戸川秋骨「凡人崇拝」(アルス)

大正15年発行のエッセイ集。
買うとウン万円なので、図書館で借りて、読了。武蔵野市立中央図書館から、三田図書館に取り寄せてもらった。


秋骨の、「文章の上では、旋毛曲りで皮肉屋」で、でも実際の行動では「人情家で、優柔不断で、子供好きな小市民」な性格が、このエッセイ集でもよく現れている。
以下、各エッセイの内容紹介。


「凡人崇拝」
 生田長江正宗白鳥との「英雄崇拝」論というのが当時あったそうだが、ちゃかして、「凡人崇拝」を主張。
「定命」
 秋骨は、武士の家に生まれ、叔父が二人も陸軍の将校だったのに、軍人が嫌いだったこと。
 両親に育てられず、祖母に引き取られていたが、祖母と親しい海軍将官がいて、海軍に入れるよう誘ってくれた。
 それでも、秋骨は軍人にならなかった。「人殺しが商売」というのが嫌いだったからだという。

「別れ」
 秋骨の妻は体が悪かったのか(他のエッセイで妻のことを触れている点があるので、妻がいたことはいたようだが)。
 秋骨は娘のエマを連れて、女学校の入学式と卒業式に参列した。そして、秋骨はエマの友達たちと大変、仲良くなった。
 だが、エマはその学校の中学に進学した後、断然、”転校したい”と言い出す。
 秋骨のほうがむしろ、エマの友達たちに親しみを感じており、「あの子らと別れることになるのか」と寂しい思いをするが、エマの決意は変わらず、秋骨は悲しい思いで、転校手続きをする。
 しかし、秋骨は、子供のことはよくエッセイに書いているが、妻のことはほとんど書いていないなあ。
 書くのに照れがあったのか。妻のことが嫌いだったのか。 
「卑怯者」
 関東大震災における朝鮮人暴動のデマについての文章。「虐殺」については当時、隠蔽されて報道されなかったのか、その点については触れられず、呑気な文章になっている。
 近所の人々がデマに踊らされて、自警団まで結成して大騒ぎするのを、冷めた目で見ている秋骨。だが、興奮している人々を抑えるだけの気力はなく、”馬鹿馬鹿しい”と思いながらも、おざなりに協力するのだった。
 秋骨の”優柔不断”な性格が、よく出ている好エッセイ。
「古外套」
 秋骨が長年所有した古い泥だらけの外套が”語り手”。上流階級の人たちと、ごく、たまに交際する際の、”自分のみすぼらしさ、不器用さ”から発する、決まりの悪さを語っている。
ソクラテス
 秋骨は、明治29年ごろ、硯友社の人々と定期的に”座敷で西洋料理を食べる店”で歓談する機会があった。秋骨が”ソクラテスも門弟を集めて、饗宴を開きながら愛を論じた”と言うと。
 尾崎紅葉が大層その話を気にいり、その集まりは”ソクラテス”という名前になった。
「山室大佐の回想」
 救世軍山室軍平がイギリス旅行に向かうにあたっての、回想。
 秋骨は若い時代はキリスト教徒であったが、のち、無神論に転じたようだ。
 山室大佐の世話をした、芝にあった”泉市”という本屋の若旦那。この人が仏教徒からキリスト教徒になり、秋骨と知り合いになり、その仲立ちで、秋骨は山室大佐と縁ができた。
 だが、その「仲立ちをした人」は、一人息子をアメリカで失って、仏教徒に戻ってしまったそうだ。
「波打ち際に立ちて」
 葉山に徳富蘇峰らと一緒に旅行した際の回想。これは、別の本で読んだことがある。
 友達と二人、旅館に泊まった所、部屋がなくて女中部屋の隣に押し込められたら、隣の老女中たちが自分たちを大変に褒めてくれて、閉口して眠れなかった。(つげ義春の漫画みたいな話だね)
 翌日は、なぜか若くて美しい上流女性たちが、なぜかたくさん押し寄せて、これまた閉口して退散した、という話。
「その頃の事」
 明治学院での同窓の島崎藤村馬場孤蝶らとの交際の回想。
「思ひ出す人々」を読みて思ひ出した事
 内田魯庵の「思い出す人々」を読んでの感想。秋骨にしては、あまり面白いエッセイではないが・・。”島田三郎”という人の顔が不思議にできていたとある。遠くから見ると笑ってみえるが、近寄ってみると恐ろし顔になった、というのが面白かった。
「翻訳者の愚痴」
 自分は、翻訳を仕事にしながら翻訳は嫌いだが。日本の現在の文明はすべて翻訳であるという、旋毛曲がりな話。
「首括り綱渡り」
 イギリス文学研究家でありながら、”イギリス文学が嫌い”という、やはり秋骨の、旋毛曲りぶり。
 ただし、”イギリス文学が偉大である”ことは認めるという。秋骨は”偉大なもの”なんてのは、嫌いなのであった。
「小泉先生の旧居にて」
 秋骨は東京帝大で小泉八雲の講義を受けた。そして、二十数年後に、奇遇にも、当時八雲が住んでいた家に、秋骨は住んだ。
 その家は、八雲の妻が、設計やら指図やらをすべて、したものだという。
 なお、八雲は学生たちに”君たちは英語の文章をかけなくてもいい。無理に書いてもろくなものにならないだろう。それよりも、英語文にある思想を学べ”と言っていたらしい。
「石川さんの『煙草とパイプ』を読んで」
 石川欣一(モースの弟子でもあった石川千代松の息子であり、モースの「日本その日その日」の翻訳家でもある人)の、出したエッセイ集についての絶賛文。”この本に惚れてしまった”とまで書いてある。
 そして、若き秋骨が、学生仲間と葉巻をすったら、すっかり気分が悪くなって、ずっとトイレで唸っていたという回想。
「自助論」
 ”天は自らを助ける者を助ける”という格言をもとにした、秋骨の皮肉文。
 他人のことなど気にするのは、成功の道ではない。自分のことを気にすべきだ。学校でも、この格言をもっと教えるべきだ、と・・。
 また、ある出版企画で、志は高いが成功しそうもないので、多数の翻訳家が意気に感じ、薄利で翻訳を引き受けた所、ベストセラーとなった。だが、出版者は翻訳家たちに、当初の翻訳料以外、何もくれなかった。”こういう人こそ、素晴らしい人である”と皮肉る。
「人の呼び名」
 秋骨は”○○チャン”という呼び名に愛着を持っていて、好きだった。
 50歳をすぎた秋骨も、たまに昔の知り合いと出会うと”○○チャン”と呼ばれ、不思議な気分がするという。
「六平太氏の能」
 喜多六平太の能についての絶賛。秋骨は能楽の愛好家であった。
「国栖」
 謡曲を習っていた秋骨。”国栖”は謡曲の曲名で天武天皇大友皇子に追われて吉野の山奥に逃げた時の話だそうだ。
勧進帳と雨」
 謡曲を習っていた秋骨。”難しい”とされる”勧進帳”を師匠に教わったが、名人の謡いを聞いて、”自分の歌は勧進帳ではない”と自己嫌悪を感じたそう。
「東の端と西の端」
 日米対立が激しくなってきた大正末期。珍しく時局を論じていて、”日本とアメリカは、文化的に真反対の国である。ただ、地理的に近いから最初に接触してしまった。もともと相容れないのだから、交流しないのが一番である”と。
「二二ンが四でない事」
 宗教はすべて”迷信(二二ンが四でないという、不合理)”であるが、人間の心にそうした物を欲望する”イリュージョン”がある限り、宗教は亡くならないだろうという論。
「非武士道論の悲哀」
 ”武士道”や”良妻賢母”などは、わざわざ事事しく論じるまでもなく、”当り前の事”と思っていた秋骨。だから、かつてそういう事を、盛んに論じる人たちを、軽蔑していた。
 だが、近年は、その「当り前」が通用しなくなったと嘆く。
斎藤緑雨君とチャアルズ・ラム」
 竹友藻風が、この二人は似ているとの指摘したそうで。
 緑雨と交際した人、そしてラムの翻訳家として、斎藤緑雨とチャールズ・ラムとの共通点、相違点を、事細かに論じている。そして、秋骨は、この二人がとても好きだそうだ。
「発売禁止の文芸」
 「ボヴアリ夫人」の翻訳の発禁騒動に関連しての文章。人心を乱すといえば、ホーマーやシェークピア、ダンテ等まで出版できないことになると抗議。
「他界の大杉君に送る書」
 大杉栄・虐殺事件に関しての論。大杉に向かい、”君は幸福である。君は殉教者になることになって、むしろ後世に知られることになった”とし、あの世から、犯人たちの減刑を祈ってくれという、いかにも秋骨らしい、皮肉な文。
 ただし、幼い子供である、大杉の甥までが殺されたことについては、大変嘆いている。子供が大好きだった、秋骨らしい。
「精進行」
 娘エマとその友達たちとの、富士山周辺の旅行記。これも別の本で、既に読んでいた。富士五湖側から富士山の周りをめぐり、御殿場側から帰ってきた。かなりの大旅行。