宇野信夫「私の出合った落語家たち 昭和名人奇人伝」(河出文庫)

以前読了しているが、面白かったエピソードをアップしていなかったので、再アップ。
宇野の父は熊谷で紺屋・染物屋を営んでいて、浅草の橋場にに東京出張所と貸家(蕎麦屋と道具屋)を持っていた。
宇野は中学を出た後は、その出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、1944年まで住み続けた。
その時代に、まだ売れていなかった、蝶花楼馬の助、春風亭柳楽(のちの三笑亭可楽)、桂文都(のちの土橋亭里う馬)、柳家甚語楼(のちの古今亭志ん生)、桂米丸(のちの古今亭今輔ら、貧乏な落語家たちが出入りして、彼らと交際した。

  • 志ん生のエピソード
    • 靴屋のひいきの客が、志ん生を自分のうちに招いた。が、彼は酒乱で女房をどなりつけ、二階の梯子から叩き落した。志ん生は、その家に翌日、自分の落語会の券を売りにいったという。客は素面ではおとなしい人だった。
    • 志ん生の作った俳句「洋服をきればズボンにコブができ」
    • 晩年体が悪くなって、うちの中でうるものをさがしていた。古い物が好きで骨董やで江戸時代の財布を買ってきて、馬生が返しにいった。また、馬生の「円朝全集」を売ったことがある。馬生が「あれは俺の商売道具だ」と怒ると、「おめえは俺がこさえたんだ。文句をいうな」
  • 春風亭柳條という落語家が、当時落語会を牛じっていた、一龍斎貞山に嫌われた。旅興行に出て、貞山バクチで負けてすかれようとしたが、どうしても買ってしまって困った。
  • その前の代の可楽は、雑誌のアンケートで「ものくれる人の尊し年のくれ」と詠んだ。
  • 柳屋小半治の落語
    • 「春の夜やすき焼きくってうまさかな」
    • 「夏の日や鰻くってうまさかな」
    • 「秋の夜や天ぷら食ってうまさかな」
    • 「冬の夜や刺身に熱燗うまさかな」
  • 正岡容とは、鈴木通夫(正岡の精花学校の同級で、後に今輔の「お婆さん落語」の台本を書いた人。)を通して知合った。
    • 正岡は猫を何匹も飼っていたが、食事仲に猫が食べ物をほしかると、自分が食べているものを手に吐いた、それを猫にやっていた。
    • 正岡は大阪のカフェーの女を女房にしたが、正岡がふきこんだレコードを聞いていた縁。
    • 正岡小田原で二人の落語家と暮らした時、犬が三匹いたがつぎつぎに飢え死にした。
    • 正岡は玉川太郎の浪曲を評価していた。二階に太郎をまた貸ししていたが。家賃滞納で無断で引越しした。引越し先に酒乱の玉川が刃物を持って乗り込んだ。
    • 正岡は楽屋でセンセイと呼ばれていたが、陰では「セコ正」とよばれていた。
  • 橘家円太郎(かつて百円)という売れないうれない噺家のエピソード。
    • 百円は芸者と女房になった。その女房を芸者に売った養父が、何十年ぶりに尋ねてきて、孫をかわいがって二人ででかけては、みやげを買ってくる。
    • 百円は金に困っていたので、「おとっつあん、こっちに回してくれよ」と頼むと、嫌がって、縁側の下にもぐりこんでしまう。
    • だがある日、孫と二人自動車にひかれてしまった。医療費が必要で「金をくれよう」と頼んでもださない。
    • 孫は事故以来、祖父を怖がるようになった。オヤジは悲観したのか、それとも金がつきたのか、ある日、押入れの中で首をつった。金は結局でてこなかった。
    • 百円は貧乏だったが、息子がテレビ会社でえらくなったので、葬儀は盛大であった。宇野はその葬儀で靴をなくした。
  • 三遊亭円生が「御前口演」のお祝いを「ニュートーキョー」でやった。その理由は、おでんや等でやると「円生はセコイ」といわれる。帝国ホテルでやれば「円生は気が違った」といわれる。だからここにした。だが結局、ある落語家が「あれは西洋の飯屋だ」と悪口をいった。
  • 宇野は円生の葬儀の葬儀委員長をつとめた。
  • 鈴々舎馬風は早死にしたが、病気になって気が弱くなり、愛人がいることを女房に告げると、看病してくれなくなった。睡眠薬を飲んで自殺をはかったが、女房が看護婦あがりだったので吐かされた。
  • 林家彦六は若いころ「新人」「インテリ」といわれた。菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている、といわれた。また、何かというと理屈をこねて怒りだすことから「とんがり」と呼ばれた。
  • 桂文楽のエピソード
    • 文楽は恐妻家だった。
    • 文楽塙保己一
      • なくなる十数年前、胸をわずらったことがある。不吉なものを感じた文楽は、四代目柳家小さんの妹が「拝み家」をしていたことを思いだし、彼女にところにいって占ってもらった。すると「えらい坊さんが出ました。その坊さんは塙保己一と名乗り、文楽はまだ大丈夫だと語った」とお告げが出た。そこで文楽は、保己一の墓にいってすっかり汚れている墓をきれいにした。寺の住職に過去帳をみせてもらうと、同行していた五代目柳家小さんがその系図の最後の人を指差し、「この人は軍隊のときの自分の上官です。随分なぐられました」と語った。
    • この「拝み屋」の女性には、文楽の養子が軍隊に行く際にも、占ってもらったことがある。その時でたお告げは「もくず」であった。何のことかわからなかったが、やがて養子が乗った船が沈み、「海のもくず」となった。