『文學界4月号』大座談会

図書館本。
11人による、大座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」だけを読んだ。(参加者:岡田利規川上未映子車谷長吉島田雅彦諏訪哲史田中弥生筒井康隆中原昌也古井由吉山崎ナオコーラ高橋源一郎(司会))
1958年の、13人での座談会(堀田善衛大岡昇平伊藤整遠藤周作高見順中村光夫石川達三山本健吉福田恆存石原慎太郎野間宏江藤淳荒正人(司会))「日本の小説はどう変わるか」の「50年後」の記念座談会ということらしい。


中原昌也は、相変わらず「小説は、辛くて辛くて書きたくない。でも、書かないと、その辛さがわかってもらえない」と狂ったことを言っていた。
あと、川上未映子が「赤いという字はなぜ赤くないののか」「丸いという時はなぜ丸くないのか」、「そういうことが気になる子どもだった」と。


あと、山崎ナオコーラが、川村湊文芸時評について「私を『若い女』という属性で論じるのはやめてほしい。同じ時代を生きる文学者として、評論してほしい。もてない男はこういうことをしたがる」と言っているが・・・。
これに対して、「猫猫先生」が・・。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080311

なかで山崎ナオコーラが、毎日新聞川村湊の文藝時評を読んで怒っていて、「もてない男って女性を」云々と言っているのでぎょっとする。川村湊もてない男だったのか。

いや、「文芸評論家」なんてやっている人なんて、ダイタイもてない人でしょう。山崎は、川村の文章から「もてない臭」を感じとっただけだと思います。


しかし続けて・・。

断っておくが、私は山崎についてはブログを含めて何も言ったことはない。読んだことがないからである。実はこの間に私に関する言及があったのを削除したのではないか、ナオコーラの悪口をどこかに書いたのではないか、などと邪推する人がいるといけないので書いておく。古井が山崎に、それは言わないほうがいい、とたしなめて止まっているのだが、止まったから逆に疑念を呼び起こして、実は山崎は自作評ではなくて何か私に含むところがあってそう言ったのではないかという勘ぐりも可能なので、言いたいことがあるなら言ってほしいし、私とは全然関係ないならそう言ってほしい、と思った。

とあるのは、かなり「被害妄想」ですよ、先生。そんなこと、誰も思いませんって。
自分も「若い女性」という属性を基準に、色々なことを書いていることを、間接的に「嫌がられた」のが、辛かったんでしょうねえ。