年同類を配置して第1期の国際エスペラント語大会を開いて、関連エスペラント語の運動の宣言を通しました。


しかし、私は今日の聴衆の中で感じて、決してエスペラント語を知っていないある人たちがあるかもしれなくて、あるいはエスペラント語に対して理解するのがまだ足りないで十分です。そのため私はまずこの点を1つの簡単で短い紹介に行うつもりです。エスペラント語Esperantoは名前を名前をザメンホフZamenhofというユダヤ系の眼科の医者の創造で、彼はポーランドの首都ワルシャワに住んでいて、あの時またツアーのロシアの統治のもとに。
1887年ザメンホフは《国際言葉》(ロシア語の見出しです、エスペラント語の最初の教科書がロシア語の発表を使ったためで)でエスペラント語を発表しました。しかしあの時いくつかの別の国際言葉方案がまだあって、このようにあるいは似ている名前をも叫んで、ある程度区別するため、1番早いエスペラント語者達はそれをEsperantoと呼んで、これはザメンホフエスペランを発表する時使った筆名です。それから今日まで、エスペラント語はだから有名です:Esperanto,あるいはEsperanto言葉。


ザメンホフエスペラント語を創造する時、彼は信じます:世界の各国の人民はすべてもし1種の学びやすい共同用語を使うようになるならば、彼らは互いにとても良く理解をつなぐことができて、人類はすぐ永久の平和を有することができます。これは1種のあまりにも簡単な理想で、歴史が証明したため、1つの共同用語に頼って(寄りかかって)国際間の誤解と戦争を取り除くことがあり得ないだけです。しかし矛盾した論理のように、ザメンホフはまさにこのの1種に対してかたく信じますのから、彼はついにみごとにEsperantoを創造して、世界のいかなる言語に比べて、すべていっそう学びやすくて、これはすべての人類に極めて大きい利益を持ってくることができ(ありえ)ます。


前に言及したことがあるブローニュ会議の宣言、またわざわざ補充します:いかなる目的に用いることができます。これは言うまでもないので、エスペラント語も言語で、その他の言語と同じです。しかし、エスペラント語にはあります、1つの特徴です、その他の言語がないのです。その他のこれらの言語のため、すべてたくさんの人がとても長い歴史の時期に中で自発的に創造するようなので。エスペラント語ザメンホフの一人からです、意識的に、先天的で明確な目的を持ちます:人類のために1種の共同用語を創造して、各民族の人民を互いにすべてとても良く理解をつなぐことができるのがすべてできさせて、それによって世界で永久の平和を実現しています。この目標はただ1つです。エスペラント語にその他とこれらの言語が区別させます。


ザメンホフは、彼の創造した言語、1種の理想があって、そこで“エスペラント語の内在する理想”と称しますと思っています。ある人は賛成しないで、(今やはりある人がこのように断言します)がエスペラント語のただ1つの言語を言うと断言して、その他のどんなものではありません。例えばルイ・ド・ボーフロンはこのように言います。ルイ・ド・ボーフロンは、自分で1種の新しい言語をも創造して、名前を“イド改造案”と言って、エスペラント語ときわめて似ています。しかしこの”イド改造案”は今ほとんど存在しないで、しかしエスペラント語は生存だけではありません。今なお、また全世界たくさんの人に実際に運用されています。これはどうしてですか? 私個人は、エスペラント語が内在する理想があるためで、”イド改造案”はありませんと思っています。最初のエスペラント語者がまだいて、名前を蘭提と言って、彼は最初のkomunistoで、しかしエスペラント語はそれから彼がまたもうkomunistoでないため。彼は1921年に1つの全世界の労働者のエスペラント語の組織(SAT、全世界が民族の協会がありません)を創立することを始めて、その時彼、エスペラント語は1種の革命の性質がありますとも言いました。


私自身は初めは学んでしかもそれからエスペラント語をマスターして、まさに蘭が持ってエスペラント語が革命の性質を持つことを公言するため、私はその時これに対してまた何も知らないけれども。1930年の夏、私はまだ20歳にならないで、肺結核をわずらって、しかしプロレタリアの地位で銭治病ができないため、1人の無料の患者の身分で神戸の結核症の療養所の中で住んでいます。その時のたくさんの進歩的な青年と同じに、私はkomunista運動に対して非常に同情します。これに加えてその時日本でもとても流行っているプロレタリア文学作品の影響を受けて、言うところによればkomunista運動の運ぶ目標は貧困を取り除いてその上全体の人民のために自由と平等な社会を実現するのです。


青春の情熱があって私がたいへんそれに参加したいです。しかしどのようにしますか? 私は患って不治の病の肺病ですと見なされます。あの時komunista運動は日本で不法でした。すぐとても自然にその成員を求めて、強靱な意志があるだけではなくて、まだ壮健な体格と精力がなくてはならなくて、それによって特に高い試練に耐えていったん逮捕されてある残虐な体刑について拷問したら。特に高い試練は日本の特攻警察で、残虐で悪名高いです。どのようにしますか? 私は昼夜精神の上の苦しみを受けています。だからあなた達は想像できやすいでしょう。左翼的で、しかし合法的な出版の月刊《戦旗》8月号に、私になって、私の長い間待ち望んだ文章の“プロレタリアとエスペラント”を(へ)読む時、ほとんど喜んで跳び始めます! この見出しは私に対してなんと吸引力があるのです! 私がずっと自分がプロレタリアだと感じているためです! そこで私はほとんど一気にそれを読み終わったのです。


この文章の作者は署名してNisitになりますか? Naomiti(西東なおみち)、明らかにあるCLAS(2,3)の傑出しているkomunistaエスペラント語者の筆名は(事後にやはり,は作者は決して他ならぬ、日本のプロのエスペラント語の運動の最も優秀な指導者の1人の中垣虎児郎なことを知るのです。彼は文の中で漏らして、プロレタリアのエスペラント語の運動は日本でも興って、つい最近ちょうどプロレタリアのエスペラント語協会(Proleta Esperanto-Asocio、PEA)を創立して、ほどなくまだ6巻の本の《プロレタリア・エスペラント語講座》を出版しなければなりません。これは特に私のこのようなプロレタリアのようなものにとって、なんと喜ばせるニュースです! これが意味するため、もし私はエスペラント語をマスターするならば、私は参加してプロレタリアのエスペラント語の運動の行列の中で来ることができて、それはおそらくkomunista運動の1翼です。つまり、たとえ私の体はあまり丈夫でないとしても、合法的でないkomunistaにも参加して運動することができました。


残念なのは、《プロレタリア・エスペラント語講座》は私が待ち望んだように、できるだけ早くべつに出版されません。そこで私はその他に1冊の普及版の《模範エスペラント独習》を買いました。幸運で、この普及版のあの時の定価はとても安くて、1円の(それの以前のバージョンの定価が2円です)だけあって、こうなると、私はすぐ買えました。私は東京の1家の小さいおもちゃの工場で普遍的な仕事の時にため自分をプロレタリアと呼びますけれども、ずっと私まで(へ)肺病を害している時、私は旧制中学(高校)の中でただ5年の英語の本だけを読んだことがあります。私は1時(点)の英語を学んだことがあって、程度は世界の名著ドストエフスキー罪と罰》の英語の訳本を読むことができるくらい。それ以外に、私はまた3年制の大阪外語で3ヶ月、学んだことがあって、そこでフランス語の基礎知識を学んでいました。こうなると、エスペラント語を学んで、私にとって、もしほらを吹くのではありませんならば、日本の諺によると次のようです:朝飯前。ほらを吹くのもではありませんで、私はただ一週間だけを使って、入学してエスペラント語の基礎ができました。続く事、1のこの世の日照らし合わせる双語の読み物を読み終わって、私はそれによって生きている日の辞書の助けるのがおりることができて、直接全体のエスペラント語の冊子を読みます。


それから私はエスペラント語と外国人でもう通信することができるようになりました。あれは1つの名前をLembergskijと言うロシアの労働者です。彼の住所は私はあの《プロレタリアとエスペラント》の文章の終わりから探し当てたのです。


多くない時間を過ぎて彼の返事を受け取って、革命的ロマン主義を満たしました。彼は手紙の中で自分が日本Kominternoの中の代表の片山潜(KATAYAMA Sen)の弟子だと語っています。これは私の受け取った最初の外国の郵便物で、もちろん私に喜んで非常をさせる。あの時から、エスペラント語で国際通信を行うのは、私の最も強い趣味になって、ずっと今日まで。


私のそこでエスペラント者になった者、私がすでにkomunistoだったためです。どんなに珍しい事は:同じくエスペラント語の助けていることため、私と前に言及したのLantiは似て、それからもうkomunistoでなくて、これは戦後の事ですけれども。承諾して、事はこのように発展したのです。


戦前、私は主にソ連エスペラント語者と通信です。そこで、戦後に私は試みて再び彼らと通信して、しかしできません。これは、どうしてですか? 私を大いにびっくりさせます。ただ数年後で私達はやっと知って、1937年〜1938年間に、スターリンソ連エスペラント語の運動の中の、すべての幹部と積極分子を逮捕しました。こうなると、ソ連の世の盛衰が消えてなくなるのがほぼ尽きようとして、以前は1度世界で最も活発にさせる地区だけれども。これはまたどうしてですか? 少しも疑問がないのは、スターリンソ連の不利なニュースが国外に伝わることを恐れて、彼はその独裁者です。彼は同様に同じく、エスペラント語の国際通信して、彼の所は耳にするニュースが国外からソ連国内に入って来ることを望みません。しかしどうして特にエスペラント語の通信を防ぎますか? なぜかというと、たとえ小学校の文化の程度の労働者にとってですとしても、エスペラント語は最も容易な学習の言語です。


ソ連エスペラント語者と通信することができない後に、しようがない下、私はその他の国家のエスペラント語者と通信するほかありません。私の外国の友達を信じる中で、最初にハンガリーの子孫の米国のエスペラント語者がいて、名前を“(Bonesper)に眺めることができます”と言って、これは明らかに2つのエスペラント語の語根の“bonaがすきです”と“esperoを望みます”の合成の来る筆名からです。彼はなぜひとつを使ってこのように望みがあるエスペラント語の名前を抱くのか、見たところやはりいつかは米国から祖国ハンガリーに戻っていくことができることを望みます。その年、彼も行為の1つの政治の亡命者の身分でこっそりと米国に来たのです。周知のように、1919年ハンガリーでかつてkomunista革命が発生したことがあって、しかし失敗して、1917年のロシアの革命と、結局異なっています。


私はまた《ソビエトハンガリーの133日》1本の出版の賛助者の名簿の中で読んで彼の名前に着きました。《133日》はモスクワでの“革命的エスペラント語図書出版協同組合”のEKRELO(Eldon-Kooperativo por Revolucia Esperanto-Literaturo)から出版したのです。あります、もし私は間違えるならば、私はまたかつて本部がベルリンの“プロレタリアのエスペラント語者の国際”のIPE(Internacio de Proletkaj Esperantistaro)の機関誌《インターナショナリズム者》に設置する上に、 1枚のニューヨークの労働者のエスペラント語のグループの写真を見たことがあって、彼はこのグループの指導者です。私はすぐとても自然に彼も、その上今それともkomunistaエスペラント語者を信じます。私は自分の手紙の中でそこで大胆に彼にそれともできるだけハンガリーを帰りにいく方がよいように提案して、直接ハンガリーKPの指導する社会主義の再建から参加します。私のこの無邪気で、誠意があって、まじめな考え、日本の刊行物の中でから得たのです。


突き出して、私に言わせるようにしましょう、彼の返事は私になんとびっくりすることがあらせて、甚だしきに至っては驚かせることと言えます。[......]私の驚かせることはこのような大きさで、その結果しばらくの時間は彼に返事を出すことができません。


しかし彼の返事の調子はそんなに厳粛で、その結果私は、正しいのは彼で、私ではありませんとついに承認しないわけにはいきません。彼が、私がチェコスロバキアに対して特に興味を持つことを知ったため、彼はまた私に1通と彼の通信の若いスロバキアエスペラント語者の郵便物を郵送しました。この郵便物の内容は同様に私を驚かせさせて、手紙の中で言うためです:チェコスロバキアの一部のスロバキアとして、1938年3月14日に“独立”、1つの“スロバキア国”を創立しました。実際にはそれはただナチスのドイツの1つの衛星国だけのことができることで、満州国が日本帝国の随従者の様子です。しかしチェコスロバキアスロバキアのこの部分、まずソ連軍に解放されて、ソ連で境界内の構成するチェコスロバキアの部隊もチェコを解放する戦闘に参加しますけれども。Bonesper(眺めることができます)のこちらの友達の東のスロバキアに住んでいる州(区)都Kosice市。


解放後間もない一日、彼はソ連軍の命令によって市街区広場まで(へ)集まります。最初は彼はまた広場を整理して掃除するためだと思って、しかしそれからやっと知っていて、彼および彼が遭遇するような市民達、すべて護送されて列車に行って、ソ連の有名な石炭の鉱山区に送り届けられて、つまりドン川流域のドンバス、彼らはそこにしかたなくして奴隷のように働きます。しかしどのくらい過ぎないで、彼は逃走を決心して、しかも本当にみごとに炭鉱を逃げました。昼間彼は森林の中で身を隠して、晩に天上の星とヒマワリに頼って(寄りかかって)方向は、スロバキアにずっと奔走することを見分けます。このようにして、困難な長い道のりを経て、彼はついに故郷Kosxiceに帰りました。幸いなことにこのために彼を追及しにくるいかなる人がいなくて、恐らくこのような事スロバキアで、特に東部とソ連で境を接する地区、多く日常茶飯事のようですまで(へ)。


この事は私に、ソ連に対してまた持っている幻想の中から解脱してくるように助けます。長い間、私はずっとソ連が全世界のsocialista運動の祖国なことを信じています。しかし、もしそれは本当にそのようならば、どうしてそれの解放する国家の公民を苦役労働者として、炭鉱の中で石炭を掘ることに捕えていきますか? この事がそれからまた、私に全体から上がってくるように助けて、ソ連軍がチェコスロバキアを解放するのが結局どんな1つの事ですかとはっきり見分けます。このような解放は実際にはチェコスロバキアをただ、植民地化に奴隷のように酷使するだけです。このような状況はずっと1989年まで続いて、やっとついに民主主義革命によって解放します。1968年のチェコで交際するソ連のコントロールのもとで自分を解放したいけれども、しかし、周知のように、ソ連をはじめとするワルシャワ条約の5国で軍事の力で抑えられて押さえつけた。


しかしこれは後の話になった。今私達をそれとも私とBonesper(眺めることができます)のエスペラント語に帰って通信してこさせます。彼は私も英語をわかることを知っていて、時々私にいくつか“ニューヨーク・タイムズ”の新聞の切り抜きを送ってきて、内容は、関連ソ連と勢力圏(チェコスロバキアを含みます)の内のニュースです。これも私にもっと良く、これらの国家の真実な情況を理解するように助けます。


このようにして、チェコの文化部が、1959年私のプラハに行くKarelka勒爾の大学(この大学がチェコ東京大学のようで日本にになりますそんなに有名です)に日本語の講師を行うように招待する時、私はチェコスロバキアの真実な情況に対してすでにはっきりわかり心で。しかしチェコの文化部はどうしても、私を選んでこの任務を完成しますか? 端的に言って、このようなです。


これもエスペラント語と関係があります。戦後私も最初の中国のエスペラント語者の、張閎凡と通信して、彼はhong凡を吹聴します。私は第手紙の中で私が翻訳する1篇の徳永直の小説《馬》に試みて彼に郵送しました。徳永はずっと労働者の出身komunista作家です。hong凡同時にスロバキアの1人のジャーナリストとImrich Zalupsky通信。Zalupskyはスロバキアの1家の日刊新聞《フドゥルムル》の編集で、彼は常にエスペラント語の資料をこの新聞に用います。hong凡は私を世彼のタイプライターを打った《馬》から回転してZalupskyを郵送したことに訳します。私のこの訳文は大いに彼の歓迎を受けます。この小説が生き生きと日本の労働者の日常生活を描写したため、これはスロバキアでほとんど完全によく知りません。


彼はそこですぐこの小説を訳してスロバキア語になって、しかも発表は《フドゥルムル》の上にあります。同時に彼によってhong凡の得る私の住所から私に手紙を書いて、私に引き続き彼に類似する私の翻訳する短編小説を送ってもらって、それによって彼は発表を訳してスロバキアの文在《フドゥルムル》の上でになります。これはまさに、私はその時非常に喜んでいました。諺によると日本語を使って、“渡りに船”です。日本の文学作品をエスペラント語に訳して、それによって国外の読者に知っていさせて、日本の勤労大衆はどのように生活して戦ったのです。


それ以外に、これも私の戦前の活動の継続です。あの時、特高警察にひどい拷問で残酷に死ぬまでkomunista作家の、小林多喜二の最も主要な作品《蟹工船》を迫害します。私はこの作品を翻訳して、前に言ったことがあったのがモスクワのEKRELO(革命的エスペラント出版協同組合)に位置して完成を予約しますによってです。


残念なのは、スターリンが1937〜1938年間ソ連エスペラント語運動を、すでに根源を徹底的に断って粉砕します、ほぼ尽きようとするため、EKRELO(革命的エスペラント出版協同組合)も運命的な災難は免れられないで、同様に消えてなくなりました。私の世《蟹工船》を訳してすぐ出版することができなかった。それ以外に、私自身も1937年5月19日に日本の特攻計画の特に高い授業のに遭って逮捕されてしかもずっと1939年まで2月9日を拘禁されています。更に後で、戦争はすべてを禁止しました。


私はそこでZタlupskyの願望に基づいて、また世何編訳して《フドゥルムル》の発表する日本の短編小説で適します。それらは:民主的社会主義の作家の葉山嘉樹《セメント樽の中からの手紙》、komunista作家の藤森成吉の《拍手しない男》、komunista作家の中野重治の《春さきの風》と《菊の花》。《馬》およびの前で述べたことがある3,4編の小説はまたエスペラント語の訳文の形式でブダペストの出版の有名な《文学の世界》の刊行物の上で発表します。これも意味して、50年代の初めに、私はエスペラント語の翻訳家の身分で舞台に立って見得を切ました。


Zタlupsky 私のエスペラント語の訳文は“蟹工船”ですからも訳してスロバキア語になって、そして1951年にその時の中心の都市、今(1993年の独立)のスロバキア首都でBratislavo出版。こうなると、私のあの不幸の《蟹工船》の世の翻訳原稿、それは少なくともチェコ語の訳本に対して役立ったので、1951年にBratislavoで出版しました。《蟹工船》は小林多喜二の代表的作品なだけではなくて、同時に日本のプロレタリア文学、更には全体の戦前の日本の文学の代表的作品です。


蟹工船》のスロバキア語の訳本は、直接日本語の原文から訳すのではありませんけれども、エスペラント語の訳本から翻訳するのです。しかし、客観的に少し評論して、それはところがこの本のすべてのその他の外国語の訳本の中で最も良くて、幸いに官のいかなるを検閲することを受けていないで削除して簡潔にするためです。戦前の日本になって、このような検閲は野蛮な程度を達成しました。その他のすべての外国語の訳本は、含んで直接日本語の原文のチェコ語の訳本から訳して、すべて厳格に検閲したことがある日本語の当翻訳のによってです。


私に応えるため、Zタlupsky チェコkomunista作家Jan Drdaの小説が《声なきバリケード》に集まる中から世3冊の小説を訳して私に郵送します。この小説が描写のに集まるのは1938年3月15日のナチスのドイツからチェコの後で普通のチェコの平民の行った各種の抵抗を占領するのです。私はこの3編から当選して2編訳しました。すぐ《高遠なる徳義》と《ダイナマイトの番人》、しかも《新しい日本の文学》月刊の上で発表しました。その他に1篇、すぐ《声なきバリケード》、発表は《人間》月刊の上にあります。しかし8編の小説がまだあって、訳していないでエスペラント語になります。この時のため冷戦は激化させて、Zタlupskyは予備役の将校・士官として召集されて軍隊に入りました。


どのようにしますか? 考慮の(以)後で私は直接手紙を書いてチェコスロバキアの文化部に助けを求めて、彼らの1位の有能なチェコエスペラント語を探すことができる者がこの8編の小説を来て世訳すことを望んで、それによって私は《声なきバリケード》全書の翻訳の一日中言葉そしてを集結して出版することができて、それによって身は米軍が占領するもとの日本国民につきあって学んで、戦時ナチスの占領軍と闘争のチェコの人民の経験を行います。


幸い文化部は私に対してたいへん配慮します。彼らはこの任務をMilos Lukタsに手渡して、これはエスペラント語が大家を訳すのです。こうなると、私の日訳本は1959年に青銅社で出版します。青銅社はその時1家の有名な出版社で、特にそれが日本を描写する東北の1つの山村の中学(高校)の事柄を叙述(生活綴り方)する文学作品を出版して《山びこ学校》に集まりますため、それからこの本はまたなった映画を撮影されます。


komunista作家Julius Fucxネkの1巻の当文集も出版します。作者Julius Fucxネkは1943年にベルリンでナチスに殺害されて、その時私はまだチェコ語がわかりませんでした。私が戦前に英語とロシア語を独学したことがあるため、これらの作品は私はすべて英、ロシア語から翻訳したのです。しかしすでに出版する2冊の私の訳したチェコの文学作品があったため、他の人はすぐ私をチェコ文学の専門家にしました。もちろん私はこれに対して恥じ入ることと感じて、そこで私がチェコの文化部で私の1冊に英語の解説するチェコ語で教科書を独学することをプレゼントしてチェコ語を学ぶことを始めます。私はこのようなの方式学び終わったチェコ語の基礎知識を使います。


ちょうど1956年にになって、岩波書店の少年文庫は私に彼らのために日1冊のチェコの有名な女流作家Boを訳してもらいますか?ena Nナmcovタの書く小説《おばあさん》。彼らも私をチェコの文学の専門家を訳すことに思うため、それに、《おばあさん》この本、同じくもっぱら児童のために決して書くのではなくて、ただ岩波書店の提供したこのバージョンだけ、プラハの1家の児童の出版社の出版ので、彼らはすぐ誤ってこれが1冊の児童の読み物だと思っています。これを越えないのも重要ではありませんて、チェコが使いますのは表音文字なため、彼らの小学校の高学年の学生が読み始めるのもあまり困難ではありません。


私は、その時まだチェコ語の初心者、私にとって、《おばあさん》この本は難しい翻訳です。しかし、幸運すぎます!少し前になって、私はチェコから通信する友達のそこはこの本のエスペラント語バージョンを得て、このように、私はこのエスペラント語の訳本に助けを借りて訳すことができました。しかし私はべつに怠ける方法を選びません:エスペラント語によって日本語訳して、それからぬけぬけと直接チェコの原文から訳出したのだと公言します。まず私の良心が許さないので、その次に、私はかたく信じて、訳す助けのもとで生きていて、直接チェコの原文から日本語化して訳して、私に徹底的にチェコ語をマスターすることができ(ありえ)ます。私はあごの関節を締めてこのようにしたことをかみます。


おかげこのような1回の努力、私は日本語に《おばあさん》を訳し終わるだけではなくて、その上も本当にチェコ語をマスターしました。このようにして、私はついに最初の専門家級の本当のチェコの文学の翻訳家になります。人々は通常いつも災いは重なるものと言います。しかし私の立場は福が一方通行しないのです。1959年に私がチェコの文化部の招待を受け取ったため、私のプラハに行くKarelka勒爾の大学(この大学がチェコ東京大学のようで日本にになりますそんなに有名です)に日本語の講師を行わせて、教授の日本語。私は、これはきっと私が直接チェコの原文から日本語に《おばあさん》を訳してしかも有名な岩波書店で出版することができます、関係がありますと思っています。《おばあさん》この本のチェコでの地位は、経典の名著で、津々浦々に知れ渡っています。


私はもちろんとても楽しくこの招待を受け入れて、私はすでにチェコがそれの吹聴したあのようなsocialisma国家ではありませんことを知っていますけれども。しかし私は、現場に行ってよく理解することに値しますと思っています。真実な情況を理解することができるだけではなくて、現場で更に観察することができるのはそこの人々でどのようにチェコ語を言ったので、彼らはどのように食事をして、どのように居住して、どのようですかの生活、どのような思想。このすべて、私について1つのチェコの文学の専門家になるだけではなくて、その上1つの全方位のチェコ通になって、すべてとても必要があります。


同じく本当に私が期待するように、私がチェコで2年ぼうっとした時に、1961年夏季に帰国する時、私はチェコの文学に対してすでに十分な理解があって、その上チェコと全体の国家に対して、甚だしきに至ってはsocialismo問題に対して、すべて深い認識がもあります。


私のチェコが帰国する後からの最初の仕事、筑摩書房のヨルダンに応じて日1冊の分厚い書物の世界の名著、Jaroslav Hasナkの書く《兵士シュベイクの冒険》を訳すので、その日本語の名前は《兵士シュヴェイクの冒険》です。もちろん直接日本語の原文からです。初めは2巻の本の形式で出版しました。しかしそれから有名な岩波文庫に入る時、4巻の本になりました。その内容が小説の自身があるだけではないため、私はまたHasナk自分で書いた多くの“シュヴェイク”と関係がある文章をプラスして、Josef Ladaの文章《私がどのように兵士シュベイクの冒険のために挿し絵を行うのです》がまだあります。


Josef Ladaはチェコの1人の画家で、彼のは世界の名声を得て、主に彼が「兵士シュベイクの冒険」のために行った挿し絵のためです。もし彼のこれらの新しい工夫をこらして、独自の風格を備えた挿し絵がないならば、人々がシュヴェイクを想像しにくいのはどのようですかの一人です。チェコ版の《兵士シュベイクの冒険》が収めて彼の156枚の挿し絵があって、しかし私はその他に1冊の《Josef Lada挿し絵の集》の中からまた20枚選びました。こうなると、全部で176枚の挿し絵があります


このようにして、私は専門の翻訳家になって、特にチェコの文学の翻訳家に従事して、その上、日本で最初です。私は信じて、これはエスペラント語が私にこのような可能性をあげたのです。なぜかというと、もし私はエスペラント語を学ぶならば、私は中国の張hong凡の通信に立ち合いません。もし張hong凡とすぐチェコZタlupskと通信しませんならば、私通信、すぐ永遠にチェコの文学の訳す専門家になることがあり得ません。人々はいつもよく言います:歴史の中は”もしも”が存在しません。しかし私の経験によって、私は大胆に相反する断言を行って、つまり歴史の中に“もしも”が存在します。私はどのように今このようにする1種の人になることができますか? 戦前私が中学(高校)の程度まで(へ)ただ読むだけであることを知っていなければならなくて、外国語の専科学校のリードオンリー1つの学期にあります。私のこのようにする1つの中等の文化の程度の日本人、のに頼って(寄りかかって)完全に私の優位は、エスペラント語です。この方面は私はあなた達にその他に更に1つのストーリを言うことができます。


私は前でかつて言ったことがあって、1952年私の翻訳の1巻の本Julius Fucxik文集を出版しました。その中にもちろんすぐ彼の最も主要なあの作品《絞首台からのレポート》があります。私はその時まだチェコ語をわからないで、私はニューヨークで出た英語のテキストによって翻訳したのです。それから私がチェコ語を独学して進歩があって、まで(へ)チェコの原文の程度を読むことができます。そこで私は英語の訳本とチェコ語版をもとに比較して、1件の奇怪な事を発見しました:チェコのもとは少なくなった何行の文字。この何は行って、ナチスのドイツの秘密の警官のゲシュタポ代理人、彼の1つのチェコの警官を監視するのであるようでしょう、彼の半分の吸い殻に投げて、彼は拾のためにこの半分の吸い殻を拾わないで、しばらくの間決心がつきませんでした。私の見方によって、これは全書の中で書くのが最もすばらしくて最も人を感動させる地方の1つです。しかし、どうしてチェコバージョンの中になくて、英語の訳本の中にかえってありますか?これは本当に1つのとても大きい疑念です!


この疑念は急速に解読しました。私がまたプラハのすぐ1960年のあるに一日になる時に、私は1家の古本屋の中から洗って1945年の《レポート》に着きました 第一個のチェコバージョン。そこに確かに行くこの何があります。しかし、どうしてZタlupskyが私の1948年にチェコを第7版《レポート》をプレゼントする中で、この何の同業組合は消えてなくなりましたか?これはまた1つの新しい疑念です!


今回、この疑念のを解決して、まだ《レポート》のエスペラント語の訳本です。事はこのようなです。1951年たくさんの種のテキストの《レポート》を出版する時、チェコの古いエスペラント語者Rudolf Hromadaの訳したエスペラント語の訳本から出版します。最後の1分にになることができて、その印刷の清刷りさえすでに完成した時、その時のチェコK政府は出版したことを許しません。どうしてか?この本の作者を知っていなければならなくて、ナチスのドイツが占領する時の不法なチェコスロバキアKP中央委員会の委員、komunista記者、作家で、彼の本、意外にもまさにすばしこいK政府から出版を許さないにきて、これはあまりにおかしいと思うのではないだろうかですか?


しかし事は確かにこの点のです。こんなにでたらめな事、本当に世界の名著Franz Kafka(カフカ)の《黄金のロバ》と比較することができます。小説《黄金のロバ》の主役Kはある一日1群の見慣れない人で捕まえていって、不明な原因で犬が殺してしまったこととします。私はこれが偶然の偶然の合致ではありませんと感じるようです。Kafkaと Fucik同様に、すべてプラハ生まれです。でも今回の原因はとても明確です:ただ《報告》を訳す言語に用いるのがエスペラント語なだけためです!


以前私はすでにあなた達に対して言ったことがあって、スターリンは戦前にソ連エスペラント語を運動してすでに徹底的にきれいに消滅させました。すばしこいK政府はただこのような方法を見習うだけです。これもその他に1つの証拠と見なすことができて、1948年pucxoに頼って(寄りかかって)政権のチェコK政府を奪い取ると証明するのはただソ連の衛星国だけです。


不幸の中のなによりの幸せさは、チェコその他に1位の年を取ったエスペラント語者Ota Ginz(かつて《おばあさん》のエスペラント語の訳本を私に贈呈しました)、今度はイスラエルから私にこのエスペラント語版の《レポート》を送ってきました。Ota Ginzはユダヤ人の身分で移住してイスラエルに着きました。彼がまたプラハにになる時、彼は《レポート》エスペラント語版の出版に責任を負います。最後の1分の当局がこの本を出版することを譲らない時、彼は清刷りを製本して本になって、移住者の時イスラエルに連れて(持って)きていきました。


つまり、彼のとても明らかな私が合うのは英語の訳本の翻訳する《レポート》によって満足しなかったので、彼も私がチェコ語をマスターしたことを知っていて、チェコ語の原文から直接《レポート》を訳すことを願います。彼はとても喜んでいこの世の翻訳原稿を私に貸して、それによって私はある程度助けます。でもこの世翻訳原稿がそれから私に対してチェコ語から世訳す助けを行うのがあまりに大きいとは言えなくて、この時私がすでにチェコ語に精通したためです。しかしそれはその他に1時(点)の上にやはり私を助けて、すぐ私にはっきりさせて、チェコ版の《レポート》は第数(何)版から原著に対して削除して簡潔にする類の歪曲を行ったのです。


1960年、私がまたプラハにになる時、私の手元が全部のチェコ版と外国語版《レポート》の明細書を持つため、私はチェコの第25版の中から知って、1945年の第1版と1948年の第7版中で、また1946年の第2版を出版したことがあって、1947年の第3、4,5版および1948年の第6版。また1961年の発表するJulius Fucxikの未亡人Gusta Fucikova夫人の《追憶Julius Fucxik》の1文によると、私は知って、《レポート》原稿の第91ページはかつてしばらくなくしたことがあって、だから1番早い2つのチェコバージョンの中でこの文字に不足したのです。幸いなことにこのなくす1ページ、1946年春にまた探してきました。このように、第3版からすべてGustaのこのために行った注釈を足しました。


エスペラント語の訳本の中で、このページに不足するだけではなくて、その吸い殻のストーリがもなくなった。これで意味して、このだけではないのがチェコの第2版によって訳したので、同じく意味して、彼らは第2版から初め用の削除して簡潔にする手段は《レポート》を歪曲しにきました。その時私はまだこの第2の版がなくて、しかし私が方法を講じてそれを手に入れました時後から来て、すべてすべて証拠が確かで動かすことができませんでした。


でもその時私はまだ知らないで、《レポート》の歪曲に対して1946年の第2版が1946年の第1版すでにからでから決してではありません。この点、私はずっとチェコスロバキアまで待って民主主義革命が発生してその後やっと知ります。1994〜1995年の時に、相前後して多くの種を出して官の削除して簡潔にする足の本を検査されていません。でもこれも後の話です。


あなた達はすでに知っていて、同じくおかげエスペラント語の、エスペラント語に助けを借りて、私はチェコの文学の翻訳家になりました。[......]


私に更にその他に1つの例を挙げさせます。あなた達の中はある人は知っているかも知れなくて、小説《山椒魚戦争》はKarel Capekの代表的作品です。Karel Capekは別の1位の世界の有名なチェコの作家で、その上“ロボット”、この単語の発明者です。私もチェコの原文から日本語に、この小説を訳したのです。Karel Capekは1958年の出版する5巻の本の文集がひとつあって、私はその中の1巻の日からこの小説を訳しました。私は断言することができて、すべての比較的に早いチェコバージョンおよびそれからソ連で出版する各種のロシア語の訳本の中で、それでは1段すべて少なくなって、すぐMolokovの発行した“Kominternoが全世界を送って圧迫の山椒魚の宣言を受けます”、その上また山椒魚が反対の人類の戦争を始めたため不足して、ロシアさえ洪水の戦術の中で埋没(溺れ)させられました。これはどうしてです?


私はこのようにする推理のです:その一として、いわゆるKominternoは全世界を送って圧迫の山椒魚の宣言を受けて、その時Kominternoが全世界を送って抑圧者の宣言の劇を受けて版を言うのです;その2として、更に非常に者がいて、この宣言を言うのはMolokovから発行するので、これはまねてスターリンの片腕Molotovの発行しにくる劇から言うのです。付け加えて1つ言って、Molokovこの名前は結んでチェコ語の中のmlok(山椒の魚)の1語から進展変化して来ます。このようなブラックユーモア、その時ソ連の検閲の官達はもちろん理解してはいけないのでした。


上述の第2、1種の世界socialisma祖国の神聖なソ連の指導者に対する大きい尊敬されないことだとも思われます。1つのチェコの極めて悪い作家、意外にもあえて神聖なソ連に水に埋没(溺れ)させられて、たとえ小説を空想する中でですとしても、絶対に許すことができないのです! これより分かるのは彼らの度量はどんなに狭いことがあって、なんと人を許すことができません!


私はすでにあなた達に対して言ったことがあって、50年代の初めで、私はすでに1つのエスペラント語の翻訳家の身分で見得を切ました。私の何編の日本の小説の世《文学の世界》の上で発表を訳します。これはひとつがきわめて声望のエスペラント語の文学の刊行物があるのです。いかなる人の作品、オリジナルがあるいは翻訳なのなのに関わらず、この刊行物の上で発表することができて、それなら作家あるいは翻訳家(日本語を使います、です:声望をあげますと、が一躍有名になります)と見なされます。しかしとても残念に思って、いくつか原因は私が引き続き下りますのからことができません。原因は生計の問題です。私は努力する日は必ずチェコの文学作品を訳さなければなりません。この方面で私は成功して、すぐ1つのチェコの文学の専門の翻訳家ですと見なされます。


しかし私に満たさせません訳して。作家になって、特に1つのエスペラント語と日本語の双語の作家になって、私の長年夢にまで願う願望で、私でとても若い時、私がで世《蟹工船》を訳す時、私は夢想したこれがあります。私は神戸の人民の戦線のエスペラント語の刊行物《前進》雑誌の1935年2月号の上で、1篇の“エスペラント語の文学を自由に話します”をテーマとする日本語の文章を発表したことがあります。私は文章の中で双語の創作を使う必要があると思っています:は有り得るので、日本の公衆のために日本語の創作を使って、日本のため外の公衆はエスペラント語の創作を使います。私自身の情況で言って、私は自分がエスペラント語ですでに達成して日本語の同様なレベルを使うことに文章を書くと感じました。


とても長いしばらくの時間の中で、日本のエスペラント語界はまだ私の出したこの問題に応対するいかなる人がありません。ずっとその年《エスペラント語の文学》雑誌の10月号まで(へ)行って、やっと長谷川照子(彼女のエスペラント語の筆名が緑川英子です)の1篇の日本語の文章の“エスペラント語の文学の随想”を発表しました。彼女のこの文章はまた1つのエスペラント語のサブタイトルを付け加えました:“cxu nacilingve aux esperante?(なのが本国言葉でまだエスペラント語を使うのですか?)”


彼女の意見は大体このようなです:多くの日本人は日本語を使ってわりに良く自分を表現することができますが、残念なのは、ただ少しの日本人は同様で良いエスペラント語では表現しにくることができます。どのようにしますか? 私は強烈に推薦して、十分なエスペラント語の創作の日本人、できるだけエスペラント語をよく使って非日本の公衆のために文章を書く方がよいです。彼女が自分で彼女の主張したこのようのつけることでするのがとても良いです。その証明は彼女の1巻の当文集で、1982年北京で出版します。彼女は本人は1947年に中国で流産の手術の失敗をするのため悲劇性は亡くなって、享年はまだ35歳。


私の情況はまたどのようですか? 私は簡単に彼女の提案を受け入れることがあり得ません。私の視野の中でため、いつも日本の公衆を持っていて、国際公衆が全く同様でそのようにします。そこで私は双語の作家の道を選びました。実践の中で、私はまず1つのチェコの文学の日本語訳者を行います。もちろん私も日本語で大新聞社の招待によって、いくつかの関連チェコの文学と時事の政治の方面の短文に文章を書いて、時には匿名を使って、時には編集の願望によって私の名前を署名します。


しかし私は満たす、文章を書く欲求が得られないで絶えず蓄積して、火山の溶岩のように、いつでも噴出するつもりです。ついにある日、私は1篇のかなり長い文章の“エスペラント語がどのように私に《レポート》の謎を解読するように助けるのです”に書きました。1995年、私は国際に参加して世(それが全世界の世の盛衰センターです)の文芸の競技の中ので随筆大会に力を合わせます。その上、幸運にも第1位を得て、Minnaja賞を光栄にも獲得します。このように、私は85歳の高齢でついにエスペラント語の作家になりました。本当に遅くて、遅すぎて、違いますか? 私は自分があのようなの熟していることの遅くて遅い作家の列のに属するのだと感じて、おくてのイネのようです。


あの時から私は始まって絶えず随筆を発表して、大部分が紙面がかなり長くて、発表は世界で有名なエスペラント語の刊行物は例えばフランスの《Sennacieca Revuo》、《La Gazeto》とブラジルの《Fonto》の、上にあります。エスペラント語の刊行物は通常すべて原稿料を払いませんますけれども、原因はエスペラント語者とエスペラント語の読者の数がすべて少なすぎました。しかし私は決して気にかけません。私の文章が世界中で人に読まれることを知るため、このような感じは私の見積もることができないのが更には楽しみが楽しいですに持ちます。


私のたくさんのエスペラント語の文章は、今なお依然として書籍の形式で出版することができなかった。私の中国の友達、世界で有名なエスペラント語の作家の石成泰先生はこれに対して大いに思って悲しみ惜しんで、彼は、自費の方式で中国で私のエスペラント語の文集を出版することができるかどうか、600冊の計算によってため、100,000あります ([百万国柱は押します:この数字は]の)の日本円を照合して足りますとそこで私に提案しています。私は彼の提案にお礼を言います。なぜかというと、私は欧州人の話を使いますけれども、教会堂の中のネズミは貧しい、似ています。あるいは日本人の話でひどく貧乏な1族なので、1つの数はしかしこのように私はやはり方法を講じてほじり出すことができます。それ以外に、日本は非エスペラント語者の友達、ジャーナリストは名前をHNの先生と言って、聞くところによると私は中国で自分のエスペラント語の文集を出版して、このために20,000賛助することをも願います (2万)日本円、私と彼は今なおかつて一面識がもあったことがないけれども。本当に人を感動させるストーリ、いいですか?


このように私は100,000円、石成泰に郵送することができて、彼がこのお金を回転して内モンゴルエスペラント語協会を郵送します経費を出版しますのとして用いて、その上彼はまた“彼が飛ぶ凧を揚げます”をテーマとする後記を書きました。彼はこのようになぜ1つの見出しを使うのか、源の自己の1篇の文章の“エスペラント語の凧”、私のこの文章はかつてフランスの出版の1つの国際エスペラント語の隔月刊《高い声で》の上で発表しました。私はなぜこの見出しを使うのか、また伊東三郎の1篇の前書きの啓発を受けたのです。伊東三郎はI.を使いますU.のエスペラント語の筆名、かつて出版《プロレタリアのエスペラント語教程》を始めたことがあって、彼は自分の日本語の著作《日本エスペラント学事始》を出版します。この書名の私の意訳は《エスペラント語が日本の最初の何ページにになります》です。あなた達はみんなはきっと杉田玄白の著作《蘭学事始》は(エスペラント語を使う意訳が《オランダ語が日本の最初の何ページにになります》ですかを知っています。伊東三郎はこの本をまねて自分の著作を命名しました。彼の前書きはとても簡単で短くて、私はまずその日本語の全文を引用することができて、それから更に付け加えて私の翻訳します:


「この本を溌剌たる若きエスペランチストに捧げる。 
 エスペラント運動は要するに凧上げだ。部屋に閉じ篭っていては駄目だ。娑婆に出て、吹きつける強い風を真向に受けてつっぱしらなくてはならぬ。風が強ければ強いだけいい。吹きつける風の方向を見違えぬこと、これから身を引かず、これに正確に対置すること、これが必要だ。一筋の理論による指導の糸を確固として手に握り、風に応じて糸をぐんぐんのばしてゆくのだ。そうするとエスペラントの凧はひとりでに上がる。天まで上がる。
 この糸がこの本にかくしてある。そしてこの凧上げはエスペラント以外の世の中の諸問題にもあてはまる。」


しかし私は急いで決して私自身の文集を出版しなくて、私が1件の更に重要な事がまだあると感じるため、すぐ今年の夏北京国際エスペラント語大会が開催するべきな前に、できるだけ早くKarlo Stajnerの1を出版して元来《シベリア7千日》を大書します。Karlo Stajnerはオーストリアの子孫のクロアチアの作家で、彼のこの本は石成泰が中国語に訳すことになるのです。きっと商業性の出版社で出て、それによってこの本に全中国の本屋で販売を公にさせて、たくさんの中国人にこの一里塚式の著作まで(へ)読むことができます。作者はこの本の中で客観的にスターリンの統治のもとで自分のソ連の収容所の中の生活を描写しました。しかしこのように障害があって、すぐこの本の出版社を出版して訳者に本人が全部の出版の費用を負担するように求めることを承諾して、その定額は5,000です ドル。どうしてこんなに多い費用か? 1つはこの本の紙面の大きい(エスペラント語の訳本によって494ページあります)、2は出版社が政府にすべて費用の半分を出版して用いて書籍コード(つまり2,500ドル)を買うことを支払うのです。中国で、書籍コードの本がないのは公にして本屋で販売することができないのです。


どのようにしますか? すでに定年退職した石成泰先生にとって、いずれにしてもこのようにするたくさんの資金をもやりきれないのです。たとえ彼は今また出勤しますとしても、同じく成し遂げることがあり得ません。中国で、ただあれらが市場経済の金持ちになった人材を利用してこの経済の能力があります。私、1つの定年退職した日本の貧しい老人として、この能力がもありません。幸いなことに日中友好の通信協会(エスペラント語のがSJCxAKと略して書きます)のエスペラント語の分会がひとつあって、私が1979年に創立を始めたので、今日までまたその会長を担当しています。私の1位のプロの世の盛衰の戦友、亡き中等の孔の3人の先生、戦前はかつてプロのエスペラント語協会PEA日本の分会JPEUの積極分子で、それからまた日中友好の通信協会SJCxAKの成員で、その年、彼の寄付する200,000 日本円の中で、今、136,972あります 日本円は使用することができます。これは1筆の大体の数(運命)です。そこで私は、この良い金を使用することができるかどうか中国語版《シベリア7千日》の起動資金として用いますか? と思っています。そこで私はひとつ書いて意見書を求めて、エスペラント語の分会の全体の会員に郵送します。幸いなことに1人の反対がなくて、その上すべて私の動議に賛成します。私自身も15,000集まりました 日本円、それによって1つの整数になります。M.があります A女史、去年6月私を聞いて老年大学が学術講演をした後で私の助手に感動させて、なったことを受けます。この老年大学は私の居住した老人ホームの中で位置します。M. A女史も20,000賛助しました 日本円、総計にちょうど170,000の円に達させました。彼女は気前よく金を出して20,000賛助することができます 日本円、本当にとても称賛に値して、彼女は本人がエスペラント語者ではありませんためです!


私はそこで国際為替手形でこのお金を石成泰が郵送していったことになります。郵送する時両替はドル(お金を郵送して中国まで(へ)ドルであるしかありませんため)になって、その時の為替レートによって換算して1513になって、40 ドル、つまり総計の3分の1つ。この行動の鼓舞を受けて、私は1度の石成泰の運動を始めることを決定して、初めは日本で1つの石成泰の郵政のアカウントを創立して、続いて寄付を募集しますに、1つの石成泰の基金と同名の口座を設立しましたそれによって。


今に至って、私の大きくない知人の輪の中から一部の人は自分のお金を持って来て寄付して、総計に150,000を上回らせました 日本円。これらの賛助者の中で、位がいます Y H 先生、甚だしきに至っては自分の賃金の中から20,000賛助しました 日本円。彼は今私達の会場で着席して、拍手を頼んで彼になります。
S.T先生は日中友好の通信協会のエスペラント語の分会の会員で、彼は自分でちょうど受け取る年金の中から私の20,040の円に寄付します。どのようにこのように1つの半端なものを持つ数ですか? 彼が私の手紙の中にあげているいうように、彼は2004のこの数字の10倍を寄付したいので、2004この年にになるため、北京で国際エスペラント語大会を開きます。これも1件の人を感動させるストーリで、そうですか? 昨日に私は石成泰の手紙を受け取って、彼はとてもSuzuki Takao先生の慈善行為の感動させることを受けるのだと言います。私は彼にすべての賛助者を紹介しました。私は信じて、彼もきっとYAZIMA Hirosi先生が小遣い銭のこのような方式を賛助するために感動することができ(ありえ)ます。私が昨日すでにインターネットを使って彼にこの事の経過を教えたためです。あなた達もこの事を知っているのがどのように発生したのですかを願うかも知れません。それでは私は簡潔にちょっと言うようにしましょう。


今年正月、私はM女史の付き添うこともとで埼玉のエスペラント語協会の毎月の一回の例会に参加して、しかもエスペラント語を使って自己紹介を行って、埼玉大学の教授S先生から一日中言葉を訳します。その時1位の若い人がいて、ちょうど座って私で面と向かいます。彼もエスペラント語を使って少しの補充を行って、私の右のSasakiに座りますから同様に口頭通訳をして日本語になります。私がいささかの聴覚を失うこと、はっきり聞こえないことがあるためです。このように私は分かって、彼は私の93歳の老人がさらにこのように活発にさせることに会うのだと言って、印象がとても深くて、甚だしきに至ってはとても感動するので彼の84歳のおばあさん(或いはこの年齢の頃の老人、私がはっきり聞こえないため)に比べて活発にさせるのが多くなったためです。私は事後にまた埼玉のエスペラント語協会の核心の人物TS先生はつきあって知って、この若い人、私のこのようにする一大がまた年齢になりましたをエスペラント語のために親切に駆け回ることに会って、彼はすぐ日本の世の盛衰の中心に参加して日本のエスペラント語の学会を組織して、これは逆にまた私をとても感動させて、しかし私のヒアリング能力が駄目なため、彼の名前をしっかり覚えていないで、Tanaka先生も彼の名前に話及んでいません。


しかし、彼が石成泰の基金にお金の送金用紙を郵送する上にため、彼を残してO城の住所にになって、私はこちらのY先生も埼玉のエスペラント語協会の成員であるべきなことを推測します。またなぜかというと、私が埼玉県で居住してとても長い時間もまだ管轄した都市をはっきりさせますが、しかし私はやはりこの都市も埼玉県の範囲の内でだと感じます。そこで私は電子メールでT先生に尋ねて、そして初めて聞くところによるとこちらのY先生は他の人ではありませんで、まさに私の面と向かっていたあちらの若い人で座ります。この事は私を大いに感動させます。1筆ごとにが石成泰の基金の寄付にいずれも私にうれしく思わせることと幸福言いますけれども、しかし彼のこのまさに寄付してくる資金の回転があまり柔軟ではありません時。


私がどうしていつも受け取って石成泰の基金に寄付します時うれしく思いますと幸福か? あなた達は驚くと感じるかも知れなくて、この基金会が他の人を助けるのが私自身のためではないためなためです。突き出して、私自身もはっきりとは言えないで、確かにこのようにすることができます。私のこの種類の幸せな感は私のとても長い一生でから来るかも知れなくて、自分ですべて正確にいつから知っていることができません。


こうなると、私は今ほとんど肯定することができて、私は経済の上で助けて《7千日》がそれによって北京国際エスペラント語大会の前で出版の目標に急ぐことができることを譲ると思って、きっと達成することができます。それに、私はまたこのような手配を行って、すぐ必要な情況の下で、彼は私を借りて以前中国で私の個人の文集を出版するためにもっと前に100,000彼のあれに郵送することができます円。石成泰が成中文の《シベリア7千日》の1本を訳して本当に急いで北京国際エスペラント語大会の前で出版することができます時、石成泰先生はどんなにうれしいことがあるべきです! あの時私もたいへん喜ぶことができ(ありえ)て、彼のがとてもうれしくて私の非常の喜ぶことがなためです! あなた達はすべて日本にこのような1つのことわざがあることを知っています:“善人にはよい報いがあります”。私は私のこの事の上で感じて、ちょうどこのことわざに相当しました。


私はさっき言いました:“私は今ほとんど肯定することができて、私は経済の上で助けて《7千日》がそれによって北京国際エスペラント語大会の前で出版の目標に急ぐことができることを譲ると思って、きっと達成することができます。”私は形容詞の“肯定します”のの前で1つの副詞の“ほとんど”をプラスします。世の中でもこのような情況が常にあるためです:人々は間違いなく完成することができ(ありえ)る事を思って、ある種類の意外な思い(事故)の現れる障害のため、最後の15分で完成することができていません。


残念なのは、この事の上でこのようです。情況の表明があるため、もとはこの中国語版《シベリア7千日》の出版社を出版するつもりで、突然ためらい始めて、それがXXXXの干渉のためを心配するため招くのは面倒です。


石成泰先生は最近電子メールで私に教えて、言うのは中国でSoljxenicynの《収容所群島》の1本さえ出版することができるので、その内容、《シベリア7千日》に比べてあった。この両の当本はすべてソ連の収容所の生活を描写したのですけれども。どうして? 私はよく考えてみるべきです。


偶然なのはあるいは必然で、私はあの時ちょうど岩波書店の《読書》の月刊の5月号の上で、日本の作家小林恭二の書く1篇の《中国雑感》。文章の作者は2年前に1つのテレビグループに従って中国を訪問したことがあります。彼は、腐敗は似ていて不治の病のようです蔓延していますと言います。もし関連している人(或いは政府の官吏、或いはKP指導(者)、或いは文化の幹部)に賄賂を贈りませんならば、どんな事もできません。


この文章の構想によって私は推測して、《収容所群島》の中のテキストはなぜ出版することができるのか、見たところあるいはある幹部があるいはいくつかの幹部が出版社を受け入れたのがあるいは訳者の賄賂がやっと実現したのなのなのです。


それでは、出版社あるいは石成泰は本人がこの夏ももしかくかくしかじかに1回になるのだならば、石成泰の翻訳の《シベリア7千日》の中でテキストはすぐできるのではないだろうか……


しかし何日(か)によって前で受け取る電子メール、彼はその他に1本の道を選びました:エスペラント語者に助けてもらって、香港まで(へ)1家のこの本を出版したい出版社を探します。彼はすでに成功するようです。あなた達は知っていて、香港ですけれども今後へ退く中国、しかしそこの人々で中国大陸の更に多くの自由に比べて有します。それ以外に、石成泰の言うことによると、そこに出版するコストでも中国大陸より低いです。こうなると、彼にすでに郵送する数(170,000円)はすぐ十分だったでしょう。


私は強烈に望んで、今回の《シベリア7千日》の中でテキストは出版することができて、中国大陸で香港でたとえなのではありませんとしても。


本当にもしこのように成功を勝ち取るならば、その他に1つの問題が現れて、すぐどのように石成泰の基金を使ってそれから款と項を募集します。私はまだ石成泰に間に合っていないでとこの事を相談します。しかし私は(もちろん賛助者の協議になったと後に)が彼にエスペラント語は更に漢ですから他のいくつかを訳して価値の現代の著作があるように提案すると考えて、このようにcxinaの民主化に役立ちます。例えばSOROSのTivadarの作品《死亡の周囲のペテン》。


作者はブダペストに住んでいるユダヤ人のエスペラント語者で、この本の中で彼は生き生きと彼と自分の家族(妻と2人の息子)がどのように知恵によってナチスを過ごして戦争の苦難に満ちている時期を占領するのおよびなことを描写して、またどのように命の危険を冒して、各種の方式で多いユダヤ人を助けたのです……。
私はこの本を石成泰に贈呈すると思って、私がその時《シベリア7千日》を郵送して彼にプレゼントしますようです。


私は彼が私の考えに賛成することができ(ありえ)ることを信じます。もしこれは実現するならば、石成泰の基金があれらのお金を募集するのそのようにで、本当にとても適切な地方に用いました。


私は信じて、私はすでに各位に十分な理由をはっきりと説明しました:私どうして私のどうして終始一貫してまだエスペラント語にならなければならない者。エスペラント語はあげた私のたくさんの利益があって、これらの利益の圧倒的部分はすべてただ精神の上で物質の上ではないけれども。


しかし私も補充の1つのエスペラント語が私に物質の利益の例を持ってくることを願います。で、1975年私が訳した《危険な言語》この本のストーリを訳します。この本は詳しく述べて、エスペラント語、1種の危険な言語として、すべての集権の国家で、ツアーのロシアを行き始めて、中はナチスのドイツとスターリンソ連を通じて(通って)、ずっと戦後の東ヨーロッパの各国まで(へ)、どのように残酷な迫害を被ったのです。東ヨーロッパでただユーゴスラビアが例外で、エスペラント語はそこに比較的自由な発展の空間を得ていました。この本のエスペラント語の原著の作者は私のドイツの友達Ulrich Lins です先生。この本は有名な“岩波新書”に入れられて、このために私はその数の見るに値する印税を得ました。この本の価格がとても低いけれどものため、価格を予約して230円だけあって、しかしその印刷部数は5万冊に達します。事後に私は、彼はこの印税で1台の乗用車のマイルを十分に買えます!とUlrich Linsを聞いて言います。


私の話は終わります。敬愛する各位の聴衆、たいへんあなた達が真剣に私の講演を聞いたことに感謝します!