星新一のこと 福島正実

 星新一のことを書こうとすると、ぼくはいつもきまって、奇妙なためらいを感じさせられる。
 ある程度は知っているはずの−−あるいは、知っていなければならないはずの彼のイメージが、まとめようとすると、たちまち崩壊を始めるからである。もちろん、それは、程度の差こそあれ、どんな人物に就いても、同じことがいえるだろう。人身攻撃をするときか、でなければ提灯もちをするときででもなければ、人間だれだって、それほど簡単に、彼はかくかくしかじかの人物だなどと、いってしまえるものではない、まして、作家はなおさらだ。
 にもかかわらず、星新一の場合は、ぽくにとってほかの人物の場合とはちがうようだ。まさに<程度の差>がありすぎるらしいのである。
 たとえば、ある作家について考えるとき、その作家の作品系列あるいはそのテクニックは、なんらかの意味で、その人物像と一致する。かりにその関係が、まったく逆であった場合ですら−−つまり、つねに恐れを知らない諧謔小説をかいて人を驚かせる作家が、その実は大変な小心者であるときなどーーそれは、その作家の精神構造を知る上で十分な手がかりになる。それらのすべてが、その作家のトータル・イメージをつくる材料の一つになるのだ。
 ところが、それが、星新一の場合、通用しない。かならずどこかがはみだしたり、にじんだり、ぼやけたりしてしまうのだ。
 星新一というと、まず一番に、連想されるのは何だろうか。小松左京や、矢野徹や、石川喬司たち、SFのなかまと酒を汲みかわしながら、徹底した−−いわぱ天衣無縫な馬鹿ばなしを、いかにも楽しげに、嬉々として−−そのショートショートの冴えによく似た sense of gab の閃きを見せつつ無限に話題をリードしていく彼だろうか。お義理にも、話術が巧みなわけではない、そのとき、その話の内容が、それほど深く何かを抉っているわけでもない、しばしばそれは、単なる語呂合わせから発想されたものにすぎないことがある、それなのに、性格的にそうした馬鹿ばなしに抵抗を感じる者までも、他の追随者たちと一緒に否応なしに引きずり込み時を忘れさせてしまう−−そうした、形容しがたい魅力を持った彼だろうか。世の常の常識を、なまなかなデリカシーや心使いを、場合によっては他人の不幸までを、無残に茶化し戯画化し洒落のめしてみせる、その一種の、抵抗しがたい小気味よさだろうか(ぼくたちはよく、星新一を中心に車座になってえんえんと打ち続くこのばか話を、他人が見たらさぞ気違いの集まりだと思われるにちがいない、といったものだ)。
 だがぼくたちは、同時に、そんな彼のイメージとは、およそ裏腹なもの−−どうにもそぐわないものを、彼が持っていることを知っている。
 たとえば、礼儀正しく、作法、序列を重んじ、しかつめらしい顔をした星新一も、やはり正真正銘の星斯一であることをだ。
 彼がよく投書や投稿の宛名に「御中」と書いていないのを発見して「こんな不作法な手紙には返事を書く必要がない」あるいは「読む必要がない」というとき、彼は心底そう思っているのだ。
 講演をしたり、テレビに出たりするときの星新一が、作品の雰囲気や、ましてリラックスしたときの彼とは全く対蹠的に、非常なマジメムードであるのも、彼にとってはわざとらしい演技でもなければ不器用さがすけて見えたというわけでもない。彼がその状況を、フザケのめすべきでない、と考えただけなのだ。
 出版記念会などで、スピーチを要求されると、彼が好んでいう言葉に「作家は孤独だ」というのがある。いい古されて、もう何の味もなくなってしまったように見えるその言葉が、いかにも育ちの良さを感じさせる童顔の星新一が、大柄な身体をやや前にかがめ、下うつむき加減のポーズでいいはじめると、人は、一種微妙な違和感とともに、ふっと心に隙間風がしのびこむような実感を感じないではいられないのだ。ほんとうに作家は孤独であり−−星新一は孤独な作業に耐えているのだ、と思わずにはいられなくなるのである。
 そのとき、全く聖域の存在を認めず、世の中のすべてを茶化し皮肉り、あらゆる価値を転置してみぜる魔術師の星新一はそこにはいない。じっと孤独に耐えている、一人の作家がいるだけなのだ。
 そういえば−−はたして星新一の「大らかさ」とか「のんぴりした星新一」も、実在のものなのだろうか、とぽくは考えはじめる。それぱ、実は、彼の孤独さが、生来の育らの良さ、品の良さによってワンツイストされた擬態だったのではあるまいか。孤独なるがゆえに、ニヒルに対象を見つめる、実はひややかな視線だったのではあるまいか。
 星新一ショートショートは、最近、それまでのトリッキイな技巧主義から、ただ笑うがための笑いから、しだいに、一種の東洋的ニヒリズムを感じさせる近代的寓話へと変貌しつつあるように思われる。
 そしてそれは、ぼくにいわせれば、星新一が、当然行き着くべきゴールであったにちがいないのだ。彼の好きな言葉の一つに、「宇宙の人間に対するような非論理・非倫理」というのがある−−いまの星新一が、いわばそうした非論埋と非倫埋とによって語りあげる寓話を創造しようとしているのであれぱ、当然そこに、なにもかもが序列をなさない、カオスの悲しみともいうべきものが、にじみ出てきていいのであろう。
 とすれば−−彼が、相変らずSFのなかまたちとやっているあのぱか話も、実はそうした星新一ニヒリズムの燃焼にすぎないのではあるまいか。うかうかと、調子に乗り、「これはただのばか話ではない。この滅多やたらなディスオーダーの中から、何か創造的なものが生まれてくるのだ」などと、独り合点にうなずいてなど、いられないのではあるまいか。
 そして、もしもそうならば、SFなかまでトラブルが起ったときなど、彼の大らかさ、彼の心優しさ、親切さ、そんなものについその気になって、仲裁役を頼みこむなどということも、止めたほうがいいのかもしれない。もちろん彼は、一生懸命にやってくれるだろう−−しかし、他人の仲をとりもつなどということは、およそ星新一の本質にもっとも縁遠いものだろうからだ。

わからない、ということ 都筑道夫

 NHKテレビで放映していた「プリズナーNO6」が、わけのわからない終りかたをしたので、だいぶ腹を立てたひとがいるようだ。局の担当者は、視聴者からの電話で、なんども説明をもとめられたらしい。
 早川書房の編集者だったころ、私はジョルジュ・シムノンの「ペルの死」という長篇を、ハヤカワ・ミステリに入れたことかある。そのとき、かなりの読者から、苦情の手紙をいただいた。殺人事件の犯人が、だれともわからないまま、この作品は終る。主人公は、まわりの人間から、犯人と思いこまれる男だ。だから、最後まで真犯人のわからない小説を、ミステリとして出版するとは、なにごとだ、という叱責の手紙だった。けれど、「ベルの死」は心理スリラーで、犯人さがしのミステリではない。むしろ、真犯人がわからないことによって、結末が生きている作品なのだ。
 そこへいくと、「プリズナーNO6」のほうは、わからなさの性質がちがうから、腹を立てるひとがあっても、当然かも知れない。私は最初から、へんな終りかたをするらしい、という噂を聞いていたし、三、四回みて、これはまともな結末はつけられない、と思っていたので、おどろかなかった。もちろん、NO6が情報部をやめた理由にも、村がどこにあるかということにも、村をつくった目的にも、合理的な解決はつけられるだろう。だが、このシリーズを書いている作家グループは、たとえば「暗号」という、すぐれたアイディアのエピソードがあった。「おとぎ話」というスパイ活劇のパロディで、くりひろげた技巧も達者なものだった。それらを見てもわかるように、かなりな腕の持主かそろっていて、しかも、視聴者の洞察力を、そうとう高く想定している。だから、どう合理的に解決してみせても、あっといわせることはむずかしい、と観念して、シュールリアリスティックな結末をつけたのだろう。
 このごろ、パズラーを読んでいて、犯人あるいは犯罪方法がわかったとたんに、索漠としてしまうことが、しばしばある。ことにリアリスティックな推理小説が、リアリスティックに解決されたとたん、リアリティを感じなくなってしまうことが多いのだ。いちばん単純に理由をつければ、現代は合理的にわりきれる時代ではなくなっているせいだろう。そのくせ、すでに過去のものかも知れないパズラーという形式に、いまも私は魅力を感じている。
 だから、ついハズラーを組立てたくなって、けれど、書きすすめていくうちに、読者を失望させるよりも、むしろ混乱させ、怒らせてみたくなってくるのだ。わけがわからなけれぱ、新しくて高級だ、といっているのではない。わからないことのなかに、新しいショックが、サプライズが、みなぎっているときに、魅力を感じるのだ。合理性を単につじつまをあわせることでなく、想像力を推進するためのライフルとして活用したとき、ハズラーはSFとおなじように、もっとも可能性にとんだ小説形式になるだろう。したがって、私の内部では、古いパズラーと新しいSFに同時に夢中になっていることに、いささかも矛盾はない。ただ実際に書く段になると、制約の多い推理小説に馴れすぎたせいか、SFの自由さに、かえって手がすくむだけだ。
 たとえぱ地球人である主人公が、地球人とまったく共通点のない宇宙人と、コンミュニケートしようとする物語を、書こうとしたことがある。けっきょく、うまくいかないでショートショートにしてしまった。身動きできない状態で、闇のなかに閉じこめられた主人公が、おなじ状態でおなじ場所にいる宇宙人たちと話しあおうとする。だが、言葉は通じない。テレバシーで話しかけてくるものもいるが、送られてくるイメージは、理解できない。その恐怖と焦燥を書いたわけだが、イラストレイターは困ったことだろう。もっとも、まっ黒ななかに劇画にあるようなバルーン(吹きだし)をいくつか白くぬき、人間的、非人間的なもののかたちを、いくつも書きこめばいい、と思うのだけれど…
 ところで、畏友、星新一に対する私のただひとつの不満は、その作品のつねにわかりよすぎるところにある。それが、こんな感想を、私に書かしたらしい。

著者紹介

星新一(ほし・しんいち)
大正十五年東京に生まれる。
昭和二十三年東京大学農学部農芸化学科卒。
日本SF作家クラブ会員。
日本推理作家協会会員。
主著書
 『人造美人』(新潮社刊)
 『妄想銀行』(新潮社刊)
 『夢識の標的』(早川書房刊)
 『宇宙のあいさつ』(早川書房刊)
 『最後の恐竜』(早川書房刊)
主訳書
 フレドリック・ブラウン『さあ気ちがいになりなさい』(早川書房刊)
 ジョン・ウインダム『海竜めざめる』(早川書房刊)