超人・超人類 伊藤典夫

 超人の思想を人間がどれくらい昔から持っていたか、歴史のなかにその痕跡を辿ることは、浅学のぼくにはとてもできない。単純に”人間以上の存在”ととるなら神や悪魔や精霊がそうであり、地に足のついた例では、旧約聖書中のサムソンのように、とほうもない怪力の持主がいる。しかし、”人間が人間以上のものになる”−−”人間以上のものに進化する”−−という思想が、人ぴとの心のなかに明確なかたちをとるのは、どうやらダーウィンニーチェ以降のことのようである。十九世紀後半の話だから、まだ百年もたっていない。
 超人、スーバーマン、人間以上の人間−−同じ十九世紀後半に胎動をはじめた、科学と幻想の渾融からなる奇妙な小説分野、SFが、科学的にも、哲学的にもたいへんな意味を持つこのアイデアに、目をとめないはずがない。超人を描いた作品が一つ現われ、二つ現われ、たちまちそれはスーパーマン・テーマと呼ばれる重要なサブジャンルをつくるにいたってしまった。
 スーパーマン・テーマの最初のSFは、何か。これも、なにぶん資料不足で断定できないのだか、SF研究家サム・モスコウィッツが挙げているこの種の作品の古典でいちぱん古いものを調ぺてみると、それは、イギリスの作家J・D・ベレズフォードの『ハンプデンシャーの不思議』The Hampdenshire Wonder (1911)である。これは、実験室で突然変異によりつくりだされた邪悪なスーパーマンが世界支配を企む話で、フランケンシュタイン・テーマとも見ることができる。
 本書に取められたフィリップ・ワイリーの『闘士』(1930)は、それから二十年近くたって発表されたものだが、順序としてはそのすぐ後に続く。しかしその間には、おそらくこのデーマでかなりの長篇や短篇が書かれたにちがいない。
 ワイリーか描いたスーパーマンは、精神的には普通人と変わらない。超能力は肉体的なものだけに制限され、しかも特殊な実験の産物であるため、同類はいなかった。もちろんその限界が、ドラマの悲劇性をきわだたせる役目を果たしていたわけだが、その翌年、アメージング・ストーリーズ・クォータリー誌に掲載されたジョン・テインの『生命の種子』 Seeds of Life では、スーパーマンは体力と知力双方において人間以上となり、物語にアクセントをつける。
 しかしこれらの作品以上に、スーパーマン・テーマに深い奥行きを与え、SFに新しい視野をひろげたのは、イギリスの哲学者・作家であるオラフ・ステーブルドンの『オッド・ジョン』(1935)だろう。この物語の主人公オッド・ジョンは、たんに人間以上の知力や体力を持つ天才ではない。テレパシーなど、人間には無縁の超能力を持つ生きものであり、しかも彼は一人ではなく、将来地球を引き継ぐであろう新人類の一人なのだ。彼ら一族にとっては、人類は劣等種族なのである。
 スーパーマン・テーマから新人類テーマへ。これは、たんにSFに新しいアイデアを一つつけ加えたというだけではない。『オッド・ジョン』を読むものは、必然的にホモ・サピエンスというものを考えなおし、ヒューマニズムなる固定観念を再検討せざるを得ない羽目におちいる。古代の楽天的な超人願望から一歩進んで、超人であることの悲劇に着目した点では、これ以前の諸作の意義は大きい。けれども『オッド・ジョン』は、超人類を想定して人類を客体視し、人類にとって根本的な問題を提出していることにより、さらに重要な意味を持っている。そこにこそ、SFの目的の一つが存在するからだ。
 ジョン・W・キャンベルが、アスタウンディング・サイエンス・フィクション誌の編集長となり、アメリカに<SFの黄金時代>をもたらすのは、一九三八年以降のことである。その時代については、本全集『ヴォクト』篇の月報にも書いたが、ザイエンス・フィクションという用語がぴったりの知的娯楽小説が一気に花ひらいた時期で、それまでのSFの主要アイデアをいかにもアメリカ的に消化した傑作が目白押しに並んだ。スーパーマン(あるいは超人類)テーマもその例外ではなく、すぐ思いだされるものにはA・E・ヴァン・ヴォクトの『スラン』(1940)がある。
 この小説では、人類はもう邪悪な敵である。読書は最初から新人類の少年ジョミー・クロスに感情移入し、彼の手に汗にぎる冒険に一喜一憂し、人類など早く滅びてしまえと願うのだ。
 そして同じ作者の『非Aの世界』(1945)『非Aの傀儡』(1948) 二部作。いや、そういうならヴァン・ヴォクトはむしろ、スーパーマン・テーマに取り憑かれている作家といっていい。捜せばいくらでも見つかるはずだ。
 コミック・ブックの<スーパーマン>を珍しい例外として、このころにはスーパーマンは新人類テーマに含まれてしまう。そして。新しいヴァリエーションが陸続と現われる。
 ロバート・A・ハインライン『地球脱出』(1953)の新人類は、長命族。ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』(1953)では、放射能による突然変異の天才児たち。シオドア・スクージョン『人間以上』(1953)では、六人が集まってはじめて一人の超人となるホモ・ゲシュタルト−−集団人。ジョージ・O・スミス『宇宙病地帯』(1955)では、宇宙病が人類をスーパーマンに変えていく。なかでもアーサー・C・クラークの『幼年期の終り』(1953)は、『オッド・ジョン』以来久しぷりの、新人領テーマにおける大きな前進といえるだろう。
 未紹介のものは、フランク・M・ロビンソンの『力』The Power(1956) が、このテーマをミステリ的にひねった長扁で楽しめる。
 超能力を調査している大学の委員会。委員たちから無記名でとったアンケートのなかに、意外にも超能力者がいる。机の上にあった傘がひとりでに立ち、彼らは超人の存在を認めざるをえなくなる。しかし超能力者は自分の存在を教えただけで、誰であるかは名乗り出ようとしない。超人の正体を知ったらしい一人の委員が自殺する。主人公は、未知の超人の意図を探るため、アンケートに書かれている彼の故郷の村を訪れる。村人たちは彼を知っているが、彼のイメージは人によって違う。筋骨たくましい青年だったというものもいれば、痩せた、めだたない青年だったというものもいる。その超人は、見る相手によって自分の印象を変えることができるらしいのだ。大した手がかりも掴めず大学へ戻った彼は、自分の籍がそこから抹殺されていることを知る。提出した博士論文もなければ、大学で自分を覚えているものもいない。そしで超人におどらされていたらしい委員は一人ずつ殺されていき、やがて危険は主人公の上にもふりかかってくる……。
 こんなふうに徹底したエンターテインメントにしてもおもしろいし、哲学的なシリアスな要素も盛りこめる。そういえぱ聞こえはいいが、アメリカSFの影響だろうか、『幼年期の終り』というほとんど唯一の例を除いて、このテーマの現代作品にステープルドンのようなこくのないのが、やはり気にかかる。どれもこれも小粒なのだ。もちろん傑作とは、本来そんなにたくさん生まれるものではないが、それでもSFが一面ではサイエンスを土台にしたものである以上、最新科学の成果を応用した新人類テーマなりスーパーマン・テーマなりの力作が、そろそろ出てもいいような気がするのだ。
 その意味で、ぽくは日本SFが育てたサイポーグ・テーマ(サイボーグ人間も、ある点では新人類となりうるだろう)に期待しでいる。