現代科学とSF 小尾信弥

 アポロ11号の母船から二人の宇宙飛行士をのせた月着陸船が切り離され、月へ向っていった。それから約二時間半後に着陸船は月へ着陸、九時間後にはアームストロング船長が月面に第一歩をおろしたわけだが、その間あわただしくホテルとテレビ局とを往復しながら僕は、アーサー・クラークの月旅行のことを思いだした。もう十年ちかく前に、その頃アメリカにいた僕はハーバードの協同組合の本屋の棚で「月と人間−−空想的な月旅行」という本をみつけて買った。宇宙画では第一人者のポーンステルの絵が入った大版の本で、月の天文学、月への航行、月での生活という三篇にわかれ、それぞれ何人かの第一線の科学者が書いたものを編集してあった。たとえば、ソ連のゴジレフは彼が発見したフルフォンズス火山の噴火を、トマス・ゴールドは月面のホコリの理論を書くという具合であった。
 月への航行については、フォン・ブラウンとアーサー・クラークのものがならんでいたが、ブラウンの宇宙船が直接に月へ着陸し、そこから再び発射して地球へ帰ってくるというのに対して、クラークの計画はまさにアポロ11号のように、まず宇宙船を月のまわりの孫衛星軌道にのせるというものであった。高度八百キロの円軌道上で宇宙船は帰りの燃料をつんだタンクの部分を切り離してそこに残し、身軽な部分だけが月面に降り、探険して再び軌道上にもどってタンクの部分とランデブーしドッキングし、主ロケットを噴射して地球へ帰ってくるというものであった。アルプスの山頂をアタックする最後の段階で、下山の途中で必要な重い食糧までは頂きにまで運ばないようなものである。このような方針でクラークは、二つのロケットがタンカーで一つが月宇宙船という合計三つを地球のまわりの軌道に打上げ、そこで月宇宙船に燃料を補給して月へ出発するという往復のプランをかなり詳細に論じていた。
 フォン・ブラウンのロケット工学者としての天才的な才能と実行力が、アメリカに渡って得た厖大な経済力と工業力をもとに月へ向かってまっしぐらに進んだのに対してクラークは、現実に地球を脱出する能力を獲得した人間とその未来に対して、徹認した科学的なイマジネーションをもとに彼独特の予言的な考察を試みるようになった。それは、洞察に富むものであり、僕たちに自分たちの運命を考え、反省を求めるものでもあった。いいことか悪いことかは分らないけれども、加速度的に進んできているのが現代の科学や技術である。コンピューターがやがて宗教にとってかわり、コンピューターが自分で考え、判断し、人間を制御してゆくという日がくるとは考えられないが、これほどまでに進んでしまった科学と技術なしでは生きてゆけない人間とその未来を考えるのがSFであるならば、勿諭それがSFのすべてではないが、クラークはまことに正統的なSF作家であろう。
 物質的な進歩におしつぶされてしまい、人間の社会的な構想力が衰弱しきっているのが現代である。それは当然現代の文明に危機をもたらしているし、その未来を危うくしている。自由に未来を構想できるということが人間に与えられた能力のひとつであるならぱ、僕たちはその能力を百パーセントに行使してゆくぺぎだろう。そのひとつが科学であり、またSFもそのひとつであろう。その意味で、科学もSFも、それを支える精神という点では切り離せないものであるように僕には思える。
 事実は小説より奇なり、というように、自然科学では、予想もできなかったような新しい事実が、それこそ日を追って見つかっている。とくに、僕が専門としている宇宙科学の分野ではそれが著しい。これまで築いてきた科学が、主に地球上の実験室を中心に発展してきたものであるのに対し、広い宇宙のなかでは、そのような実験室で進められてきた科学法則を延長したのではとても予想できないような桁はずれで多様な現象が起っているからであろう。特に、これまで光学的な望遠鏡を中心に低いエネルギーの現象で宇宙を眺めてきた僕たちにとって、最近本格的になった高エネルギーでの観測が、準星パルサーガンマ線天体を始めとするいろいろな新天体を発見してきたことは、このような事情を裏がきしている。
 しかし、小説よりも奇なりというのは、科学者がそのような事実を予想していなかったからのくり言にすぎない。しかし、人間や文明の未来にとって、そのようなくり言は困るのである。確かな科学技術の知識と的確なその動向を根底にしたSF作品が、世界的に書かれ、読まれ、拡がっているのは、やっぱり人間はあまりおろかではないということかも知れない。僕は万事に楽観的なので、そんな風に考えている。