鏡の国のアリス 矢野浩三郎

 毎日の通勤電車にゆられて、郊外の家と会社のあいだを往復しながら、時折ふと、いいしれぬ恐怖に捉われることがある。あらかじめ敷きのべられた軌条の上を、電車がいちども逸脱することなく、毎日、確実に走っていくことにたいする恐怖である。この恐るべき決定性に電車は不安をおぼえることはないのだろうか。
 いつのまにか窓外の風景が、昨日までの乱雑なオモチャ箱の中味のような東京の町並とうってかわって、広大な冨士の裾野に変じていたり、あるいは潮風になぷられる蜿蜒たる浜辺を、いつのまにか電車が走っていたりしたら……。それとも、九時ニ十分に新宿を出た中央線の電車が、あたりの風景はいつもと変りがないのに、数時間過ぎても終点の東京駅に着かないとしたら…。
 そうしたたわいもない空想は、いくらか恐怖心を柔げてはくれるが、そのまま私の意識が幻想にのめりこんでいくことはない。その間もなく、電車は確実にいつもの駅に着いていて、私のからだは人混みといっしょに毎日見なれたプラットフォームのコンクリートの上に吐き出され、私の足はほとんど自動的に出口に向かって歩きだしている。
 幻想は自己愛に似ている、と私は思う。コクトーのオルフェが冥府へ行くために、鏡を通過しなけれぱならなかったように、幻想とは現実を鏡にうつしてみることである。鏡それ自体はむろんファンタジーではなく、ファンタジーヘの通廊にすぎないが、鏡である以上そこには限られた枠組があるはずで、ぞの枠組をこしらえるのがフィクションの作業だろう。
 ありふれた経験だが、手鏡を片手にかざして鏡台の前に坐るのが、私の子供のころの秘かな楽しみのひとつだった。鏡台の比較的ひろい鏡面にうつった私の姿は、そのまま縮少されて手にかざしている小さな手鏡に映しかえされ、それがふたたび鏡台の鏡にはね返り、それが……。この無限の往復は私とそのまわりの空間が豆粒ほどの小さな点になるまで、あたかも四次元の空間が現出したかのように、鏡の奥へ奥へとつづく。
 豆粒になって鏡の国の住人となった自分の姿をながめるうち、私はぞくぞくするような快楽をおぼえた。そんなとき、だれかが部屋に入ってきたりすると、まるで悪戯にふけっている現場をおさえられでもしたように、あわてて手鏡を隠したものである。
 現実の鏡はニ次元的な働きしかしないか、フィクションの鏡は、その前に立つと、私の背中がうつっていたり、逆さまになっていたり、X光線をあてたように内臓が透けて見えたりする。あるいは氷晶体のように、私の過去や未来がうつしだされるかもしれない。
 しかし、ファンタジーは現実を鏡にうつしてみることではあっても、鏡にうつしだされた現実がファンタジーなのではない。さもなければ、フィクションはすべてファンタジーという、とんでもない拡大解決に陥ってしまうだろう。言いかえれば、幻想は現実認識のための一手段では断じてないということである。
 幻想作用というのは、現実の影(あるいはもうひとつの現実と言いかえてもよい)を、その意味を問わずに所有してしまうことである。それとも、所有するという錯覚を楽しむことであるかもしれない。だからこそ、鏡という限定された枠を必要とするのであり、それがナルシシズムの秘楽に似てくるのである。
 所有というのは手段がそのまま目的であるような関係のことをさしており、ここでは手段だけがおそろしく肥大して目的を食いつくしてしまい、論理すらもその本来の透明性を失っている。幻想の世界はいまや、他のどの現実とも似ていない、自律性を獲得したひとつの小宇宙と化す。
 フィクション(虚構)とは、読む人の心にエネルギーを伝達し、その人を走りださせるだけの熱力学的作用をもった、論理性に支えられた言語活動であるという定義がもし成りたつなら、ファンタジーは明らかにそうしたフィクションとは区別して考えなければならないだろう。サイエンス・フィクションの”フィクション”とファンタジーとの画然たる境界をさぐりだすヒントが、そこにちらついているという気がする。
 ところが困ったことに、私はプラッドベリの作品、とくに短篇を読むとき、自分のこしらえた、この便利なはずの定義がしだいにあやふやになってくるのを覚えて、落着かない気分にさせられる。どこにその境界線があったのか、なんとも心許ないありさまで、明らかにブラッドベリの巧妙な手品にだまされつつあるという焦りにも似た気持を味わうのだが、どこにその手品の種がかくされているのか見つけだすことができない。というより、見つけだそうという努力を、いつのまにか放棄させられている自分に気づくのである。
 そして私は、あの鏡台の前にこっそり坐っていた子供の頃の”鏡の国のアリス”にもどって、ひとり恍惚とブラッドペリの呪縛にかかっているという次第である。
 そこで敢えて意義を持ち出すことは、すっぱり諦め、孫引きで恐縮だが、まるでブラッドベリの意見といってもいいような、エディントンの言葉を引用させていただこう。
「われわれは未知の岸辺に、ふしぎな足跡を発見した。その原因を説明するために、つぎつぎに理論を打ちたてたわれわれは、ついにこの足跡をのこした生物を再構成することに成功した。その生物とは、われわれ自身に他ならぬことがわかったのである」