クラーク、そしてSFへの期待 奥野健男 

 ぼくはSFの批評はもちろんのこと、SFについての随想もなるべく書かないことにしている。なぜなら、ぼくは子供の頃から小説を読むことが三度の飯よりも好きで、受験勉強の最中でも、空襲のさなかでも、工大や東芝の研究所での高分子化学実験のあいまでも、親や教師や上役の目を盗んでは、小説に読みふけった。一生小説ばかり読んで暮らせたらどんなにいいだろうと空想した少年時代の願望がかなえられて、文芸評論家になってしまったぼくは一生小説を読み続けなくてはならないごとになった。しかし職業になるとあれほど好きだった小説を読むのが、最近少々苦痛になって来た。明日〆切の文芸時評のため今晩中にあと六冊文芸雑誌を読まなくてはいけないというぎりぎりの時、ぽくはSF、あるいは古代史や地誌の本を読む。その時のたのしみは少年の頃試験の前日に小説を読むのと同じでスリルにみちてこたえられぬ。この最後のたのしみであるSF読みも、批評など書くようになると味気ない義務に変るかも知れない。ほくはSFだけは純粋なたのしみとしてとっておきたくて、SFについいて書くことをいつも断わってる。書くのならSF評ではなく、SFそのものをひとりこっそりとたのしんで書きたい。
 それなのに世界SF全集の月報などをなぜ引受けてしまったかというと、この巻がほかならぬアーサー・C・クラークの巻であるためについうかうかと乗ってしまったのだ。それほどぼくはクラークに弱いのである。と云ってぼくはクラークの全面的な信者ではない。「白鹿亭綺譚」などの短篇は、コナン・ドイルにつながる英国流の上品な諧謔や機智にあふれているが、ぼくは余り好きでない。ぼくの中に紳士然とした礼儀正しいサロン趣味が欠けているためだろう。彼の「未来のプロフィル」などの科学解説書も、ためにはなるかも知れないが、退屈である。シリアスな近未来ものも全部が全部、好ぎだとはいえない。
 だがクラークは、ぼくにSFのどうしようもない不思議なおもしろさ、醍醐味を最切に教えてくれた作家なのである。それは彼が一九四五年米国のアスタウンディング・サイエンス・フィクション誌に発表した処女作「太陽系最後の日」Rescue Party である。この中篇小説を一九六一年荒地出版社から出た「空想科学小説ベスト10」(その前年の一九六〇年ニ月号のSFマガジンに掲載されている)で宇野利泰訳で読んだときに、ぼくは子供のように胸が高鳴るのをどうすることもできなかった。「はたしてこれは、何人の責任であろうか? そうした問題がたえずアルヴェロンを苦しめつづけた」このさりげない需き出しから素晴らしい。はるか悠久の過去からこの全宇宙の王者貴族であったアルヴェロンの種族をはじめさまざまな宇宙種族が乗っている<<銀河系巡視宇宙船>>は一万二千隻あり、約百万年おぎに銀河系の八百億の太陽系を巡回している。四十万年前に巡視したときはその第三惑星におぴただしい生物が住んではいたが知的生物は見当らなかった太陽系から文化の存在を示す電磁波がキャッチされた。ところがその太陽系がいまやノヴァ化し爆発寸前にあるので、知的生命を救うためアルヴェロンたちの宇宙船が救援に向う。しかし決死の救援も間に合わない。ところがラジオを知ってからたったニ世紀にしかならない池球人類が幼稚な原始的ロケットの大船団を組み、宇宙のはるか彼方に自力で脱出の旅に出発していた。
 こう筋書きを説明しても読んだときの感動の千分の一も伝わらない。宇宙の貴族からみたら発生したばかりの全く若い原始的な地球人類が、かつて全宇宙になかったようなヴァイタリティを持って奇蹟の脱出、発展を企てる。特に末尾の暗示的な文章など、憎らしいほどぼくたちの心臓を揺り動かす。ぼくはひょっとすると世界の先進国に対する日本人の運命をここに見たのかも知れぬ。作者は英国あるいは米国への愛国心をもとにしたかも知れぬ。しかしこの作品はこういう愛国愛民族のナショナリズムのヴァイタリティを見事に地球人類愛、地球ナショナリズムに転化している。ぽくは志し哀えるたびに、また人類の未来に絶望するたびに、この作品を読み返す。何度読みなおしてもあらたな感激と興奮が湧きあがってぼくは愚かにも涙ぐむ。こんな作品はほかにない。まさにSFのいや地球人類文学の傑作と言ってよい。
 仮にも文芸評論家であるぼくは、職業柄めったにこんなにとりみだした絶賛の文章を書くことはない。しかし「太陽系最後の日」は読み返せば読み返すほど、ディテールまで素晴しい作品だ。この発想をより思想的に発展させたのが「幼年期の終り」で、ここにも地球人類のヴァイタリティと未知の可能性へ賭ける作者の思想か強くあらわれている。ここでは地球人の唯我独尊はなく、さらに巨大な宇宙の霊のもとに、一度滅びの悲劇を経て再生する地球人が描かれ思想的に深くかなしさをたたえているが、他力的である点がやや不満だ。それより「太陽系最後の日」の人類が先進宇宙の中でどのような苦闘を演じるかを読みたい気持になる。
 SF以外の文字では幻想的な作品が好きなぼくだか、SFではプラッドペリより、空間、時間の極限を行く壮大なシリアスな長篇が無条件にたのしい。アシモフハインライン、ウインダム、エフレーモフ、レム、そして小松左京光瀬龍らをSFの主流と考える。そこではより大胆でより科学的な厳密性が要求される。クラークはそういう理想的なSF長篇を書き得る得難い作家である。近未来ものの「海底牧場」「火星の砂」もそのリアリティに感銘させられたが、アポロ11号の直前に読んだ「地球光」の月面の描写や「月植民地」の反乱などの強いリアリティと必然性は衝撃的であった。ぼくはこの迫真的リアリティと豊かな科学知識と未来の人類への大胆な哲学的考察を十全に生かした空間性時間性を総合したSFの決定版を、クラークの畢生の仕事として期待したい。いやクラークに限らず、ぼくはこれから宇宙に進出するであろう人類の遠い未来の姿を確実に垣間見た気持になれるようなSF作品を是非読みたい。ぼくたちの生きているうちにに恒星間旅行もタイムマシンも異星の高等生物に会うことも実現しないだろう。それだからこそこのSF作品を読むことができただけでも二十世紀後半、いや二十一世紀の初頭まで生きた甲斐があったと、この作品を読めた彼らは幸福であったと遠い未来人から言われるような作品に、ほくは死ぬまでに是非ともめぐり会いたいのである。