再評価されるクラシック 福島正実

 S・ファウラー・ライトは、H・G・ウエルズの初期のSFから、現代SFまでのあいだを継なぐ重要な作家たち−−ヒューゴー・ガーンズバックオラフ・ステープルドンエドガー・ライス・バロウズ、エイヴラム・メリットなどとともに、SFの現代化にきわめて大きな寄与をした作家だが、なぜか、現代SFが確立されてのちも、あまりその功績を認められることかなかった。強いていえば、思想的にはステープルドンほど哲学的洞察力がなく、幻想派冒険小説家としてのイマジネーションでは、メリット、バロウズらほどポピュラリティを持っていなかったからかもしれない。
 だが、ライトの作品の実質的な影響力は、とくにアメリカにおいて、それらの作家たちに勝るとも劣らないものがあったのだ。一九四九年、シャスタ・パブリッシャーが、<クラシック・ライブラリー>の一冊として本書を再録したとき、批評家エヴァレット・F・ブライラーは、つぎのような序文を寄せて、ライトの再評価を提唱している。参考までに右にその全文を引用しよう。

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『時を克えて』はH・G・ウエルズの初期の空想物語とオラフ・ステープルドンの未来史の中間に書かれた注目すべきSFとして著名な作品である。あるいはSFスリラーものとして読んでもよく、そこには背景に関する無限の空想と怪奇な冒険が渾然一体と化した驚くべき豊かな物語が織りなされている。考え方の絶対的な異様さという点でも、怪奇小説中にほとんど比類を見ない。しかもライト氏の抑制の効いた文体、平衡の取れた筋の運び、そしてその整然たる論理は奔放な想像力を適度に牽制し、そのため彼の提供する驚異の数々はますます異様さを強める反面、完全にもっともらしさをとどめている。キャペツむち、寄生草、もしくは両棲人そのものを簡単に忘れることのできるものはないだろう。
 それにまた、『時を克えて』はライト氏のほかの怪奇小説同様、単なるスリラーの域にとどまるものではない。それは人類の一方に偏した成長と宇宙との調和の欠除から起った、疲労と退化の問題に関する深刻な考察でもある。一人の二十世紀人−−時代の悪しき倫理的背景に毒されてはいるが、行動、清新、知性についてさまざまの可能性を合わせ持った男−−が未来の世界に送り込まれ、そこでニつの大きく分岐した人類の種族、地底人と両棲人に出あう。地底人は肉体的にも知性的にもまさに巨人というにふさわしく、輝かしく無慈悲な超文明を有しているが、すでに疲労の色濃く、しだいに滅び去ろうとしている。いっぽう両棲人は、精神的には地底人に匹敵するが、静寂主義に重きを置いてきた結果、高度の霊性と自然との調和を獲得していたにもかかわらず、行動の力を欠いている。彼らにはもはや生殖の能力がなく、その人口は主人公の理解を越えた法律によって制限を受けながら増加がはかられている。かくて、人類は地底人の知るとおり、周期的退化の新しい段階に達していた。今や、超特殊化された未来人の力を越える人類の能力の統合体をつくり出す仕事は、地底人と両棲人両方のすぐれた倫理に浄化された二十世紀出身の原始人、つまり主人公の手にゆだねられた。もっとも彼も未来の種族それぞれの特殊性のうちにとどまっているかぎりはそのいずれにも劣るのであって、いったん二十世紀に戻り、女をつれてやってきて、新しい人類を生み出すということだけが可能なのである。
 歴史に関心ある読者は、『時を克えて』を通読する間に、ライト氏も指摘するとおり、『タイム・マシン』に書かれたいろいろな事物を思い出されるだろうし、あるいはまた、デイヴィッド・リンゼイの『アークトゥールスヘの旅』の世界を垣間見る思いをされる方もあるかもしれない。だが『時を克えて』に最も強い影響をあたえたのは、イタリアの詩人ダンテである。主人公の地底訪問、両棲人の霊魂案内名、さまざまな地獄、法律尊重主義者の禿鷹人間、頭脳明晰だか邪悪なトカゲ人間に関する風刺、そして屠殺族と、どの一つを取り上げてみても、『[[神曲]』の地獄を思い出させないものはない。こうしてみると、ライト氏がダンテの研究者であり、やがて『神曲』の翻訳を公刊しようとしているということは、べつに驚くには値しないのである。

ぼくとSF 河野典生

 ぼくの行きつけの、さる酒場に、大変なSFファンの女性がいて、早川、創元のSFシリーズはいうに及ばず、SFマガジンも数年来とり続けているという。この世界SF全集も本屋からとどけさせることにしたのだが、留守中、お母さんが代金を代りに支払った際、「こんな高い本をどうして買ったりするの」と詰問され、「わたしは、これだけが楽しみなんだから」と答えたそうである。傍点の部分を、彼女は声色で強調してぼくに伝えた。ばくの顔をみるたび、彼女は「SF作家の某氏と某々氏、何某氏を連れて来てくれれば、給料から引いてもらうつもりで、いくらでも飲んでもらうわ」とまでいうのである。しかし、彼女はあまりに美しい女性だし、母上を養うのも大変だろうし、嫉妬と同情のしがらみで、まだ某氏以下には声をかけないでいる。
 ぽくは、だいたい女子供には、本当のところSFのえもいわれぬ魅惑はわからないのではないかと、ひそかに思っている一人なので、彼女のようなひとに出会うと、全く面くらってしまうというものだ。いろいろ話してみると、彼女はだいたいサイエンス色の強いものが好きなようで、そう云えば、高校生などの読者もどうやらそのようであるなと思ったりする。つまりは、それがどんな種類であれ、小説のファンかたぎというものは、一種の信仰のようなものなのだから、いわぱ、彼女や彼らは科学を信仰しているのであろう。そして、心の平和を得ているのであろう。
 ところで、ほく自身のことを云えば、コンディションの関係もあるが、時々、脳細胞のどこかに、ぽかっと空隙のできる性質らしい。つい先日も、びっしりと手の入った雑誌切り抜きに生原稿を含めた単行本の原稿を、徹夜あけに小田急線に乗っていて、「忘れたら大変だぞ」と思いながら、立ったまま目の前の網棚に置き、案の定、終点の新宿で、置き忘れてしまった。そして、その日あったTV録画を、何を口走ったか分らぬまま過すという、大失態をやってしまったのである。幸い、翌日、江ノ島から回送されてきたそれを、遺失物係りで発見したからよかったものの、もしなかったら、ぼくは首を吊ったかも知れないのだ。
 そのほか、同じ電車の例では、まっぴるま中央線をお茶の水まで所用で乗っていて、ふっと気がつくと、千駄ヶ谷のホームに立っていたこともある。ぼくは座席にすわっていたし、乗降客も少ない時間だったし、千駄ヶ谷はめったに降りることのない駅なので、今だに理由が全くわからない。
 また、ぼくには、数時間、顔を突き合わせて話していた人間の顔を、まるっきり忘れてしまうヘキもあり、そういう相手は何度出会っても、そのたぴに、しどろもどろになってしまう。実名をあげて恐縮だが眉村卓氏などもその一人で、先日も五十センチ前方の彼を、どこへ行ったのかと探しまわって、人びとをあきれさせてしまった。それは、どうやら、ある種の型の顔に限られているようだが、それがなぜなのかは、どうしてもわからないのである。
 そういう性質のせいか、愛読するSFも、ファンタスティックな、非論理的なものが、ぼくの周波には合うようである。これは、カフカ安部公房氏が好きであった、中学高校時代から、ほぼ一貫していで、現在でもマルセル・エイメの「壁抜け男」や「サビーヌたち」。そのほか、ブラッドベリのいくつかなどを読むと、ごぎげんなのである。
 また、これは正確にはSFとはいえないが、昭和二十一年九月刊、仙花紙に刷られた、シュベルヴィエル、堀口大学訳の散文詩集「ノアの方舟」は、黄ばみ手あかにまみれて、アンリ・ミショオ詩集などと共に、本棚のいちばんいい場所に収っている。考えてみれぱ、ぼくが十一歳の時に買った本なのだ。
 しかし、ぼくは、いわゆる怪奇小説というものは、はっきりと、きらいである。おどろおどろしく。怪であるぞ、奇であるぞと、無理やりねじこんで来られると、ぼくは、この作者は何と不作法なのだろうと、思ってしまうのである。
 そして、これもSFには入らないかも知れないが、最近の訳書では、J・D・サリンジャーの九つの短篇中、「バナナフィッシュに最良の日」に最も心ひかれた。
 ぼくは、いわぱわかる小説は好きではないのであって、フィーリングのある小説が好きなのである。

超人・超人類 伊藤典夫

 超人の思想を人間がどれくらい昔から持っていたか、歴史のなかにその痕跡を辿ることは、浅学のぼくにはとてもできない。単純に”人間以上の存在”ととるなら神や悪魔や精霊がそうであり、地に足のついた例では、旧約聖書中のサムソンのように、とほうもない怪力の持主がいる。しかし、”人間が人間以上のものになる”−−”人間以上のものに進化する”−−という思想が、人ぴとの心のなかに明確なかたちをとるのは、どうやらダーウィンニーチェ以降のことのようである。十九世紀後半の話だから、まだ百年もたっていない。
 超人、スーバーマン、人間以上の人間−−同じ十九世紀後半に胎動をはじめた、科学と幻想の渾融からなる奇妙な小説分野、SFが、科学的にも、哲学的にもたいへんな意味を持つこのアイデアに、目をとめないはずがない。超人を描いた作品が一つ現われ、二つ現われ、たちまちそれはスーパーマン・テーマと呼ばれる重要なサブジャンルをつくるにいたってしまった。
 スーパーマン・テーマの最初のSFは、何か。これも、なにぶん資料不足で断定できないのだか、SF研究家サム・モスコウィッツが挙げているこの種の作品の古典でいちぱん古いものを調ぺてみると、それは、イギリスの作家J・D・ベレズフォードの『ハンプデンシャーの不思議』The Hampdenshire Wonder (1911)である。これは、実験室で突然変異によりつくりだされた邪悪なスーパーマンが世界支配を企む話で、フランケンシュタイン・テーマとも見ることができる。
 本書に取められたフィリップ・ワイリーの『闘士』(1930)は、それから二十年近くたって発表されたものだが、順序としてはそのすぐ後に続く。しかしその間には、おそらくこのデーマでかなりの長篇や短篇が書かれたにちがいない。
 ワイリーか描いたスーパーマンは、精神的には普通人と変わらない。超能力は肉体的なものだけに制限され、しかも特殊な実験の産物であるため、同類はいなかった。もちろんその限界が、ドラマの悲劇性をきわだたせる役目を果たしていたわけだが、その翌年、アメージング・ストーリーズ・クォータリー誌に掲載されたジョン・テインの『生命の種子』 Seeds of Life では、スーパーマンは体力と知力双方において人間以上となり、物語にアクセントをつける。
 しかしこれらの作品以上に、スーパーマン・テーマに深い奥行きを与え、SFに新しい視野をひろげたのは、イギリスの哲学者・作家であるオラフ・ステーブルドンの『オッド・ジョン』(1935)だろう。この物語の主人公オッド・ジョンは、たんに人間以上の知力や体力を持つ天才ではない。テレパシーなど、人間には無縁の超能力を持つ生きものであり、しかも彼は一人ではなく、将来地球を引き継ぐであろう新人類の一人なのだ。彼ら一族にとっては、人類は劣等種族なのである。
 スーパーマン・テーマから新人類テーマへ。これは、たんにSFに新しいアイデアを一つつけ加えたというだけではない。『オッド・ジョン』を読むものは、必然的にホモ・サピエンスというものを考えなおし、ヒューマニズムなる固定観念を再検討せざるを得ない羽目におちいる。古代の楽天的な超人願望から一歩進んで、超人であることの悲劇に着目した点では、これ以前の諸作の意義は大きい。けれども『オッド・ジョン』は、超人類を想定して人類を客体視し、人類にとって根本的な問題を提出していることにより、さらに重要な意味を持っている。そこにこそ、SFの目的の一つが存在するからだ。
 ジョン・W・キャンベルが、アスタウンディング・サイエンス・フィクション誌の編集長となり、アメリカに<SFの黄金時代>をもたらすのは、一九三八年以降のことである。その時代については、本全集『ヴォクト』篇の月報にも書いたが、ザイエンス・フィクションという用語がぴったりの知的娯楽小説が一気に花ひらいた時期で、それまでのSFの主要アイデアをいかにもアメリカ的に消化した傑作が目白押しに並んだ。スーパーマン(あるいは超人類)テーマもその例外ではなく、すぐ思いだされるものにはA・E・ヴァン・ヴォクトの『スラン』(1940)がある。
 この小説では、人類はもう邪悪な敵である。読書は最初から新人類の少年ジョミー・クロスに感情移入し、彼の手に汗にぎる冒険に一喜一憂し、人類など早く滅びてしまえと願うのだ。
 そして同じ作者の『非Aの世界』(1945)『非Aの傀儡』(1948) 二部作。いや、そういうならヴァン・ヴォクトはむしろ、スーパーマン・テーマに取り憑かれている作家といっていい。捜せばいくらでも見つかるはずだ。
 コミック・ブックの<スーパーマン>を珍しい例外として、このころにはスーパーマンは新人類テーマに含まれてしまう。そして。新しいヴァリエーションが陸続と現われる。
 ロバート・A・ハインライン『地球脱出』(1953)の新人類は、長命族。ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』(1953)では、放射能による突然変異の天才児たち。シオドア・スクージョン『人間以上』(1953)では、六人が集まってはじめて一人の超人となるホモ・ゲシュタルト−−集団人。ジョージ・O・スミス『宇宙病地帯』(1955)では、宇宙病が人類をスーパーマンに変えていく。なかでもアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』(1953)は、『オッド・ジョン』以来久しぷりの、新人領テーマにおける大きな前進といえるだろう。
 未紹介のものは、フランク・M・ロビンソンの『力』The Power(1956) が、このテーマをミステリ的にひねった長扁で楽しめる。
 超能力を調査している大学の委員会。委員たちから無記名でとったアンケートのなかに、意外にも超能力者がいる。机の上にあった傘がひとりでに立ち、彼らは超人の存在を認めざるをえなくなる。しかし超能力者は自分の存在を教えただけで、誰であるかは名乗り出ようとしない。超人の正体を知ったらしい一人の委員が自殺する。主人公は、未知の超人の意図を探るため、アンケートに書かれている彼の故郷の村を訪れる。村人たちは彼を知っているが、彼のイメージは人によって違う。筋骨たくましい青年だったというものもいれば、痩せた、めだたない青年だったというものもいる。その超人は、見る相手によって自分の印象を変えることができるらしいのだ。大した手がかりも掴めず大学へ戻った彼は、自分の籍がそこから抹殺されていることを知る。提出した博士論文もなければ、大学で自分を覚えているものもいない。そしで超人におどらされていたらしい委員は一人ずつ殺されていき、やがて危険は主人公の上にもふりかかってくる……。
 こんなふうに徹底したエンターテインメントにしてもおもしろいし、哲学的なシリアスな要素も盛りこめる。そういえぱ聞こえはいいが、アメリカSFの影響だろうか、『幼年期の終り』というほとんど唯一の例を除いて、このテーマの現代作品にステープルドンのようなこくのないのが、やはり気にかかる。どれもこれも小粒なのだ。もちろん傑作とは、本来そんなにたくさん生まれるものではないが、それでもSFが一面ではサイエンスを土台にしたものである以上、最新科学の成果を応用した新人類テーマなりスーパーマン・テーマなりの力作が、そろそろ出てもいいような気がするのだ。
 その意味で、ぽくは日本SFが育てたサイポーグ・テーマ(サイボーグ人間も、ある点では新人類となりうるだろう)に期待しでいる。

翻訳者紹介

矢野徹(やの・てつ)
大正十二年愛媛県に生まれる。
昭和十八年中央大学法学部卒。
英米文字翻訳家。
主訳書
 シオドア・スタージョン『人間以上』(早川書房刊)
 カート・シオドマク『ハウザーの記録』(早川書房刊)
 R・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王』(早川書房刊)


川村哲郎(かわむら・てつろう)
昭和五年東京に生まれる。
東京大学文学部中退。
英米文学翻訳家。
主沢書
 ヒューゴー・ガーンズバック『ラルフ124C41+』(早川書房刊)
 サム・マーウィン・ジュニア『多元字宙の家』(早川書房刊)
 ジェイムズ・ブリッンュ『宇宙播種計画』(早川書房刊)