SFの文学性 中田耕治

 ある日、私のところに友人の福島正実から電話かかってきた。
 お互いに逢う機会がなくて、三、四年ぶりに久闊を叙しあったわけだが、彼はそのとき、SF小説と文学の問題について短いエッセイを依頼してきたのだった。たまたま、その数日前、私はパラードの「結晶世界」の書評を書いて、それを読んだ福島正実が私のことを思いだしてくれたわけだった。
「SFと文学の問題なんて、あまり考えたことかないなあ」私はいった.
「つまりさ、SFの文学性に関して、批評家がいろいろ論議しているだろう。だけど、どうも的外れな意見が多いような気がするんだ。それで、きみにエッセイを書いてもらいたいと思ってね」
 私は久しぷりに機会をあたえてくれた福島正実の好意がうれしかった.
 だが、SFについて、文学について、私が何を知っているだろう?
 SFについて考えることは、私にとって宇宙について考えるくらいむずかしい。宇宙の本性や歴史を考えるためには、宇宙が何でできていることから検討するのが順序だろう。私たちが現在観測し得る宇宙は水素からウランまでの規則ただしい、しかも混沌としたさまざまな元素から組成されている。どうしてこれらの元素は現在かくあるのか、また、どのような原物質から成っているのか。


  ああ、それはばかげている
  地の中で一瞬にして自然が 
  金を作ったなどというのは。
  その前に何かがあった
  何か遠いもとの物質があったはずだ


 これは、もしかするとシェイクスピアぐらい偉かったベン・ジョンスンの戯曲の一節だが、こう考えたとき、ベン・ジョンスンはいわぱSF的な発想をもったのか。
 おなじことは、たとえば核エネルギーについてもいえるだろう。
 いうまでもなく核エネルギーは、現在、人類がもっとも深刻な不足として直面しはじめているエネルギーの不足を解消させるものとして考えられている。(ここでは、軍事用の核エネルギーについてはしばらく考えない)それはただちに、あたらしい利学革命の前兆、乃至は象徴と考えられた。核エネルギーそれ目体よりも、あたらしいサイエンティフィック・エイジの到来に世界はわきたったといえる。
 こうしたオプティミズムは、むろん原子力技術のおどろくべき進歩の速さを反映している。もう少しはっきりいえば、私たちの科学や技術がどれほど無限のひろがりをもち、いかに成功したかを私たちが認めるにつれて世界じゅうに行きわたった全般的な楽観のあらわれであった。
 だが、私はひそかに呟くのだ。「人類はいまや自ら生存することを欲するかどうかを問うべぎである」と語った最晩年のヴァレリーのことばを。こう問うたとき、ポール・ヴァレリーは、いわばSF的な発想をもったのだろうか。
 私たちの世紀は、いまや情報産業時代と呼ぱれているが、コンピューターの技術の応用における、これまたおどろくべき発展が、私たちに限りもない幸福をもたらした。いつだったか、私はコンピューターが作曲した音楽を聴いたことがあるし、四行詩を書いたことを知った。また、トマス・アクィナスの全著作は、約千三百万語だそうだ、その全著作にあらわわることばのインデックスをつくるためには、五十人の学者が四十年間かかってやっとできるほどの事業だという。それが現に、イタリアのある図書館で、コンピューターにかけるために、古い努力が必要とする時間や労力に比較して圧倒的に短い、容易な仕事として進行しているという。
 こうしたことは、知識、知識の探求がますます統一し、結合しつつあることを物語っている。宇宙の起源にはじまり、地上における生命の発生、ぞの後の進化と人間の歴史、高エネルギー分子理論、そして「スンマ・テオオギカ」まで、ことごとく連続体をなしているわけである。もはや全体から、あるいは全体の組みたてから孤立した知識や、ほんとうの理解はない。ベン・ジョンスンも、ポール・ヴァレリーも、トマス・アクィナスも知らなかった幸福ではないか。
 もはや、私たちは、「ユウレカ!」と叫びながらお風呂からとび出したアルキメデスや、裁判にかけられて自説を撤回しながら、執念ぶかく「それでも地球は動く」と呟いたガリレオの不幸とは無縁なのだ。
 現在の未来論は、まさにこうした幸福のうえに築かれている。私たちは、この幸福に於いて、大規模な科学的、技術的問題は解決可能だと信じている。そして、SFのかなりの分野は、この意味で幸福の文学なのだ。
 いつだったか、アーサー・C・クラークの原作による「ニ○○一年宇宙の旅」という映画を見た。あの映画をごらんになった人には説明する必覧がないが、冒頭の部分は、人類に進化する以前の猿の集団の描写がつづく。その猿の一ピキが、偶然何かの動物死骸の骨をつかんでたたきつける。それが「道具」の発見だった。
 と、つぎの場面には、大宇宙の空間に壮大な宇宙基地が、慄然たる星辰を背景にあらわれたではありませんか。
 おお、何という幸福! 私は胸が痛くなるほど感動して、それからあとは、あんまり幸福で眠ってしまった。眼がさめたときはラスト・シーンで、宇宙飛行士が、永遠なる胎児になって幸福な眠りを眠っていたから、やっばりいい映画を見たという幸福感で、また胸が痛くなった。いや、頭かも知れない。
 つまり、少し飛躍していえば、あのお猿さんが牛の骨だか馬の骨を発見して以来、人間のあらゆる組織、人類がおのれを政治的、社会的環境に関係づけてきたのは、それまで牛の骨をもたなかった不幸という枠のなかで考えられた基本的な哲学の反映である、といえるだろう。私たちが現在かく在って、現在の政治、経済、社会を作ったのは、幸福の追求がいつも牛の骨によって打ち砕かれるという人間の知識に対する反応なのだ。
 考えてみると、文学にあらわれてくる主人公たちはみんな不幸だなあ。ラスコーリニコフ、ジュリアン・ソレル、エマ・ボヴァリ、それに、ぼくの好きなヘミングウェイの可哀そうな主人公たち、フォークナーのエミリイやサトペンやポパイたち。
 SFは、福島正実が正確に指摘したとおり、現在の種種さまざまな問題を、時間的、空間的な広がりのなかに投影し、そこに結ぷシュミレーション像と現在を比較することによって、現在への洞察を試みる文学である。
 私としては、一つだけつけ加えたい。その現在への洞察は、お猿さんが牛の骨をつかんだという不幸を忘れてはならたいのだ、と。
 私たちは、まだまだ不幸なのである。