なぜぼくはブラッドベリの愚作を訳すか 伊藤典夫

 以上はひとりのヘソまがりなブラッドベリ・ファンのたわ言として、聞き流していただきたい。
 あとで詳しく説明するけれど、複雑な事情があって、レイ・ブラッドペリの初期作品を、四年ほど荊からぽつぽつと訳している。現在までに、ちょうど二〇篇。半分以上は、いわゆる埋れた作品である。習作に近いものだから、作者自身、思いだすのも厭なのだろう、短篇集やアンソロジイにもあまり再録させていない。それを、四〇年代のパルプ雑誌からほじくりかえしてきて、日本の著作権法では版権切れなのを幸いに無断で紹介しているわけだ。
 『火星年代記』で味をしめている読者には、さぞ見劣りのする作品ぱかりだろう。わが国のブラッドベリ・ファン第一号、星新一先輩が、ある日、ある人に、いつもの皮肉な調子でこういわれたそうだ。「伊藤典夫が訳してくれるおかげで、ブラッドペリにも愚作のあることがわかったな」
 おっしゃるとおり。翻訳もので最初にSFにとりつかれた人間は、わが国のSFの水準を不当に低く評価しがちである。だが、それはまちがいだ。外国の作家にとって都合のいいのは、全作品が日本の読者の目に触れるわけではないという点で、翻訳される氷山の一角の下には、屑同然の代物がひしめいている。ブラッドペリや、プラウン、シェクリイみたいに有名になりすぎた作家だけが、そういった作品まで掘りおこされる不幸な目にあうのだ。
 しかし、それでも、ぼくはブラッドペリの「愚作」を訳したい。訳して、わか国での彼の人気を下落させようなんていう、そんな下心はすこしもない。逆に、翻訳を業とするSFファンとして、できるだけ良心的なことをしようとしていたら、こうなってしまったというだけだ。
 SFファンが、優れた作家を発見したとき、どんな行動をとるか。あなたにもおぼえがあるのじゃないか。この楽しみを自分だけのものにしてなるか、そう思い、他人に読ませたくていてもたってもいられなくなるのだ。それが横文字なら、自分で翻訳したい衝動にかられる。星氏が、同人誌「宇宙塵」の初期の号に(当時未訳だった)『刺青の男』を熱のこもった調子で紹介され、そのなかの「都市」を訳しておられたのを、今でもはっきりと覚えている。
 ところが、ぼくが翻訳を始めたころには、ブラッドペリはわが国でもっとも有名なSF作家のひとりであり、その代表作はあらかた訳されていた。初期作品は入手困難であったから、新作を待つ以外にない。ところが海外のSFを紹介する立場にいるSFファンの心は、一般のファンとはやや異なる反応をする。たまに彼の新作が雑誌にのると、すぐ買ってきて読みはするのだが、それが翻訳したいという衝動と結びつかないのだ。理由の一つは、ぼくに先物買いの傾向があるせいで、ブラッドベリみたいな有名な作家はもうこれ以上訳す必要はないという心理。もう一つは−−それはあとで書こう。まあ、そんなわけで、ぼくの関心は長いあいだ未紹介のほかの作家に向けられていた。
 SF研究家、野田昌宏氏の厖大なパルプ雑誌コレクションが、ブラッドベリの初期作品の宝庫であることに気づくのは、そのころだ。クラシックSFにあまり興味がないので、ぼくのところにパルプ雑誌はほとんどない。だから野田氏のアパートを夜中に襲っては、プラッドベリの短篇がのっている雑誌を借りてきて、片っ端から読んでいった。そして一つの発見をした。
 作者がニ○代半ばに書いた作品のなかには、正直にいって愚作もあったし、欠陥の目立つものも多かった。だが、それを補ってあまりある貴重な要素が、それら初期作品にはほとんど例外なく含まれていたのだ。
 どういえばいいのだろう。気迫。若さ。作者の内部で創作意欲をかきたてている火。金銭的な目的とは無関係に、彼に作品を書かせている、精神の奥底にひそむ何かどろどろしたもの。それが感じられるのだ。
 技法的にはまったく問題ないが、彼の新作が、ぼくの翻訳意欲をそそらなかったのも、それでわかる。『火星年代記』は彼の内部の火の勢いと技法の習熟が、ちょうどバランスをとった時代に発表されたものであり、それがこの作品を成功させた理由なのだ。『刺青の男』『太陽の黄金の林檎』『華氏四五一度』『十月はたそがれの国』あたりまでは、それが適当なバランスを保って、優れた作品となっている。ところが、それ以後になると、内部の火勢はしだいに弱まり、ブラッドペリの作品は技法だけの空疎なものになっていく。まだ、五〇代にはいったばかりの作家に、こんなことをいうのは酷かもしれない。だが、彼の最近作などはぽくにはどう見ても、出がらしとしか思えなかった。
 未完成だが、何か強烈な炎を内に泌めた初期作品と、完成されているが、空っぽな近作−−どちらをとるかといわれれぱ、かりにぼくが無責任な読者の立場にあったとしても、ためらわず前者をとるだろう。そして紹介するからには、星氏にどう思われようとも、訳者としての責任は持ったつもりだ。人により尺度は違うだろうが、ぽく自身の尺度に従って、どうにもいただけない愚作まで作者の知名度によりかかって訳すようなことはしなかったし、ブラッドベリ自身の判断が誤って、埋れていた傑作もなかにはある。ハヤカワ・ミステリ・マガジンにのせて好評だった「戦争ごっこ」「黒い観覧車」などがそうだ。
 ほくの考えかたがおかしいかどうかは、やがて早川書房から出版されるだろう彼の最新の短篇集と比べて判断していただくことにして、とにかく今ぼくは満足している。遅く生まれすぎた不幸で『火星年代記』を訳すことはできなかったけれど、彼の傑作のいくつかを自分の手で紹介できたのだから。