クラークと通信衛星 伊藤典夫

 通信衛星による宇宙中継のアイデアを最初に思いついたのが、アーサー・C・クラークであることを、あなたはご存知だろうか。彼がこの理論を発表したのは、一九四五年。もちろん誰よりも早く、先見の明には驚くほかはないけれども、そこでもう少し頭を働かせていれば、たんなる名声ばかりか、とほうもない富が彼のものになっていたかもしれないのだ。クラークが、濡れ手で泡の金儲けをみすみす逃した有名な話を紹介しよう。
 一九四五年秋、アメリカの電波関係の雑誌ワイアレス・ワールドに、「地球外中継所」と題した論文か掲載さ
れた。小説家としてのデビューは翌年になるが、ノンフィクションとしては、これがクラークの第三作である。
 この中で、彼が扱ったのは、人工衛星による宇宙中継の問題だった。地上の極超短波中継すらまともにできていないこの時代で、宇宙ステーションなどは、まだSFの世界に属していた。しかし、ロケットが秒速八キロの速度を出せるようになるなら、大気圏外にそんな施設をつくるのも不可能ではない。要は、地球全土を力バーするもっとも経済的なネットワークを考えることである。そして彼は、赤道上空三万五千キロの高さに、三つの人工衛星をそれぞれ百ニ十度離して置く案を提出した。その高さだと、地球の自転と人工衛星の速度がつりあい、衛星か地表のある一点の上空にとどまるようになるからだ。エネルギー源には、太陽を使う。「熱電気と光電子の分野における発展が、将来、太陽エネルギーのより直接的な利用を可能にするだろう」この予言は適中し、数年後には太陽電池が発明され、現在ほとんどの人工衛星や宇宙探索機の動力源となっている。実際、クラークの予想が外れた大きな個所は、エレクトロニクスの発達を過小評価したこと(人工衛星を有人だと想定したのだ)と、電力の消費量を少なく見積りすぎていたことの二つだけだった。
 クラークは書いている。「このアイデアの特許をとることは一度も思いつかなかった。これは、想像力の欠如だとしかいいわけのしようがない。この論文を書いた大戦中の最後の春には、それから十三年後に最初の不細工な通信衛星(スコア、一九五八年十二月)が軌道をとび、二十年後にその商業化が実現するとは、夢にも思っていなかったのである」
 邦訳もあるノンフィクション『宇宙の探険』やその他の多くのSFで、通信衛星のアイデア普及に努めているうちに、いつのまにかそれは彼独自の考えではなくなってしまっていたのだ。
 今からでは手遅れかもしれないか、もしかしたらと考えて話を持ちこんだ先が、同じSF作家仲間のシオドア・L・トーマスのところ。マサチューセッツ工科大学を卒業した卜ーマスの本職が、特許弁護士だったからだ。この顛末は、トーマスがレナード・ロックハード名義で書いた実名小説「手まどる職業」(アナログ誌一九六一年)に詳しいが、かいつまんで説明すると−−
 今からでは、もう遅すぎる。アメリカの法律では、ある理論をおおやけにしてしまったら、それから一年以内に特許庁に申請を出さなくてはならない。だから十数年を経た現在では、まったく無理な相談なのだ。
 しかし、もしクラークが一九四六年に申請していたならば、特許をとることができ、彼のところに巨万の冨がころがりこんでいただろうか。トーマスによると、これもまた駄目なのだ。これには有名な判例が先にある。アメリカ海軍のフィスクという提督がおこした特許問題である。
 一九一ニ年、彼は飛行機に魚雷を積んで落すアイデアを特許局に申請し、認められた。もちろん海軍は、そんな馬鹿げた考えには耳を貸さなかったのだが、それから数十年してとうとう実用化されてしまったのだ。フィスクは訴訟をおこし、第一審では海軍が彼に十九万八千五百ドルを支払うことになった。ところが第二審で、それがくつがえされた。フィスクは特許権を持つことはできないというのである。
 なぜなら一九一二年当時においては、魚雷を運べるほど力のある飛行機も、飛行機から落されたときのショックに耐えるほどの魚雷も存在しなかったからだ。将来には可能かもしれないが、フィスクは一九二一年には、科学的根拠のまったくない机上の空論の特許権をとったことになる。もちろん、それは無効である。
 一九四五年には、ロケットを大気圏外の軌道にのせることは不可能であったし、数年先にも実現の見込みはなかった。クラークのアイデアは、フィスクのそれと同じ根拠のない(!)空想にすぎないというわけである。言うまでもなく、特許をとることはできなかっただろう。しかし、もしとれたとすれば−−特許の有効期間は十七年。だから特許は、通信衛星コーポレーションが設立される寸前の一九六三年に自動的に消滅してしまうことになる。
 けれども、クラークは思うのだ。彼がもう少し企業的頭脳に恵まれていたら、法律の抜け穴など簡単に見つけだし、今ごろは作家業などやめて悠々自適の生活を送る身分になっていたのではないかと。
 現在の彼の唯一の慰めは、通信の発展に貢献したことにより、一九六三年、フランクリン工科大学からスチュアート・パランタイン・メダルを贈られたことである。これまでの受賞者は、ベル電話研究所のJ・R・ピアース博士、トランジスター、メーザー、及びレーザーの開発チーム。そういった錚々たるブロの中で、クラークはただ一人の(どちらかといえば)アマチュアなのだ。